百年の孤独

逢坂 小太郎

百年の孤独

 生ぬるい風が、吹き込んできた。


 その日初めて店のドアが開いたのは、開店時間を五分ほど過ぎたころだった。

 初めての客はまたしても彼だった。決まって月末の金曜日に店に訪れる中年の男だ。

 中年と言っても、うだつの上がらない腹の出た情けない男を想像してはいけない。巷で流行りのナイスミドル、とでも言おうか、理想的な年齢の重ね方をした男と言う印象を私は持っていた。


「百年の孤独を、ロックで」


 ざらついた金属質の声が響く。声の主である彼はゆっくりと店のバーカウンターの一番奥の席に腰を下ろす。そこが彼の特等席だ。カウンターしかないこの店においては常に客と店員である私とが向かい合わせになる。無意識に、ドリンクを待つ男の隅々まで目を走らせてしまう。キレイに切り揃えられた爪と氷を砕く私の手を見据える瞳とが、彼の神経質さを思わせる。


 他の客は私のような若い女との談笑を喜んで受け入れる。あくまで無愛想な私に、様々なことを問いかける客は少なくない。しかし、彼は自ら襟を開くこともしないし、こちらから触れてもいけないような、何かがあった。


「こちら百年の孤独のロックでございます」


 ありがとう、の声を聞いた私は再び氷を砕く作業に戻る。本来、開店してすぐは手持無沙汰で突っ立っていることが多いのだが、客の前とあっては何かせざるを得ない。手近なものとしてアイスピックと氷とを見つけたに過ぎなかった。


 男が外した腕時計の秒針の音が、狭い店内に響く。CITIZENのクォーツ式の物だ。黒い革ベルトに白の文字盤のシンプルなそれを、カウンターの隅に彼は置く。そう言えばカウンター席に座る際には腕時計などの装飾類を外すのが本来のマナーだと、どこかで聞いた気がする。普段腕時計をしない私には関係のない話だが。


 ところがしばらくすると、その秒針の音に合わせて私も氷を砕き始めていた。カッ、カッ、と派手ではないが目立つ音を奏でる。そこに何かのシンパシーを覚えたのか、私は彼に声をかけた。普段の私ならそんなことをしなかったのだろうが、その日の私はなぜか彼に声をかけたのだ。昔見たドラマのヒロインの言い訳を真似るなら、満月だったからよ、とでも言おうか。だが、その気紛れが何か他の物のせいでは無かったことを証明するためにもその日が満月で無かったとだけは、言っておこう。


「今日はお仕事帰りですか?」

「ええ、はい。少し早く終わったので」


 一瞬目を合わせるとすぐに逸らしてしまう。する人がすればシャイだとか、恥ずかしがり屋と取られる仕草なのだろう。だが彼がするとクールと言う一言に尽きる。


 カラリとグラスの中の氷が音を立てる。普段通りビールグラスを持ち上げる。サーバーから注ぐのはハイネケンだ。この店のオーナーが日本のビールにはないコクとキレがある、と他の営業をはねのけるのだ。自然飲み続ける内に私もハイネケンに慣れてしまった。元々海外ビールではパンチの強い黒ビールが好きだったのだが。


 注いだ泡を一度捨てる。キメの粗い泡は捨てろと言うのも、オーナーの教えだ。勢いをつけすぎないよう慎重に泡を注ぐ。慌てて注いだ泡はすぐに消えるのだ。


「乾杯、よろしいですか?」

 断らせる気などないが彼に問いかけた。

「ええ、構いませんよ」

 快くグラスを掲げてくれた。初夏の日差しに焼かれたのか、淡いブルーのジャケットから覗く手首から先だけが浅黒かった。しなやかな指だが力強さを感じるのはそのせいだろうか。

