東出君と華麗なる放課後

@mark555

東出君と6月の委員長

「そういえばさ」


 6月某日。梅雨の中休みなのか、連日の雨は嘘のように止み、夏本番を迎えるべく高くなる気温と湿度がカッターシャツをベタつかせる不快感にも慣れてきた、そんな放課後の教室。

 既に俺と彼女以外の生徒の姿はなく、部活動に励む運動部の声が、やけに響いて聞こえる。

 間も無く6時半を迎えようとしており、座った席を西日に照らされる中、彼女、"委員長"はこう言った。


「知ってる? "月が綺麗ですね"って、i love you的な意味があるらしいよ」


 漱石の『こころ』の主人公って別にそんな悪いことしてなくね?やっぱKが一番クズだわ、みたいな話題から、ふと放たれた一言だった。


 ちなみに、"委員長"というのは彼女の通称のようなもので、別に彼女はクラス委員や他の委員を務めている訳ではなく、だらしなく、イマイチ使えない役立たずなクラス委員のサポートとという名目でクラス内を仕切る内に、"委員長"と呼ばれるようになったというのがことの経緯だ。


 ちなみに、件の役立たずなクラス委員とは俺のことである。


 正直なところ、クラスのイベントや雑事、果ては生徒のお悩み相談的なことまで彼女が引き受けており、サポートしてもらっているというより、俺が委員長の小間使い、もといサポートをしていると言うのが実情だ。いやはや、面目ない。

 今日も、担任の教師から頼まれた期末テストの予定表の作成を手伝ってもらい、今しがた終えたばかりだった。

 ……いや、やっぱりこれはクラス委員の仕事の範疇を超えていると思う。仕事しろ、先生。


 とにかく、期末テストを控え、なんとなく切羽詰まったクラスの雰囲気に流され、強制下校の時間まで勉強でもしようかという話になった。

 それで、取り敢えず現国から取り掛かり、彼女の冒頭の発言に至る訳だ。続きをどうぞ。


 彼女の発言からしばらく、と言っても10秒くらいだが、無言の時間が流れた。

 別に返答に困るような質問でもない。ないのだが、まあ、諸事情につき答えたくなかった。

ふと、開け放たれた窓からぬるい風が吹き、委員長のポニーテールがそよいだ。

 さして長くもない髪を束ねた尻尾は、他の女子のそれよりもだいぶ小さめで、風にひらひら揺れていると本当に馬の尻尾のようにも思える。

 そんなくだらないことを考えていると、いつの間にか、委員長の頬が不機嫌そうに膨らんでいた。


「……無視はよくないと思うなあ、私」


 彼女の切れ長の瞳が更に細くなり、不満と共に視線をぶつけてくる。怖い。

 俺はこみかみをかき、何とか返答を搾り出そうと試みる。頑張れ、俺の脳細胞。


「ああ、いや、ごめん。なんか委員長の髪が馬の尻尾みたいだなって。ほら、ポニーテールってそういう語源らしいし」


 搾り出たのは、直前まで頭に残っていたくだらない考えだった。ご丁寧にくだらない補足まで足されている。馬の糞のような脳細胞だ。

 案の定、彼女は俺の返答に不服だったらしく、膨らんでいた頬が体感二割増しで大きくなった。

 昔飼っていたハムスター(名前はリチャード)を何となく思い出す。ゲージから奇跡の脱走を遂げた彼は、今どこで何をしているのだろうか。


「……しでっちはさ、そういう脈絡もなく突拍子もないこと言うクセ、直した方がいいよ。こっちの話、聞いてないのかなって思っちゃう」


 委員長は不満気に不満をこぼす。この会話に限らず思い当たる節が多過ぎるせいか、耳を通り越して心が痛い。

 ちなみに、"しでっち"とは中学で呼ばれていた俺のあだ名が高校でも一部定着したものだ。苗字の東出をもじったものらしい。

 このあだ名を聞いた担任教師は「ああ、確かにお前は"でっち"だな」と乾いた笑いを浮かべていた。

 後で丁稚(でっち)の意味を辞書で調べた時の気持ちは、今でも忘れていない。忘れてないからな、先生。


 それはともかく、これはあまりよくない状況だ。彼女の頬からこれ以上怒りが吐き出される前に、何とかして宥めなければ。

 こういう時は小粋なジョークで場を和ますのがよかったはずだ。俺のバイブルには確かそう書いてあった。


「どうしたんだ、委員長。そんなにほっぺた膨らませて。ところで、そのほっぺた何が詰まってんの? 夢と希望?」

「怒りと不満だよ!」


 文字通り、怒りと不満が吐き出された。

 馬鹿な。90年代式ギャグ漫画的ジョークは委員長に通用しないというのか。

 というか、そもそもその漫画もこんな感じのオチだった気がする。つまり、期せずして原作再現をしてしまったということか。それは喜ばしい。ファン冥利に尽きるというものだ。


