第五幕:修羅人と笑わない福神

27話 夢の隨に、微睡んで沈む

 近くなる。ブーン、と蜂が飛ぶような、微弱な羽音が耳の横を過ぎていく。

 ――あぁ、もう。頭が痛い。

 頼んでもいないのに、光がまぶたの中へ入り込む。眩しさを感じ、咄嗟に目を開く。

 体が痛い。痛い。熱くて痛い。いや、寒いかもしれない。なんだろう、どうしたんだろう。こういうことは、なんだか前にもあったはずなのに、どうして違うと思っているんだろう。

 目はぼやけたままで、熱にうかされたように、フラフラで……あぁ、思考がうまく回らない。


「……父様」


 多分、あたしが言った。口をついて出てきた言葉と声は幼くて、弱い。今にも消えそうだ。


「たす、けて、ください……父様」


 目の前にいるのは誰だろう。見えない。見えなくなっていく。手を伸ばそうとしても、力が入らない。

 怖い。どうしよう。あたしが、消えてしまいそうだ。誰かがすすり泣いている、そんな気がするけど、もう――聴こえなくなった。暗い穴に放り込まれてしまったように、闇に包まれてしまったように。何も無くなった。



 *


 *


 *


「――はっ!」


 水から這い上がるように、息を吸うと、それまで止まっていた空気が循環する。激しく呼吸を繰り返すと、なんだか犬のような。でも、そんな冗談を飛ばす暇もないほどに今のあたしは、恐怖に縛り付けられていた。

 あれは悪夢だった。思考を奪われて、自分が自分じゃないような。でも意識だけははっきりしていて、未だにあの熱と寒気が体内に残っている。気分が悪い。


「ん?」


 ようやく冷静を取り戻した頃、あたしは体を動かした。が、体は動かなかった。

 後ろ手に縛られ、椅子に座らされている。ご丁寧に椅子の脚に、くるぶしをくっつけられて縛られている。

 なんてこった。最悪な状況じゃないか。一体、どうしてこうなった。何があった。混乱の上にさらに混乱。途方に暮れて、椅子の背にもたれる。バランスをとらないと椅子ごと倒れそうで危ない。

 ここは、どこか。


「――おや、お目覚めですか。おはようございます」


 極めて明るげな男の声が背後から聞こえた。背筋をぞくりと触るような冷たい声を、あたしはようく知っている。

 男が真ん前に立ち、あたしを見下ろした。


「福本……」


 苦々しく言えば、彼はにっこりと笑った。細い目が更に細くなって、その線が見えなくなってしまう。


「よく寝てましたね。あぁ、あまり動かないでくださいね。あなたには怪我をしてもらいたくはないんですよ」


 白々しい言葉を平然と吐く福本勇魚。その横っ面を叩いてやりたいところだが、あいにく腕は使い物にならないので、睨むだけにとどめておく。火事場の馬鹿力みたいなの、出ないかなーって期待して腕をひねるけど、びくともしなかった。

 最悪。

 確かに、あたしの運はもともと悪かった。でも、こんな、縛られるような不運に見舞われるなんて思いもしない。大黒さんに厄払いしてもらったはずなんだけど……あのおっさん、払い損ねたんじゃないだろうな。


「あんた、一体、あたしに何したんだよ」


 あの悪夢は絶対にこいつの仕業だ。他人に悪夢を見せるような人間はいないだろうけど、でも、こいつならやりかねない。


「何を……ですか。えぇっと、まぁ」


 彼は少しだけためらった。不審の目をじぃっと向けておく。

 すると、福本の口が申し訳なさそうに開いた。


「見ての通りなんですよね。何をしたか、と言われれば、まぁ……誘拐? のような?」

「誘拐だよ! それはまごうことなき誘拐だよ!」


 とぼけるのも大概にしろ、この糸目野郎。

 あぁ、もう、本当にムカつくし最悪。なんであたしが誘拐されなくちゃいけないんだよ。


「なんであたしが誘拐されないかんのよ! そもそも、ここどこよ! つーか、神通力あっても意味ないやんかーっ!」


 大声を上げると反響する。どこかの倉庫みたいな真っ暗な場所。でも、広さはないし物もない。むしろ狭い。湿っぽくて涼しい。その涼しさがやけに不気味。辺りを見回すけれど、ここがどこなのか全く分からない。