「いつも月末にいらっしゃいますよね?」

「ええ、そう言えばそうですね」

 初めて彼が笑みをこぼした。

「なんだ、いつもその日を狙って来られてるのかと思ってました」

「いえ、自然と月末の金曜日になるんです」

「理由はお伺いしない方がいいですか?」

 少し意地の悪い笑みを浮かべてみた。しかしなぜかそれに対する彼の表情は寂しさであるとか、悲しさであるとか、暗い影を落とすものに私には見えた。

「聞かれてお話するよりも、お話ししたい時に話したい。構いませんか?」

 彼も茶目っ気のある笑顔を返してくれた。ただのクールな男ではないらしい。ポイントアップである。


 男は皆藤、と名乗った。皆藤なにがしであるかまでは教えてはくれなかった。そして名刺の類も見せなかったので、本名かさえ分からない。それを疑ってしまう空気を醸す男なのだ。

 しかし会話は弾んだ。

「どうしてバーテンダーに?」

「父の影響です。父が飲食店をやっていまして」

「なるほど。ではこのお店もお父様の?」

「いえ、よそで修行して来いと放り出されました」

「獅子は我が子を千尋の谷に落とす、と言うことですか」

「それほど格好のいいことではないですが、大学を中退してしまいまして。この道で食っていくならオレを頼らずに一人でやれるところまでやれ、と」

「厳しい方ですね」

 皆藤が腕時計のリューズを回す。

「昔はベタベタに甘やかされたんですが、大学の一件以来キツくなりましたね」

「ご兄弟は?」

「兄が二人。どちらも大手企業に勤めています。私だけ、商人です」

「お父様は本当はあなたのことが可愛いのではないですか?」

 今度は眼鏡を外してレンズを拭う。

「私のことが、可愛い? この親不孝者のことがですか?」

 観察眼が優れていそうな男だから少しがっかりした。兄二人をあれだけ可愛がる父がそんなことを考えているとは思えない。

「私も人の親なので分かりますよ。自分の思うようにいかない、いや、この言い方はおかしいか」

 しばらく思案して口を開く。

「自分の想像を超えてくることをする子供と言うのは、とても可愛いんです。危なっかしくて、手取り足取りしてやりたいのが本音でも、それをしない。自分の枠に嵌めてしまっては、自分が彼ら彼女らの足かせになる。それを避けることも、また親の愛ですよ」

 柔和な笑みをこぼす。この調子で説かれるとすとんと腑に落ちる。店が終わったら半年ぶりに父に連絡してみようかとまで思わされた。


「では、本題に」

 彼が重々しく言った。本題とはなんだ?

「私は咎人です。罪人のことですね。ただ法律を犯した訳ではない。自分の中の法を犯した人間です」

 突然の謎の告白に頭の中が疑問符でいっぱいになる。理解が追い付かない。

「私は時の牢獄に百年収監されていました」

 時の牢獄?

「時の牢獄、と言うのは咎人の魂のみを現世から隔離します。私は前世の残り五十四年と、今世の四十六年をその中で過ごしました。時の牢獄と言うのは、魂の刑務所です。本来の体から魂を切り離して魂のみを捕らわれの身とする。しかし、我々の知っている刑務所とは違います。まず誰とも会えません。それは囚人同士でも、刑務官のような役回りの者もいません。なので無論、人と話せない、顔も見られない。牢屋自体はどんな物かと言うと、ただひたすらに地平線の見える砂漠です。水を飲まなくとも、体を拭わなくとも、平気です。体がないので汗もかかず、喉も乾きませんので」

 皆藤は重く息を吐き出す。

「一体それがどういうことなのかと言うと、ひたすら疎外感と孤独を感じる時間です。酒や食事や、音楽、物語、自然、そのどれにも触れられない。ただ太陽を見て無為に時間を過ごすことしか出来ないのです。それは、ありていに言えば絶望です。ずっと、延々と、あの時、ああしておけば良かった、あんなことしなければ良かった、そればかりが頭を巡る。しかしそのどれもが既に手遅れ、何も出来ない無力感と自分への憤り。それが止まないんです」

