コップの中の漣

ゆあん

Inside Voice

 窓から見えるどんよりとした街並みは、私の気持ちとリンクして、今にも泣き出しそうだ。数年前は綺麗だった大企業の屋上看板も、汚れた雨で黒ずんでしまった。まるで泣き腫らした目元がアイシャドーで真っ黒に染まるように、あの看板も、塗装が剥げるほど泣いたことがあるのだろうか。


 この景色を好きになるのには、随分と時間がかかったことを思い出す。恋人と同棲するにあたり、「彼の会社と駅に近いから」という理由で選んだこの1Kは、それ以外は最悪と言って良かった。今時都会のクセにコンビニが遠く、スーパーも無い。すぐ側に線路があって、電車が通過する度に耳障りな音が入り込むだけならまだしも、家が僅かに揺れた。広くも無くおしゃれでもないこの部屋で、唯一褒めるところがあるとすれば、この大窓から覗く景色だ。高台六階立て最上階からの見通しは良く、徐々に下っていく町並みが印象的だった。ところ狭しと連なる建物の屋根は意匠も年代もバラバラで、最初はなんて汚くて狭苦しい街なんだと思ったけれど、見ることに時間を使おうと思えばそれなりに楽しめた。


 そして、この景色をいつしか愛しいと感じるようになった。



 彼の仕事は忙しく、残業は当たり前だった。それは日を追うごとにエスカレートしていき、終電はましな方、気がつけば帰って来ない日の方が多くなっていた。二人分作っては一人で食べる冷めた料理には、いつしかトッピングした覚えの無い塩味が加わって、それが自分の涙によるものだと気がついた夜もあった。


 二人の関係が変わっていく。彼を失えば、私がここにいる理由は無くなる。そんな不安を紛らわしてくれたのも、変わらないこの景色だった。このくたびれた街の何処かの一部屋に、私のような境遇の人がいるかも知れない。窓に寄りかかって、会うことのない同胞と乾杯した。


 それでも、希望の光というものは、いつだって眩しく感じるのだ。


「明日は早く帰れるから。祝おう、二人の記念日」


 朝起きて携帯に届いていたメッセージは、私には太陽よりも眩しく感じたのだ。彼に内緒で会社を休んで、電車で数駅向かった先で買い込んだのは、とびきりの食材とシャンパン。腕に食い込むビニールの痛みなんて微塵も気にならなかった。私の手料理を美味しそうに食べる彼の笑顔を再び目の前で見られるんだ。そう思えば、すべてが幸せに感じたのだ。久しぶりに包丁で指を切っても、それが勲章のようにさえ感じた。


 予定通り準備は終わった。用意したプレゼントもバレないように、でもいつでも取り出せる場所に隠した。シャンパンは二人が恋人になったときの思い出のもの。私を口説き落とす為に当時の彼が無理して用意してくれたものだと知ったのは、それから随分後の事だっけ。私は指先で鈍く輝く指輪を眺めながら、その時を待った。


 しかし予定の時間になっても彼は帰ってこなかった。三度目のメールから随分と経って、私は携帯を見るのをやめた。最初に送ったハートで彩られたメールが、自分を余計に寂しくさせた。


 シャンパンのラベルにはフランス語が可愛らしく書いてあった。調べてみると、「二人の為に」と言う意味らしかった。グラスに注げば、優しい桃色が弾けた。


「あんたは悪く無いのにね」


 ボトルにはあの日と確かに変わらないラベルが貼り付けれている。変わったことと言えば、グラス越しに見通した彼のかわいい笑顔がそこに無いこと。そして代わりに写ったのは、疲れ切って、傷ついた表情の私だった。


 均等に注いだグラスだけど、私のばかりおかわりが注がれていく。彼のグラスは誰かが階段を駆け上がるたびに波紋を作り、最初は期待に胸が踊った。やがてそれは薄れて、電車で揺れるそれを目印にただただ時間を数えていたけれど、いつしかそれも無くなった。気がつけば、いつものように窓の縁に寄りかかって、グラスを掲げていた。




 私は今、あの時と同じ様に景色を眺めている。これももう最後になると思うと、名残惜しかったのだ。戸締まりを確認して、部屋の中に振り返る。家具が運び出された部屋には生活感がまるで無くて、ここで過ごした数年間が実在していなかったみたいだった。


 最後の荷物を背負って、靴を履いたら再び部屋を見た。お気に入りの窓の枠には、シャンパングラス。あの日の物と同じものが注がれている。これは祝いの酒だ。あの日の私と、そしてそんな私と共に過ごしてくれた、この部屋との、別れの酒だ。


「それじゃあ」


 ちょうどその時、電車が走り抜けていった。グラスの中の桃色の波紋が、鈍色の光を反射して、キラキラしていた。


 私がこの部屋に戻ることはもう無い。でもいつか、この部屋に幸せを求めてやってくる人の為に。私では叶えることの出来なかった幸せを、叶えてもらう為に。


「さよなら」


 私は扉を閉めた。振り返らなかった。それが私とあの部屋との別れに相応しいと思った。ヒールをカツカツと鳴らして階段を駆け下りた。それに答えるように、冷えた金属扉が、バタンと鳴った。


 あの扉の向こうで、あの日の私達のシャンパンが、今日も電車を数えている。

 いつか帰ってくる人を、私の代わりに待っている。

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コップの中の漣 ゆあん @ewan

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