 ところで、部活には所属していないものの、剣道有段者である委員長がいつの間にか竹刀袋を手に取っているのだが、これはどう回避すればいいのだろうか。教えてバイブル。




 委員長への平謝りの甲斐なく、俺の横腹は重い打ち身を負うことになった。


 それはともかく、強制下校の時間まで残り少なかったので、俺達はバタバタと荷物を仕舞い、学校を後にした。

 

 駅までは同じなので、暗くなり始めた帰路を委員長と並んで歩く。

 だいぶ夏らしくなったものの、時折吹く風が、蒸し暑さを幾分か緩和していた。

 道すがら、委員長と世間話を興じる。

 内容はどうでもいいようなことばかりで、昨日のテレビは何を見ただの、最近伊坂にハマっているだの、マラソンと長距離遠足のイベントが両方あるうちの学校は頭おかしいだの、それはそれとして教頭先生のくびれには神秘を感じるだの、益体もない話をしていた。

 くびれのくだりで肘打ちを食らったのは納得が出来ないが。あれは神秘感じるでしょう、誰でも。

 もう少しで駅に着こうかという時、委員長が思い出したように「そう言えば」と顔を向ける。


「閑話休題。"月が綺麗ですね"の話だよ」

「……現実に閑話休題って言葉を使う女子高生を、俺は初めて見たよ」

「いや、それはどうでもいいんだけどさ。ていうか、私も言った後にこれはどうかと思ったし、そこ触れられると恥ずかしいんだけど……」

「恥ずかしいことなんかない。こんな貴重な瞬間を見れた男なんて数えるほどもいないはずだ。ありがとう委員長。君は俺にとっての新たな光だ」

「えっ、あ、ど、どういたしまして?…………いやいやいや」


 一瞬顔を赤らめた後、委員長はかぶりを振る。

 チッ、誤魔化せなかったか。


「……さっきもそうだけどさ」


 委員長は前髪をいじりながら、

少し神妙な面持ちで言葉を零す。


「しでっちって、この話題避けようとしてるよね。なんで?」

「…………」


 バレたか。いや、まあバレるよな。

 何か理由があるかと聞かれれば、それはある。

 ただ、それは俺の胸に秘めておくような事柄で、というかぶっちゃけわりと最近の出来事なので、俺の心の整理が出来てないというか。



『ほら、"月が綺麗ですね"ってやつあるじゃん。私、やっぱ俗説は俗説だと思うんだよねえ。そんな風に告白されたところで、相手が分かる訳ないじゃん』



 忘れなければならないことを、思い出してしまった。

 断片に過ぎないのに、こうして頭をよぎるだけで動悸が止まらない。今にも変な声が出てしまいそうだ。「ピエッ」とかって。

 まあ、人に聞かせるような話でもないし、俺も出来れば話題にしたくはない。


 なので、観念して、最初の質問の方に答えることにした。


「夏目漱石が英語の教師をしていた際、"I love you"を「我汝を愛す」と訳した生徒に対し、「日本人はこんな風には言わない。『月が綺麗ですね』くらいにしておきなさい」と返したとされる。一般に、漱石が日本人の奥ゆかしさを普段から意識していたエピソードとして引かれ、創作物等多くの場所でエスプリ的に使われているが、漱石が本当にこれを言ったかどうかは定かではなく、あくまで俗説とされている、らしいよ」

「……なに、その辞書か何かを丸暗記したみたいな喋り方」

「気のせいだよ」


 委員長の目は懐疑的だ。俺は隠し読んでいたスマホをズボンのポケットに隠しつつ、話題を進行させる。


「それで、この話がどうしたんだよ」

「えっ? あー、うん。こないだテレビで見て知ってさ。そう言えばもう一つ同じような話も紹介されてたよ。二葉亭四迷のやつ」

「ああ、確か、四迷がなんかの飜訳で、ロシア語のi love you的な意味の台詞を"死んでもいいわ"って訳したやつだっけ。これも、原文が本当にそういう意味だったのかは怪しいらしいけど」


