会いたい人

青空リク

喫茶mag杯

きっと誰でも、もう一度会いたい人がいる。


彼、弥彦もそうだった。彼は癌で亡くなった妻、香織に会いたかった。そして、謝りたかった。香織の生が絶たれた時、弥彦は声も届かない遠くにいた。仕事をしていた。弥彦が香織の元へ辿り着いた時、もうすでに彼女の体温は感じられなくなっていた。

弥彦は酷く後悔した。妻の死に立ち会えなかった自分を呪った。そして心の中で毎日のように香織に謝っていた。

妻が亡くなってからの日々は決して酷いものでは無かった。しかし、ただ退屈であった。

そんな日々の中で一つだけとても気になることがあった。それはある喫茶店だった。その喫茶店の名前は喫茶mag杯。変な名前な上、開いているところを見たことがない。平日、休日、朝、昼、夜。いつ行っても、その看板の文字はCLOSEのまま。ただ不思議な雰囲気を醸し出していた。いつか、同僚に聞いたことがある。

「あの喫茶mag杯がやってのを見たことあるか?」

「……? どこにあるやつ?」

「ほら、駅からここまでの道にある、パン屋さんの隣の……」

「……? パン屋の隣って、空き地じゃなかったっけ?」同僚は不思議そうな顔で答えた。

他の同僚にも聞いたが皆同じような答えだった。不思議だなぁ、香織。天国にいるであろう妻に語りかける。姿の見えない、遠い面影に語りかけることが彼の日課になっていた。

そんな日々の中。弥彦は久しぶりの残業をしていた。弥彦のパートナーが熱を出してしまったために、パートナーの分まで仕事を終えなければならなかったのだ。

「弥彦ー。お前もうそろそろ帰ったらー?」いつも遅くまで残って仕事をしている先輩が声をかけてきた。

「先輩は今日も遅くまで残ってますね」そう言うと先輩は照れたように笑った。

「ほら、新しく入ってきた男の子いるじゃん? あの子なんか仕事のペースが他の人より遅いみたいで、何か出来ないかなーってさ」

「なるほど。先輩こそまだ帰らないんですか?」

「え、うん。今日は特に予定もないしさ。弥彦は……あぁ、峯田の仕事か……。ん? 半分以上終わってんのー? じゃあいいよ。あとはやっとくから」

「え、でも……」

「弥彦ー。今日七夕だぜ?」

「はい。そうですね……」

「七夕ってさ、一年で一度だけ織姫と彦星が会える日じゃん?俺時々思うんだけどね、もしかしたら織姫と彦星だけじゃないんじゃないかなーって」

「……? 」

「大事な日だって事。一年で一度しか来ない大切な日。七夕の奇跡とかさ、ありそうじゃない?」先輩は笑いながらそう言った。

「まぁいいや。ほら!! もう帰れ帰れ!」

「はい。ありがとうございます」

「おー。お疲れー」そう言って先輩はひらひらと手を振った。弥彦はカバンを持ち会社を出た。

「さてと、俺もさっさと片付けてmag杯行かねぇとな。ばぁちゃん待ってるだろうし。あー、弥彦ちゃんと気づくかなー」そんな事を呟きながら彼は仕事を始めた。

いつもの駅までの道。夏だとはいえ、まだ少し肌寒い。ぼんやり歩いているとふと、違和感を覚えた。いつもは明かりがついていないはずの喫茶店、喫茶mag杯の明かりがついている。思わず店の看板を見ると、そこにはOPENの文字。なんで……? 彼は少し迷った後、時計を見てゆっくりとその扉を開けた。

「いらっしゃいませ」落ち着いた声が耳に入った。温かな光と、温かな空気。

「東條 弥彦様ですね?」……? なぜ俺の名前を?

「お待ちしておりました。お客様の席はあちらです」そう言って男は弥彦を案内した。弥彦は不思議に思いながらも、遠くに見える見覚えのある人影に目を奪われ、そこへ向かう男についていった。

「こちらです。ご注文が決まりましたらお呼びください。それでは、良い夜を」そう言って男はカウンターに戻った。

弥彦は男の言葉を聞く間、終始上の空だった。それも当然だろう。男が案内した席には亡くなったはずの妻が座っていたのだから。

「……香織?」彼が問いかけると彼女はふわりと笑った。「久しぶりだね。弥彦。とりあえず座ったら?」そう言った彼女は、弥彦が知る香織そのものだった。声、仕草、表情。全てが香織だった。

