28話 天神、菅原道真の神眼
日曜日は晴れやかな夏日だった。
どうやら、隠れ家「天の岩屋戸」はどこでもドアだったらしい。道祖神さまのアプリケーションとはまた違った移動手段である。
端的に言えば、黒崎、藤磐邸の大穴から太宰府まで、私たちは身を隠しながらワープした。黒い穴を通り抜けると、そこは太宰府天満宮だった。
灯篭が並ぶ石畳の参道。広々と大きな本殿の朱色と金色が美しい。
「……もう、あたし、何も驚かんけんね」
鬼木が息だけでそう言った。
これには私も同意だった。いくらカミゴだからって、ここまでの奇跡が起きると思考回路が停止する。しかし、この人は違うようだった。
「あのー、本来、天の岩屋戸というのは、アマテラスが隠れたとされる岩のことですよね?」
ごく自然に荒江会長が質問する。意外にも詳しい。これに、綾乃さまが機嫌よく応えた。
「そうなの。この天の岩屋戸は、本物ってわけじゃなくてね。お祖父さまのもっと前の世代の方が、アメさんと一緒に創ったのだそうよ」
アメさん、というのは
いろいろとつっこんで訊きたいことはあるのだが、電車で一時間半はかかる距離をほんの数分で到着してしまったので、この穴を塞ぐまで私は口を開けずにいた。
境内は静寂に包まれていた。各地より観光に訪れるこの地は、道真さまが人払いを行っているだけで、実際には参拝客で賑わっている。
静かな社殿には道真さまが。その向かいには明水さんを筆頭に、綾乃さま、霧ねえ、私と鬼木と荒江会長が並んでいる。
今日の道真さまはラフなシャツではなく、黒い装束をまとっていた(教科書でよく見たことがあるものだ)。
「――それじゃあ、始めようか」
格好は厳粛さながらだが、口調は至って軽く、穏やかさを湛えている。
「よろしくお願いします」
明水さんと綾乃さまが同時に深々とお願いする。私も倣って腰を曲げたが、霧ねえだけは小さく会釈するだけだった。どうも、霧ねえはずっと不機嫌だ。
道真さまは「うむ」と深く頷き、厳かに咳払いする。
「それは六月のはじめだった。この騒ぎは、黒崎で起きた怪雨騒動から起きている。いや、本当はもっと前から起きている。十年前のこの時期だったかな。大國主、つまり恵比須が分裂を起こした頃に、私と彼が対立するようになった――」
まず、黒崎の大國主はスサノオと、簡単に言えば喧嘩をした。カミゴの取り合いが原因でスサノオが大事にしていた八尋家を大國主が奪ってしまった。それから、八尋家は大國主によって修羅人を生みだすようになる。
スサノオを消すため、そしてもう一度国を統治するため、大國主は邪に欲を膨らませた――という。
明水さんをはじめ、綾乃さまや霧ねえは神妙な顔つきで唸っていた。ここまでは、藤磐家と霧ねえが推測した通りだ。
私はゴクリと唾を飲んだ。
「大國主もとい恵比須はとある男に出会った。私は『天狗』と呼んでいるのだが、この男と結託した恵比須は一線を超えることとなる。それについては、シノがよく知っているだろう」
道真さまは笑顔で霧ねえを見た。
「……そうね。よく知ってるわ。もう忘れたいところだけれど」
低く暗い声で言う霧ねえ。しかし、すぐにその空気を払拭し、彼女も笑みを向けた。
「なるほど。あれも結局は天狗の仕業だったのね。恵比須さまにあれこれと吹き込んで、私の家族を消したと。そういうことね」
「その通り」
道真さまは深く頷いた。
「じゃあ、その天狗とやらがすべての元凶なのかしら?」
調子を取り戻したのか、霧ねえは滑らかに冷静に訊いた。すると、道真さまが首を横に振る。
「いいや。すべてと言ってしまうと語弊がある。これはもうどちらがなんていう段ではないのだよ。しかし、共通するのはどちらもこの国を手玉にとろうとしている。神にとって、それはそこまで深刻な話ではないのだが……」