 摩訶不思議な話に圧倒されて言葉を出せない。しかし哀しみ、自分に怒る姿は本物だ。

「これだけでは話したりないのですが……伝わるものとも思えないので話を進めましょう。では、その間、私の体がどうしていたかをご説明します。それよりも、私が収監されるに至った経緯をお話しするの先の方が良いでしょうか。その方が良いかと思いますので、そうします。私は前世で八十歳でこの世を去っています。牢獄に収監される前、私には愛する女性がいました。ですが、彼女への愛情の深さが、自分では分からなかった。当時、いえ、その後の生涯を見ても彼女以上の女性は現れませんでした。それは今世もなのですが。

 先の話に戻りましょう。私の体がその間どうしていたかです。魂がなくとも、人間は生きられます。私は前世で結婚もしていたようです。子供も二人設けました。しかし、魂が切り離された私にはその記憶もなければ、自分の意思の介在しない行動です。それは今世にも及びます。知らぬ間に物心がつき、知らぬ間に思春期を終え、知らぬ間に青春を謳歌し、知らぬ間に峠に至りました。そこで私の魂は体に戻った。そうして送った時間は自分の成したものではないのです。私の体が、私の意思に背き、生存本能によってのみ、体を使役した結果なのです」

 鬼気迫る様子に、唾を飲み込むのも忘れた。

「牢獄にいた頃、そして現世に魂が戻ってから、心にあるのは一つのことだけです。自らの思いに背き、彼女と別れたこと、生涯をかけて愛すると誓った女性を愛することが出来なかったこと、それが私の罪でした。その罪を償うために、私は時の牢獄に収監されることになった。あなたも今、罪を背負おうとしている、違いますか?」

 

 脈絡のない話の最後、自分に向けられた言葉にドキリとする。


「あなたのことは調べさせていただきました。先ほどご家族の話を伺いましたが、概ね私の調べた通りです。そして私があなたのご家族について補足したのは、ご家族のことも観察した上での私の辿り着いた答えだとでも思ってください。まだ遅くはない、バーテンダーを辞めてはいけません」


 そう、私はバーテンダーを辞めようとしていた。不愛想ながらも天職だと思っていた。口下手だが、相手から話を聞き出すのは得意だし、今日のように長い話を聞くことは日常茶飯事だ。自分よりずっと年上の男性の仕事の悩み、年下の女性の恋の悩み、解決は出来ずとも彼らの本音を引き出せたのは私のらしさがあってこそだ。

 

 なのに、私はバーテンダーを辞めようとしている。

 なぜか? 

 種も仕掛けもない、女の幸せを獲ろうとしているからだ。

 仕事を辞めて結婚してくれ、いまどきこんなプロポーズの言葉を選ぶ男は多くはないだろう。

 今のご時世、稼ぎは少なくなるし、男性の家事・育児への進出も求められる。共働きは必須と言っても過言ではないだろう。

 それでもバーテンダーを辞めることを突き付けられたのは、付き合っている彼が、二人目の兄の会社の友人だからだ。私一人が稼げなくとも、彼一人の財力で二人、そして新たな家族が出来ても食べていける。

 その時母親である私は、道楽のような仕事を続けていていいのか?  

 そう考えた結果、彼の圧力もあり、家庭に入ろうと思ったのだ。


「あなたは一体?」


「時の牢獄に収監された人間は、新たな囚人が現れないよう努めるのが役目なんです。あなたに危険信号が灯り、私が配された、ということです。覚えてもらいやすいよう、あえて月末の金曜日にこちらに伺っていました。国の馬鹿げた政策に感謝ですね」

 皆藤が微笑む。ここにはいない、父を思った。

「手前勝手にお話しさせていただきましたが、決定権はあなたにあります。私が訴えたことに何を思おうと、あなたの出した答えの通り生きてください。あなたがその答えに背かず生きれば、あなたは時の牢獄とは無縁で済む。幸運を」

 一息に言い終えた皆藤は、残りの酒を飲んで店を出て行った。

 その夜、私の将来を巡る考えが止むことはなかった。


 一か月後、フィルムを巻き戻したように月末の金曜日に皆藤が現れた。

 開口一番、答えは出ましたか? と来た。

 ええ、とだけ答えた。

 それだけで全て、伝わった気がした。


          ――fin――

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百年の孤独 逢坂 小太郎 @kotaro_ohsaka

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