「元気そうで良かったです。質問が多すぎるからどれに答えていいのか分からないですね……」


 福本は心底困ったように言った。でも、すぐに何かを閃く。


「では、順番にお答えしましょう」


 人差し指を伸ばして、彼はたのしげに言った。


「まず、初めに。あなたは神好みですよね。恵比須さまが欲しがっていたのはご存知でしょう? それに、天神さま――菅原道真公もあなたを欲しがっている。いや、欲しがっているというよりも、取り戻したいと言えばいいのか。ともかく、八百万の神々に愛されるあなたを所有していれば、神の格は上がります」


 子供に言い聞かせるかのように言う。あたしはとりあえず押し黙ることにした。そうすると、福本はますます調子に乗る。


「さて、各神々があなたを独占するために、このゲームが始まったのだとそう認識しているかとは思いますが、実際のところこれはほとんど決着のようなものでした。あなたを所有すれば、道真公か恵比須さまの勝利となる。それが暗黙のうちに決まりました。そうなれば、恵比須さまのカミゴである私があれこれと裏で動かなくてはいけない。本当は誘拐なんてしたくなかったんですが……道真公がルールを破ったので、恵比須さまが強行手段に出たんです」


「え?」


 あたしは思わず口をぽっかり開いた。福本の細い目が笑う。


「北九州に


 鋭く、自信たっぷりに言い放つ福本。彼の口が三日月のようにつり上がり、あたしの頰が引きつった。


「そんな、まさか……いや、でも、えぇ?」


 待って。あたしの中で道真さんと言えば、まぁ、あんまり分かんないけども、人を困らせるようなことをする神様じゃなくて、弁天さんや亜弓ちゃんとも親しくて、何より、ウカちゃんの友達で、清水原は道真さんの仕事をしてたりして……


 ――父様がそんなことするわけない。


 咄嗟に、そんな言葉が浮かんだ。慌ててかき消すも、どうしてか胸糞悪い気分でいる。どうして、あたしはこんなに道真さんをかばっているんだろう。


「あなたは何も知らないんですね、爽奈さん。あなたがどうして神好みなんて奇抜な体質なのか、どうして道真公があなたを探していたのか、あなたをかばっていたのか、どうして清水原さんにあなたのことを任せたのか、何も知らないんですね」


 福本が囁く。それが細い煙のように耳に入り込んで脳の中に渦巻いていく。それがあまりにも重たくて、あたしは項垂れた。


「……何か、意味があったわけ?」

「ありますよ。この世は必然によって構成されている。あなたが家出して、清水原さんに助けられたことも全ては仕組まれたことなんです」


 確かに、なんだか話がうまく行き過ぎている気もしていた。でも、そういうのは成り行きだと思っていた。シナリオ通りだったなんて思いもしない。


「じゃあ、道真さんは何かを隠してるわけだ。最初からあたしを探してて、恵比須さんに勝つためにあたしが必要なわけだ」

「そうなりますね」

「清水原はそれを知ってて、道真さんの言う通りにしているわけだ。あたしをあの事務所に閉じ込めてるってことね」

「まぁ、そうかもしれません」

「ふーん……」


 曖昧な返事だが、福本の声には愉快さが含まれていた。対して、あたしはめちゃくちゃ気分が悪い。なんか、物のように扱われてるのが癪だ。イライラする。なんか、イライラする。


「巻き込まれるべくして巻き込まれたってわけか。よー分かったわ」


 縛られた腕を引っ張れば縄が切れるんじゃないか。あたしの真の神通力が発揮されるんじゃないか。そんな期待と怒りを込めて踏ん張った。


「………」


 そんなことは起きなかった。

 いや、ここはそういう展開のはずじゃん。なんか、あるだろ。本当の力が目覚めるみたいな。


「ふん……っ!」

「何をしているんですか」


 さすがに福本も怪訝に訊いてくる。


「何って、力を放出しようと」

「ただただ踏ん張ってる猫にしか見えませんよ」

「うっさいわ!」


 ちくしょう。あたしの神通力、マジでなんの役にも立たないじゃん。探し物を見つけるサーチの能力なんて、この期に及んで使い道がないし。むしろ、この神好みの体質の方が好き勝手に能力発揮してて嫌になる。