深刻ではない? そんなはずないだろう。だって、今尚、先輩たちが危険にさらされているのだから。慎一兄さんだって、大変な目に遭っている。それなのに、神様にとって私たちは――
「神様にとって、私たちはおもちゃなんですか?」
堪らず口を挟んだのは鬼木だった。
「欲を引き出してるのは神様じゃないんですか? そうやって気まぐれに力を与えて、翻弄して……それなのに、遊んでるだけなんですか?」
「おい、やめろ、鬼木」
止めたのは荒江会長だった。私よりも先に彼女の背中に手を添える。出遅れた手をスッと引っ込める。
鬼木をなだめる間もなく、道真さまは声音を低くさせて言った。
「お嬢さん、神などを信用しちゃいけないのだよ」
口から出てきた言葉に、鬼木と私が同時に「え?」と声を上げた。どういうことだろう。そんなことを言われてしまえば、今までの私や家族はどうなるのだ。カミゴは、一体なんだというのだ。
真意が分からず、私も思わず前に進み出た。
「信用しちゃいけないって、どういうことですか」
「頼るだけ頼り、願えばいいだけのこと。
道真さまは薄っすらと微笑んだ。そこに、どんな思いが込められているのか知る由もなく、私は唖然と口を開いたままでいた。鬼木も同じらしく、また会長は思案げに地を見つめていた。
「さて、話を戻そう。でないと時間がないからね……人間諸君らにとって、恵比須と天狗の企みは驚異だろう。そこで、私は一つの気まぐれを起こしたのさ」
このフレーズに、私は引っかかりを覚えた。
気まぐれ……それは、つまり、
「あらゆるすべての事象の一方はきまぐれ、もう一方はそれを利用するもの……そういうことですね」
それまで黙っていた綾乃さまが鋭く言った。これに、道真さまは満足そうに頷く。すると、今度は明水さんが「やはり」と言った様子で口を開いた。
「では、あの怪雨は道真さまが起こしたのですね」
「いかにも、その通り。すべてを見据えた上で、私は恵比須への発破をかけた。私の読みは正しく、それまで水面下で動いていた計画――すなわち、カミゴ傭兵部隊の完成が早まった。黒崎周辺を含む北九州での超能力騒動もとい、未登録カミゴの発生が起きたのだ」
私は会長と鬼木を見た。巻き込まれた二人は納得がいかないようで、不満な表情を見せる。さすがの会長も機嫌が悪い。眉間のしわが深くなっていた。
しかし、それをも道真さまは気にしない。さっさと話を進めていく。
「同時に私は清水原くんに頼み事をしていてね。これが私の誤算だったのだが……まぁ、この件については彼に任せるとして、ひとまずはこの騒動を終結させねばならない。恵比須は今や、博多で暴れ始めている。友人たちも巻き添えになるだろう。だが、勝機はこちらにあるのだよ」
そう言って、道真さまは指で弧を描いた。その線が結ばれると、大きな楕円の鏡が現れる。
「ここから博多へ飛ぶことができる。天の岩屋戸ほど快適ではないが、電車で向かうより速いだろう」
「ちょっと待って」
すかさず声を上げたのは霧ねえだった。
「勝手に話を切り上げて、向こうへ追いやるっていうの? 冗談じゃないわ。怪雨を起こした気まぐれとやらが分からないじゃない。真実はまだ隠されているはずよ」
「うーむ……シノは本当に疑り深いね。私が人間の味方であることがそんなにも怪しいかい?」
「えぇ、怪しいわ。道真さまが女の子一人のために、どうしてここまでするの?」
――女の子……?
もしや、慎一兄さんが探している人だろうか。恵比須さまと横江先生に誘拐された人。
その人が道真さまを動かしているのか……?
