被虐の死神

二瀬 降

「私を殺して」


二人きりになった音楽室で彼女が言った。何の前置きもなく唐突に。

「…は?」

驚いて彼女の顔を見た。何せ僕らはそれまで話したことすらなかったのだ。

傾きかけた西日が窓から差し込んで、彼女の横顔を黄金色に照らしていた。

「……私を殺して」

俯きながらもう一度彼女は言った。懇願するように。さっきよりも声がか細かった。長い髪が彼女の横顔を隠していて表情は見えない。

「……私は、私がいなくなった世界を見てみたいの。……それに、」

彼女は顔を上げ、ゆっくりと僕の目を見つめた。反射的に僕も彼女を見つめ返す。茶色い瞳が夕日に透けていた。

「ユウキ君は、そういうことに興味がありそうだから」

そう呟いて、彼女は微笑んだ。

何と言ったら良いのか分からなかった僕は、しばし考え込む。

放課後、ほとんどの生徒が下校していた。

その証拠に僕らの微かな息遣い以外、静まり返った校舎からは何の音も聞こえなかった。

部活に入っていない僕はいつもならすぐに帰るのだけれど、ちょうどその日はたまたまコーラス部の伴奏を頼まれていて、珍しく居残ることになった。

きっと誰かが、僕がそこそこのピアノのコンクールで優勝したことを聞きつけてきたのだろう。

合唱の練習が終わり、特に用事もなかった僕は、もう少しピアノを弾くことにした。今日の伴奏で不覚にも間違えてしまった箇所があったのだ。

気になったところを練習し終え、カバンから別の楽譜を取り出して(僕はよくピアノの楽譜を持ち歩いている)、その中から適当に弾いているうちに日が傾いていた。

そして、僕は窓辺に佇む彼女に気が付いた。確か二年生だという彼女は、僕たち三年生の間でも話題になるほど美人だった。

僕がしばらくその姿を見つめていると、不意に彼女が言った。「私を殺して」と。



「……いいよ」

なるべく声が震えないように気を付けながら、僕は言った。

「……君が望む世界は見せられるかわからないけれど。……それでもいいの?」

僕は俯いて、夕日に照らされた鍵盤に語り掛けるように言った。そうでもしないと耐えられそうになかった。何かが彼女に吸い取られていってしまうような気がしたからだ。

彼女が振り返ったのが、気配で分かった。

「……私を殺すと言ったら、もう、後戻りできないんだよ?」

彼女は僕の問いには答えずに言った。

「途中棄権はなし。……やめたかったら、私を殺して。」

僕はゆっくりと頷いた。

「それでいいよ」

「本当に?」

僕はようやく顔を上げた。案の定、彼女が訝し気に僕を見つめていた。

「……ああ」

僕は自信がなくなって、また視線を落としながら言った。

「……そんなためらい傷程度に、私を殺す勇気は、あるの?」

彼女の視線が舐めるように僕の右腕を這う。……無数の自傷行為の痕。僕が一線を越え切れなかった回数。生者と死者を分けるラインを。

「……この傷の回数分ぐらいは、僕だって死のうとしたよ」

言い訳をするような僕の声が、虚しく響いた。

彼女がフッと笑うのが分かる。……嘲笑だろう。

「まぁ、そろそろいいんじゃないかと思っていたから」

僕は立ち上がって楽譜をカバンにつめた。彼女と目を合わせる。

「だいぶ予行演習はした。……俺はどうやら、追い詰められないと死ねないみたいだ。……だから、君を、殺したい。……そうしたら逮捕の恐怖に駆られるだろ?」

「そして事件は被疑者死亡で不起訴。……めでたしめでたし」

彼女がパチパチと手を叩いた。僕は頷く。

「それでいい。……僕は気づいてしまったんだよ。自分の限界にね」

自嘲的な笑みを浮かべながらカバンを肩にかける。いつもと同じはずのそれが、今日はやけに重く感じられた。

彼女も自分のカバンを肩にかける。

音楽室を出て歩きながら、彼女が

「連絡先を交換しよう」

と携帯電話を取り出した。

「ほら、作戦を立てないと。……私を、どうやって殺すのか」

なるほど、と合点して僕も自分のスマートフォンを取り出した。

よく見てみると、彼女の携帯電話は古い折りたたみ式だった。

メールアドレスと電話番号を交換し終え、校門をくぐるころにはもう、日が沈んでいた。紫色の空に、ひっそりと月が浮いている。

別れ際、彼女は

「……今日のこと、二人だけの秘密だよ?」

といたずらっぽく笑って、門の前に停まっていた黒いBMWに乗り込んだ。


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被虐の死神 二瀬 降 @nacht_f

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