 ロシア語なぞ全く分からんが。


「そうそれ! しでっちよく知ってるね。まあ、スマホって便利だけど、ネットサーフィンもほどほどにね」


 ネットで調べたと決めつけるのはやめてもらおうか。いや、まあネットなんだけどさ。


「けどさ、すごいよね。もしそういう話が本当だったら、その時代の人にはそれで意味が伝わってた訳じゃん。私は自信ないなぁ」

「あ、それ分かる。100年前の女性って、どんだけ感受性豊かだったんだよと」


 ふと口にした言葉があらぬ意味に捉えられそうで怖い。

 あ、だったら。


「"月が綺麗ですね"で告白になるんなら、"豆が綺麗ですね"は"僕のために毎日味噌汁を作ってください"的な意味になるんじゃね?」

「ならねえよ。しでっちは今、日本中の文学少女を敵に回したからね。ちょっと漱石のお墓の前で土下座してきなよ」

「漱石が本当に言ったかどうか分からないのに……」

 

 委員長は路上にポイ捨てされたタバコの吸い殻を見るような目つきで睨みつけてくる。

 俺がドMなら大歓喜するところであるが、残念ながら俺の性癖はいたってノーマルだ。ただただ泣きそう。


 でもまあ、実際、この言い回しを現代で使ったとして、伝える相手が知っていることが前提だし、そもそも知的ぶってるというか、キザな感じもする。あまり女性受けはしないんじゃなかろうか。