「霧ちゃん、今はもう時間がないわ。その件は向こうに行ってからに……」
綾乃さまが間に入るも、霧ねえは聞かなかった。
彼女のまとう空気に圧がかかる。これには全員が避けるしかなく、道真さまだけが対抗できる。明水さんや綾乃さまは難しい顔をしており、私たち高校生組は困惑するしかない。
「あなたを動かしているものは一体、何なの?」
「そこまでは知らなくていいことだ」
「知らなくちゃ、私たちは先に進めないわ。願うことも、言うことを聞くこともできないし、しないわよ。納得のいく説明をきっちりとしてくれるんじゃなかったの?」
緊迫した空気の中、誰もが固唾を飲んだだろう。
霧ねえの問いに、道真さまはうんざりといった様子でため息を吐いた。
「はぁ……まったく、素直に願ったらどうなんだい。最近の現代人は強情で良くないな……良くない。本当に、これだから神様を辞められないんだ」
呟く声には、多少の自嘲が含まれているように思えた。それまでの圧が消え、どうにも弱々しい。
「どういうこと?」
霧ねえも空気を緩めた。
「……君たち現代人はなかなかこちらの思い通りにならないからね。だからこそ人を嫌いになれない。どうにも構いたくなるってことだよ」
道真さまは目尻を下げて言う。これに対し、霧ねえは「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。
しかし、私はなんだかほっこりと胸の内側が安らいだ。こんな状況なのに呑気なものだ。
私は霧ねえの肩に手を置いた。とりあえず、今は落ち着かせよう。
「道真さまの御言葉は、なんとなく分かりました。霧ねえだって、本当は分かっているはずですよ」
信用するなと言われたものの、どうにも信じたくなるのは道真さまが神様だからなのだろう。でも、それだけじゃないと思う。
「何よ。祥ちゃんったら、いつの間にか物分りがよくなって。私ばっかりワガママじゃないの」
霧ねえがぶつくさ言う。やれやれ。この人も素直じゃないからな……。
なんだか緊張感が切れてきてしまい、私たちはすっかり肩の力を抜いていた。
そんな時だった。道真さまの背後からこっそりと小さな顔が覗いた。
「ねぇ、お話まだ終わらないの? ミチル、ずっと待ってるんだけど」
丸い大きな目と、小さな鼻。黒くつややかな髪の毛をツインテールにまとめており、シックなワンピースを着た女の子だった。可愛らしいのに、眉をひそめて子供らしからぬ表情を浮かべている。突然の登場に、私と鬼木、会長が驚きに顔を見合わせる。
このふてぶてしい言いぐさに、道真さまは怒ることは――なく、大事そうに女の子を抱え上げた。
「あぁ、ごめんごめん。もうすぐ大事なお話、終わるからね。良い子で待ってるんだよ」
それまでの厳粛な空気が軽々とぶち壊された。道真さまはしきりに、女の子に謝り、その姿はなんというか……四神家が集ったときに綾乃さまの崩壊ぶりを初めて見たような、どうにも消化できない思いがもやもやと渦巻いていく。
「姫、機嫌をなおしてくれよ。これは姫のためでもあるんだから」
「やだ! やだやだやだ! またあのお魚の雨降らしてよー! ミチル、あれが見たいの! 今! ここで! やって!」
強い口調でワガママをぶちまけるミチル嬢。それに道真さまはアワアワと落ち着かない。
これには、落ち着き払っていた明水さんもじっとりと視線を向けていた。
「道真さま……今はそんな場合ではなかったんじゃありませんか」
続けて霧ねえも呆れ顔で言う。
「て言うか、今、ミチルちゃんが言ったわよね。怪雨を起こしたのは、ミチルちゃんのためって……」
「あ、そういうことだったのね!」
綾乃さまが手をポンッと打った。
なんだろう、この柔らかに腑抜けた空気は……和やかすぎて気が抜ける。
「あぁ、そうだ。全部ミチルのためだよ。他に何があるって言うんだい」
全力で前言撤回し、開き直った道真さまは、ミチル嬢の口に飴玉を放り投げた。それまで駄々をこねていた彼女が途端に黙り込む。美味しそうに飴玉を舌で転がした。
「私の可愛い可愛い子どもたちの未来を阻む者は、
強い宣言が完全に道真さまのエゴイズムだけで構成されている。
「……これが『神様』よ。分かったかしら? 鬼木さん、荒江くん」
