妖猫奇譚

御蔵

プロローグ

 いのちは繰り返す

 一度きりの炎を燃やし

 数多のいのちの輪に乗って

 廻り廻って 貴方のもとへ──



 夕方の商店街。母に頼まれたお使いを済ませた帰り道に、千尋は馴染みの魚屋から声をかけられた。慣れていなければ吃驚するほど元気な声で朗らかに笑う魚屋のおかみさん。猫好きで有名な彼女がここ最近千尋を呼び止める理由は一つしかない。一月前に千尋の家にやって来た仔猫のことだ。

 雨降る公園の片隅で、段ボールの中に汚れたタオルと共に入れられ放置されていたという、捨て猫の典型的な形で千尋に見つけられた仔猫。初めてのペットで右も左もわからず頼ったのがこの魚屋のおかみさんだった。自らも猫を飼い、知識も経験も豊富な彼女は親身になって世話の仕方やオススメの動物病院を教えてくれた。それ以来、買い物があってもなくてもこうして猫の近況を報告する。

 今日もそんな話をして、普通に家に帰るつもりだった。ところが。


 ニャーオン


 人懐っこい声が一つと、足にすり寄る柔らかな毛の感触。

 足元を見れば、見事な毛並みの大きな黒猫が一匹、千尋の足に頭を擦りつけている。一般的な猫より少し長毛で艶やかな毛、頬の横と頭の後ろ、長いしっぽの先の方がクセなのか外側にひよっと跳ねている。瞳は海を思わせるサファイアブルー。まん丸で好奇心旺盛そうなそれを、鳴くときに嬉しそうに細める。猫の造作の美醜はわからないが、これは一目で美しい猫だと感じた。

「新入りですか?」

「違う違う。最近引っ越して来たお家の子でね。女の人が好きでよくこうして寄って来るの」

おかみさんがしゃがんで頭を撫ぜると、黒猫はゴロゴロと気持ちよさそうに目を細めた。

 その矢先──


 キキィィィィッ


 耳障りな音と共に衝突音が商店街に鳴り響いた。

 驚いて音の方に目を向ければ、千尋のいるところからそう遠くない場所で自転車とその運転手が倒れていた。どうやら運転を誤って柱に突っ込んだらしい。

 単独の事故。けれどそれは、一歩間違えれば千尋が巻き込まれていた。

(この子がすり寄って来なかったら……)

 いつも通りに魚屋を離れていたら、おそらく今の事故は自分にも被害が及んだ。

 運転手の意識がない。救急車を呼べ。行きかう叫び声に、急に寒気がして足元の猫を見る。感情の読めない青い瞳が、まるで全てを見透かすかのように静かに事故現場を見つめている。ふいにピクリと耳が動いた。


「おいで、○○○」


 静かな声だった。

 突如起きた事故に皆がさざめく中、そこだけ何も干渉を受けていないように佇む人物。銀の髪の中性的な顔立ちの女性──いや、声からして男性だろうか。頬にかかるほどの銀髪は夕日に染まり、細身な印象を受ける容姿は人間から、それどころか浮世からも離れた空気を放っている。眼鏡をかけているせいで感情が読み取れない。そもそも感情など持ち合わせていないようにさえ思える。

 おいでの後が聞き取れなかった。けれど呼ばれたのは名前だったのだろう。黒猫は素直に踵を返し、銀髪の人物の足元に付いた。そのまま一人と一匹は、まるで事故など見えていないかのようにその場を去って行く。

 何故か引き止めたかった。けれど「待って」という声が出ない。


 夕暮れの商店街。

 近づいて来る救急車の音が、何かの始まりを告げているようだった。

 

 

 商店街を少し離れ、昔ながらの街並みが並ぶ住宅街に入ったところで、ふいに黒猫が塀に飛び乗り口を開いた。彼が道の左側を歩く時は話を聞きたいということなのだ。

「当たりじゃなかった。でも、外れでもなかったよ」

「兆しはあったってことか」

 黒猫が人語を話したことに全く驚くこともなく、当たり前のように言葉を返す青年。

彼の名は御蔵カイという。華奢な銀縁眼鏡の奥に潜む思慮深い瞳の色は右目が青色で、左目が琥珀色。それをさらに隠す様に、サラリとした色素の薄い銀の髪が目元、耳元、頬を覆っている。抑揚に乏しい表情、声。まるで人形のような彼に対して、足元の黒猫は饒舌だった。

「たぶんどこかで接触してる。匂いはすごく薄かったけど、事故が起きたってことは何かしら利用するためだったのかもしれない」

「これで十二件……」

「間違いなく何かやろうとしてる」

 漆黒の脚を器用に動かして、カイの隣を並走する。傍から見れば飼い主と飼い猫の暢気な散歩に見えただろう。考えに耽り始めたカイを横目に、黒猫はツイっと目を細める。

 またカイを悩ませる日々が来た。

 前回は五年前。その前は八年。さらにその前は……もう覚えていない。

 付かず離れず、まるで鬼ごっこやかくれんぼのようにその波はやって来るのだ。カイはそれを受け入れるが、自分はそれをよしとしない。今回こそは断ち切ると決めている。けれどそれを口に出して言うことはできない。

 どこかの家から子供たちの笑う声が聞こえてくる。この世に潜む危険などまるで知らない屈託のない笑い声。

 辺りに人の姿がないことを確認して、黒猫は塀から飛び降りた。

 次の瞬間、黒猫の姿は消え代わりに黒髪の青年が姿を現す。カイより頭一つ分高い長身の青年は、海色の目を細めて後ろからカイを抱き締めた。僅かに目を見開くカイ。しかし彼がそれ以上動じることはない。

「いきなりどうした」

「うん、何となく……」

伸びて来た華奢な指が少し跳ねている黒髪を優しく撫でる。青年の名前は御蔵早苗。人の姿に化けて世を生きる猫の妖だ。そして、カイもまた猫の妖。

「夕飯、何にしよっか……」

 カイの左の耳元でそっと囁く。見た目通りの華奢な身体。波に簡単に攫われてしまいそうな身体。それを繋ぎ留めるように、早苗はカイを包み込むように抱き締める。

夕暮れの道に二人の長い影が伸びていた。

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妖猫奇譚 御蔵 @mikula

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