 なんなの。あたしは、道真さんとなんの関わりがあるの。


「まぁ、元気でいられるのも今のうちでしょうね」


 くるりと踵を返す福本。あたしから遠ざかっていく。

 その時、彼の背後が光った。同時に大きな轟音。突風。それはまるで、電車のような――


「ここはどこか、という質問にまだお答えしていませんでしたね。でも、もうお分りでしょう」


 轟音の突風が通り過ぎた後、福本が言う。あたしは開いた口が塞がらず、何も言えなくなった。

 ここは、地下鉄の中。線路と線路の間にある小さく狭い道。そんな中にあたしは縛られて動けない。それに、こんな場所に助けがくるわけもない。絶体絶命。そんな予感が鼓動を鳴らした。



 福岡市には地下鉄の路線が三つある。空港線、箱崎はこざき線、七隈ななくま線。他県に比べたらそんなに多くはないけれど、ここが区間の中のどこかなんてこの真っ暗な地下では到底思い当たるはずがなく、安易に考えるなら中洲最寄りの中洲川端駅から祇園ぎおん駅、博多駅の区間。または中洲川端駅から呉服町ごふくまち駅、千代県庁口ちよけんちょうぐち駅の区間だろう。

 なんてったって千代県庁口のシンボルマークは恵比須神だ。拠点が近い十日恵比須神社の最寄駅でもある。でも、用意周到な恵比須さんと福本だし、そこまで単純なはずがない。だって、あたしにも分かるんだし。


 とは言え、大黒さんが探してくれているにしても、いないにしてもこんなどこだか分からないし、侵入も難しい場所に誰が助けに来てくれるっていうんだろう。

 すぐに浮かんだのは清水原だが、すぐにかき消した。亜弓ちゃんも頼りないし、碓井くんなんてもっと頼りない。サヨリちゃんはもってのほか。じゃあ、道真さん? はたまた弁天さん? ウカちゃんと酒本くんは……無理だと思う。神様だけど。

 だめだ。全然、誰も頼りにならない。困った。あたしだけでどう逃げるっていうの。


 詰んだ。終わった。あたし、ここで死ぬんだ。いや、死ぬって決まってないし、むしろ恵比須さんに大事にされる、的な。

 それは普通に嫌だ。どっちにしろ嫌だ。


「何をごちゃごちゃ考えているんだい」

「何をって。これからのあたしがどうなるのかをねぇ……」


 言いかけて止まる。福本じゃない誰かが横にいる。バッと勢いよく首を向けると、そこには黒と赤のツートンカラー。


「やぁ。こんなところで会うとは、奇遇だねぇ」


 ヒールをカツンと鳴らしてあたしの前に立つのは、すらっと長くて蛇みたいなお姉さん――道祖神さんだった。


「あーっ!! 適任者発見!!」


 神出鬼没なこの神様ならあたしのピンチを救ってくれる。なんで気がつかなかったんだろう。てか、なんでここにいるの。


「その様子だと、どうやら福本に捕まったようだね。成る程、成る程。ルール違反にも程があるじゃあないか。しかし、ここまで突き抜けられるとかえって清々しいものだね」


 道祖神さんはカラカラと笑い声を上げた。その声が地下に反響する。


「ねぇ、道祖神さん。あたしを助けて」

「ん? 助ける? 君をかい?」


 素っ頓狂にとぼける道祖神さん。今そういうのはいらないから、早く助けて欲しい。

 でも、彼女は渋るように眉をひそめた。


「助ける、というのは違うかな。私は道を導くけれど、答えは与えない。最初にそう言ったはずさ」

「えぇ? でもっ、えぇっ? なんで? どうして? この状況見てよ! やばいじゃん! 縛られて動けんし、ここがどこか分からんし、困ってんだけど!」

「――人に物を頼む態度じゃあないね」


 道祖神さんは冷めた目を向けてきた。蛇に睨まれるカエルは、きっとこんな風に凍りつくんだろう。

 あたしは何も言えずに息を止めた。そんなあたしに、道祖神さんの細い指が頰を触る。舐めるように。


「君は何かを勘違いしているね。私は確かに、確かに中立の立場さ。どちらの味方でもないし、どちらの敵でもない。だから、君を助けることはしない。守ることはあっても、助けることはしない。頭を下げようとも、非礼を詫びようとも、これは覆らない事実なのさ」