霧ねえが頭を抱えて言うと、二人は顔を引きつらせて「はい……」と力なく返事した。
太宰府から博多まで行くには、またも黒い大穴を通り抜けるしかない。その方が断然速く済む。
しかし、この大穴はやたらと狭く、一人ずつしかくぐれなかった。
曰く、道真さまが博多へ遊びに出向く時にしか使われないゲートらしい。
先陣を切るのは霧ねえで、その後すぐに私が行く。狭い穴をくぐると、一歩先に霧ねえの後ろ姿があった。黒の中に溶け込む漆黒の髪を揺らがせて前を進んでいる。
追いかけると、彼女はどうやら誰かと話をしていた。
「……話は全部聞いてたかしら、慎ちゃん」
電話の相手は言わずもがな、慎一兄さんだった。
「あぁ、祥ちゃんが来たわ。もうすぐみんなでそっちに行くから、持ちこたえてね」
よく考えてみれば不思議なことで、この穴は電波が通じるらしい。霧ねえは不敵に笑いながら通話を終えた。まさか、ずっと通話のままだったのか。
「霧ねえ。もしかして、さっきの話を全部、慎一兄さんに聞かせていたのですか?」
「あら、珍しく察しがいいじゃない」
霧ねえはスマートフォンをライダースジャケットの胸ポケットにしまい込みながら言った。
「個人的な感情はあれど、道真さまにすべて吐かせるにはあの手しかなかったわよね。おかげで、慎ちゃんも決心したそうよ」
「そうですか……ところで、慎一兄さんが探している人は、道真さまとそんなに
聞いていた限りだとそうだが、道真さまのあの柔和な笑みや慈しみのような感情を抱かせるなんて、どんな人なのだろう。
霧ねえは「うーん」と唸りながら先を進んだ。
「そうねぇ。私の見立てでは、その人はつまり、道真さまのお子さんだったんじゃないかしら」
子供……道真さまの、子供だと。
「ミチル嬢ではなく?」
あの女の子もそうなのだろうか。いや、そうだとしたら、すごく嫌だ。そんな勝手な解釈をして白けていると、霧ねえは私の想像を察して笑った。
「あぁ、ミチルちゃんのことを知らないんだったわね。あの子は、太宰府天満宮のカミゴさんよ。梅宮家のご息女で、まぁ、私たちと同じカミゴ家系のお子さんね。そうじゃなくて、玉城さんは道真さまの、実の子供だった人よ」
霧ねえはため息を吐いた。続けて思案げにゆっくりと言う。
「そうね……確か、道真さまにはお子さんが何人かいらっしゃったそうだけれど、早くに亡くしてる子も何人かいらっしゃるのよ。そのうちの、お一人だったんじゃないかしら」
それはつまり、前世ということだろうか。
私は眉をひそめて霧ねえの髪を見つめていた。それを知ってか知らずか、霧ねえはすかさず「ま、推測なんだけれどね」と、きっぱり言った。
*
*
*
「その推測はあながち間違いじゃねーんだよなぁ……」
暗い道を行きながら、清水原は耳につけていたイヤホンを取った。もう必要はない。
彼は軽快に歩いている。スムーズに道を選び、その快適さにむしろ舌を巻いていた。
「おーおー、よう視えるわ。すげーな、玉城のサーチは」
中洲川端駅の線路は真っ暗で険しい道だった。冷たく不気味な風が吹いている。しかし、それすらも感じさせないこの能力は使いようによっては便利だ。
直感が道を選ぶ。いくつもの、何千通りに枝分かれした分岐を探し当てていく。結界に当たることもなく、罠を避けることもできてしまう。頭の中に膨大な地図が組み上がっていき、目当ての場所が手にとるように分かる。
「
あまりの手軽さに、思わず笑った。上を見上げる。線路の上にある通路に、誰かが座らされていた。直に見るだけでは判断できないが、玉城の能力を使えば一目瞭然で、ふんわりと柔らかい黄色の靄が人の形をつくっていた。それが玉城であることを、能力が感知している。
「やぁ。お待たせしました、お嬢さん」
ふざけた口調で言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。不貞腐れた顔がうっすらと窺える。
「……おっせーんだよ、バカ」
元気そうで何よりだ。
「あと、その言い方やめて。福本みたいでムカつくから」
「すいません……」
清水原は苦笑いもできずに、気まずく帽子をかぶり直した。
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