 そんなことを考えていた俺の頭を見通したかのように、委員長が「でもさ」と口を開いた。


「この言葉があるお陰で、"好き"って言葉を使わない告白が出来る訳じゃない? 告白のバリエーションが増えるのはいいことだと思うけどなあ。男子的にも、女子的にも」


 やめてくれ委員長、その話題は俺に効く。やめてくれ。


 諸事情につき穏やかでない俺の心情をよそに、委員長はどこか楽しげに空を見上げる。


「話飛ぶけどさ、なんかいいよね。こういうの」

「こういうのって?」

「ほら、こんなしょうもない話しながらさ、いつもより遅い時間に二人で帰ったりするのって」


 そこで一度言葉を止め、委員長は俺の方に顔を向ける。


「なんか、青春してるって感じしない?」


 ニカリと笑う委員長は、暗くなってるはずなのに、目がくらむほど眩しく見える。正直、ドキッとした。

 俺じゃなかったら即死だっただろう。あんなこと言われた日には、世の中高生の九割は勘違いすること受け合いだ。

 思春期発、黒歴史行き、"こいつ俺に気があるんじゃね?"号乗車待ったなしである。その先は無間地獄だぞ。

 俺の動揺など露知らず、委員長は依然として楽しそうだ。

 ふと、委員長の足が止まり、ゆっくりと再び空を見上げた。

 薄暗くなった空は昼と同じく晴れ渡っており、そんな空を彩るように星が瞬き、ラグビーボールを思わせる楕円の月が中天に鎮座していた。


「……別にさ」


 委員長が、まるで独り言のように、か細く呟く。


「さっきの話とは、全然関係ないんだけどさ」


 星と街灯に照らされる委員長の顔は、少し強張って、なぜか、今にも泣き出しそうな、そんな顔に見えた。

 そして、ゆっくりと、紡ぐ言葉を確かめるように、彼女は言った。



「なんか今日は、月が綺麗だね」



 こころなしか震えているその声を、俺はしばし反芻する。

 もしかしたら、さっきまでの話題は、この一言のためのものだったのかもしれない。

 そんな自惚れをすぐさま脳内から追放する。

 委員長は、その話とは関係ないと言った。ならばこの言葉に意味などないのだろう。

 例えそれが逃げ道だとしても、誰のための逃げ道だったとしても、考えるのは無駄なことだ。


「そうだな」


 自分でもびっくりするくらい間の抜けた声で、言葉を返す。


「もし俺が死ぬなら、こんな綺麗な夜に死にたいもんだ」


 委員長が関係ないと言うのなら、これもただの一般論だ。

 さっきまでの話とは無関係で、無意味で、無価値な、ただの世間話だ。


「けどさ」


 なんとなしに、顔を上げる。

 ああ、本当に。

 星空の中でなおも輝く月は、何故か、俺を嘲笑っているように思えて。

 忌々しいくらいに、綺麗に見えた。



「俺はまだ、死にたくないかな」



 放った言葉に意味などない。あってはならない。

 委員長と同じように、俺の言葉にも、漱石やら四迷やらの話とは何も関連性はないのだ。

 だから、湧き上がる罪悪感や、胸にチクチクと刺さるような痛みなど、俺は微塵も感じてはいない。

 それでも、委員長の方を見ることが出来なかった。

 お互い空を見つめたまま時間が流れる。

 10秒と経っていないはずなのに、まるで時が止まったかと思えるほど長い時間、この場所にいるように思える。

 沈黙に耐えかねた俺が口を開くよりも先に、委員長の唇が声が漏れた。


「……そっかあ」


 声のトーンはいつものそれと変わらず、少なくとも俺には変わっていないように聞こえた。

 彼女は今、どんな顔をしているのだろう。少し首を動かすだけでその疑問は解決する筈なのに、やはり、俺は見ちゃいけないような気がした。


「まあ、私達まだ高校生だもん。死ぬ時のことなんて、そもそも考えちゃいけないんだよ」


 委員長の声は相変わらず平坦で、言葉から真意を読み取れない、読み取らせないような、そんな響きがあった。


「でもね」


 ふと、隣から、動くような気配があった。

 気が付けば、俺の目の前に回り込んでいた委員長の顔が、視界を固定していた。

 委員長は、笑っていた。


「綺麗に見えるよ」


 ようやく見れたその顔は、いつもとまるで違わないのに。


「しでっちはきっと、この月が綺麗に見えるようになるよ。それこそ、死んでもいいと思えるくらい」


 はにかむ彼女の顔は、見慣れたそれと変わらないはずなのに。


「きっと、そう思わせてみせるから」


 どうして、こんなにも。


「期待しててよね。じゃ、お疲れ!」


 いつの間にか、俺達は駅のすぐ近くまで来ていたようで、委員長は俺の返事を待たず、駅の中へと走って行ってしまった。

 一人残された俺は、こめかみに手を当て、深々とため息を吐く。

 その行為にどんな感情があったのかは、自分でもよく分からなかった。


 単なる世間話、のはずだ。

 委員長の言葉を額面通りに受け取れば、そうなる。そうなるのだが、別れ際の言葉は、とてもそうには聞こえなくて。

 そう考えそうになり、かぶりを振る。

 自惚れ、自意識過剰とは別れを告げたはずだ。黒歴史行き列車の切符はお陰様で完売御礼、追加注文は受け付けていない。

 頭の中でぐるぐると回り続ける委員長の言葉から逃げたかったのか、俺は、再度空を見上げていた。

 それも失敗だったと悟る。


 月を見る度に、あの人のことを思い出してしまう。


 死んでもいいと思える月だった。

 16年そこらしか生きてない俺でも、本気でそう思えるような、綺麗な月だったのだ。

 でも、その月が照らしたいと思っていたのは、俺ではなく、他の誰かだったという話で。

 だのに、俺は、みっともなく、その月を忘れられずにいるという訳だ。


 あまりにもありふれた、鮮度ゼロの、学校内外に問わずいくらでも転がっているような、陳腐な物語である。

 委員長に話した覚えはないが、学校というのは狭い社会だ。どこかで耳にしていてもおかしくはない。

 ただ、相手方はそんなことを口外する人ではないし、俺も恋バナが出来るような友達はいない。涙が出るぜ。


 取り敢えず、目下の問題として。


「どのツラ下げて学校行けってんだよ……」


 生憎と、この仏頂面しか持ち合わせがない。

 まあ、委員長のことだ。多分、いつも通りに変わりなく、いつもの委員長として接してくれるのだろう。

 例え、それが表面上だとしても。


「……委員長様々ですよ、まったく」


 自嘲なのか愚痴なのか、自分でもよく分からない思いを独りごちながら、俺はとぼとぼと駅の改札へと歩いていく。


 夏を予感させる風が、背中に吹きつけてくるのを感じた。

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