「……じゃあ、何しにきたんですか?」


 謝罪もすっ飛ばして先に訊く。道祖神さんはけろっと表情を変えた。


「そうそう、私は導くためにやってきたのさ。福本はどこだい?」

「福本になんか用があるんですか」

「そりゃあね。私はそのためにここまで足を運んだのだから」


 道祖神さんはパチンと指を鳴らした。すると、地下のトンネルから人の息が聴こえてくる。線路を歩いてくるのは、様々な人だった。高校生、中学生、会社員、老若男女それぞれ。そのどれもに、白いもやのような気がまとわりついている。白なんて初めて見た。その白がただならぬ殺気を帯びていて、怖い。


「な、あれは……」

「野良のカミゴさ。恵比須と福本が作った傭兵。北九州から移動させるのは骨が折れる仕事だったがね。まぁ、これで道真と五分五分ってとこだろうね」


 道祖神さんはあっけらかんと言った。そこには情なんてものはなく当然のような響きで、人を人とも思っていないような節があった。神様ってのは、そういうものなのだろう。感覚がまったく違うから、すぐには受け入れられない。

 すると、反対側の線路から福本の帽子が見えた。


「おや、到着しましたか。ありがとうございます、道祖神さま」


 深々とお辞儀をする福本。それに対し、道祖神は腰に手を当てて得意げに顎をそらした。


「まったく、これっきりだよ。神をこき使うなんて、清水原と君くらいだ。そのあたり、君たちはよく似ているんだろうねぇ」


 言いながら、彼女はあたしの頭を小突いた。爪が当たって痛い。


「清水原さんと似ているなんて、あまり嬉しくはないですねぇ。あの人、私とはまったく合わないので」


 福本は笑いながら言った。若干嫌そうだったけれど、それに関しては分からなくはない。


「ほう? 同郷で学校も同じで、仲が良かったんじゃなかったかな? あれ? 違う人と勘違いしているかもしれないなぁ」


 道祖神さんは異様におしゃべりだ。福本への腹いせになんだか色々と暴露しているけれど、これは福本だけじゃなくて清水原にも流れ弾が当たっている。この事実に対し、福本は細めた目を開いていた。


「なんのことでしょうか。さっぱり分かりません」

「……ふむ。君たちがそれでいいならいいのさ。まぁ、喧嘩もほどほどにすることだね」


 満足そうに言い、道祖神さんはあたしがいるところから線路へ飛び降りた。カツンとヒールの甲高い音が鳴る。

 やっぱり助けてはくれないらしい。彼女は福本の背後に回って、彼の肩を叩いた。


「さぁ、ゲームも佳境だ。道真公と恵比須も準備ができているようだ。私の役目はほぼ終わったと言えるだろう――では、諸君、健闘を祈る」


 からん、ころん。高下駄を鳴らすように、ヒールが線路の奥へと消えていく。それを見送るでもなく、福本は颯爽と背広を翻して、傭兵の前に立った。厳かに両腕を広げる。


「それでは、手はず通りに」


 パンッと大きく手を鳴らすと、目の前に真っ黒な異空間が現れた。その中へ、傭兵が躊躇せずくぐっていく。


「何をする気……?」


 思わず訊く。すると、福本は涼しげに言った。


「世界征服です」


 恥ずかしげもなくあっさりとそんなことを言ってしまうから、あたしは唖然とした。

 まったく笑えない。冗談にしても下手すぎる。恵比須が世界征服を企んでいるとでも言うのか。それも、あたしを誘拐してまで。わけがわからない。一体、何が起きてるんだ。

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