「な、んで……」弥彦は泣いていた。ただただ目の前の出来事が信じられないでいた。

「もぉー、泣かないでよ。相変わらず泣き虫なんだから」香織は困ったように言った。

弥彦は席にゆっくりと座り、そして香織を見つめ口を開いた。

「香織、あの、ごめ」

「ストップ!!」香織は突然叫んだ

「え?」弥彦がキョトンとしていると、香織は怒ったように言った。

「弥彦、今謝ろうとしたでしょ? なんで謝るの? 私が知らないと思ってた? 貴方が私の治療費稼ごうと一生懸命働いてたこと。その中でも時間見つけて睡眠時間削って病院に来てくれたこと。それを知ってて、どうして私が貴方を責められるの?」

「香織……」弥彦は驚いていた。ずっと、ずっと責められると思っていた。それだけの事をしたと思っていた。だけど、目の前の彼女からはそんな気配は微塵も感じられなかった。

「弥彦。私はね、今の貴方を知りたいの。今どんな事をやっているの? 楽しいことはある? 私はね、貴方がいない日々がこんなに退屈だとは知らなかった」彼女はそう寂しそうに言った。

「それは、俺も同じだよ」そう言う彼を見て彼女は笑った。

「じゃあご飯でも食べながらいっぱい話そうか」

彼はハヤシライスを頼んだ。彼女はナポリタンを頼んだ。二人で、沢山の話をしながらゆっくりとご飯を食べた。まるで、一緒にいなかった日々を埋めるように。

少しの間が出来るとふと周りの音が聞こえてくる。店に流れる音楽。隣の人の笑い声。

「原田様。お孫様はまだのようですね」

「そうなのよマスター。きっとまた誰かを助けてるんだわ。いつもそうなの。自分の事を気にせず他人ばかり気にして……。でもね、血は繋がってないけど自慢の孫なの」

「それはそれは、おや……。そろそろですね」

また一人。夜の喫茶店に客がやってきた。

「ばぁちゃん!! 久しぶり!」


彼女と彼の間には今、等しい時間が流れてる。この店の客全員、同じ時を共有している。彼は気づいていた。きっとここはそういう場所なのだと。離れ離れになった二人を結ぶ架け橋なのだと。だからこの瞬間。時を共有できるこの瞬間を大切にしよう、と。だから彼女と話した。話題が尽きるまで話した。

そんな中でふと彼女が言った。「再婚とか、してもいいよ?」

「は……? なんでそんなこと……」彼は突然の彼女の言葉に驚いていた。

「弥彦はさ、寂しがり屋だよね……。すぐに泣くし」彼女は言った。、

「そんな事……」

「だからさ、私はもう一緒にいれないからさ、誰か弥彦のそばに居てくれる人がいるなら、それでもいいのかなーって」そういう彼女の声は震えていた。隠しているつもりなのだろうか。弥彦は「そんな事ないよ」そう言ってまた他愛もない話を始めた。

時間はとぶように過ぎていった。

「お客様。そろそろ閉店のお時間です」マスターに声をかけられて周りを見ると、ちらほらと何人かは席を立っていた。そして、今までは気が付かなかったが、沢山ある扉から出ていった。

「香織様の出口はあちらです」マスターは言った。

「ありがとう。弥彦。バイバイ」香織は寂しそうに言った。

「またね、だろ」彼が言うと香織は目を見開いて言った。「……うん! またね!!」そう言って手を振ってから扉に手をかけた。「香織!!」思わず彼は香織を呼び止め、抱きしめた。「また、また来年。この場所で……」彼がそういうと、香織は泣きながら答えた。「うん、また来年。この場所で」彼女はゆっくりと離れると「じゃあほんとにもう行かなきゃ。またね」そうして扉を開けるとそのの向こうへ消えていった。

「弥彦様の出口はこちらです」マスターに案内された扉の前には先輩が立っていた。

「先輩!!」

「おー、弥彦。良かったよーちゃんと気づけたんだな」先輩は笑って言った。

「先輩、なんで!!」

「まぁまぁ、積もる話はまた今度酒でも飲みながらね。ほらー、もうここ閉店時間だし。ね、マスター」そう先輩はマスターに問いかける。

「はい。そうですね」

「ほらね、じゃあ帰るよ」先輩は扉を開けた。冷たい風が店に吹き込む。

「望様。弥彦様。本日は良い夜をお過ごしになられましたか?」突然マスターが聞いてきた。

「もちろん!!」

「はい」

「それはようございました。それではまた会う日まで、さようなら」マスターは満足そうに笑うと僕らにお辞儀をした。

「またねー」

「じゃあまた」

そう言って僕らは店を出た。店を出て、後ろを振り返る。店の明かりは消え、看板のOPENの文字は魔法のようにCLOSEに書き変わった。

空を見上げるとそこには綺麗な天の川が広がっていた。

「また来年」

そう呟いた彼をきっと織姫と彦星は二人で見ているのだろう。

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