26話 天の岩屋戸

 その顔は笑う。目と口をきゅっと細めて笑っている。


「うーん。なんだか奇妙ですね。繋がりはあれど、この三人が揃うのは不自然と言いますか」


 声の調子はいつもと変わらないのに、それなのに、会長や鬼木はともかく私までもが圧倒されていた。


「ともかく。荒江くんと鬼木さん、それに鹿島くんも今から部活でしょう? 戻らなくていいんですか」


 先生の言葉は先生らしくもっともである。しかし、事態にそぐわない。こちらの焦りや恐怖を汲まない安穏と余裕さが不気味だ。


「……敷島もです。部活の後輩なんで。辻井に連れて行かれたから追っかけてるんですよ」


 荒江会長が挑戦的に言う。一番に「怪しい」と睨んだ彼の態度は、誰よりもこの場面に似合っていた。

 横江先生の細い目が困ったように開く。


「あの二人はもうここにはいないようです。諦めたらどうですか」


 ぴしゃりと冷たく一蹴され、荒江会長は私を見た。そして、声を鎮めて言う。


「鹿島、どうする?」

「どうするもこうするも……」


 考えている暇はない。鬼木のように、敷島先輩や辻井だって利用されているかもしれない。

 ここで、先生と互角に戦えるのは私だけだろう。


「――鬼木」


 私はポケット入れていたスマートフォンを彼女に渡した。


「霧ねえに連絡を頼む。会長と一緒に藤磐家に行ってくれ」

「分かった! 荒江先輩、『走って』!」


 鬼木は飲み込みが早く、会長の腕を掴んで駆け出した。すかさず会長の顔が一気に困惑へ染まる。


「えぇぇぇぇっ!? なんで! おい、鹿島! 僕の見せ場を取るなよー!」


 だんだん遠くなる会長の声。私は手を振って見送った。まったく、緊張感の欠片もない人だな、会長は。

 横江先生は必死に止めるでもなく、ただ静観するのみ。

 私はすぐに向き直り、足を一歩踏み出した。地面に亀裂が入る。途端に先生の眉が困惑に曲がった。


「おっと。鹿島くん、君とは争いたくないんですよ。穏便にいこうって言ってるのに」

「だったら、先輩たちを返してください」

「返す? 何を言ってるんですか」


 私が踏み出すと同時に横江先生が一歩下がる。しかし態度は相変わらずで、敵意が張り詰めている。彼はホールドアップしつつも愉快そうに笑った。


「彼らは別に、操られているわけじゃないんですよ。あくまで自分の意思。周囲と馴染めないから居場所を求めているんです。それを邪魔しちゃ悪いと思いませんか、鹿島くん。君なら分かるはずですよね」

「なんのことだかさっぱり……」

「そんなことはない。君は周りと違うから、どこかで孤独を味わっていたはずです。だから、彼らのことも実はよく分かっているんです。鈍感なふりをしているだけなんです」

「………」

「鬼木さんだって荒江くんだってそう。実はよく分かっているんですよ。気づいている。自分の中の闇を知っている。だから、力に溺れたんです」


 ……どうしよう。返す言葉が見つからない。呆れも怒りも溜まっているのに、どうしても体が動かせない。重たい。先生の能力か。いや、違う。


「………」


 呆れも怒りも溜まっていると同時に、ショックも増大しているんだろう。


「分かってくれましたか。鹿島家に直接手を出すのはちょっと困るので良かったです」


 亀裂が入っていた地面は大人しくなっている。まさか、戦意喪失で何もできなくなるなんて思わなかった。どこまで情けないんだ、私は。

 でも、ここで引いたほうが良かったかもしれない。私の力は大きすぎるから学校の校庭こんなところで力を暴走させたら、死人が大勢出る――それだけは御免だ。


「おいおい。何をグズグズ迷っているのさ。己の道は己で決めるものだろう? 人に指図される覚えはないのさ」


 亀裂の下から声が聞こえてくる。人差し指だけが顔を出し、割れ目に沿って動いた。そして、横江先生の真ん前で止まると赤と黒のライダースが飛び出した。


「道祖神さま!」


 ふわんと浮き上がるように飛び、道祖神さまは高いヒールを履いた足を思い切り回した。その蹴りは空を歪ませるほどの威力があった。しかし、横江先生の姿はどこにもなかった。


「成る程。彼奴きゃつは浮力なのだったね」


 一蹴したあと、道祖神さまは僅かに不機嫌な声で言った。そして上空を睨む。ならって顔を上げると、屋上に人影があった。紛れもなく、あの細長いシルエットは横江先生だ。


「さて、と。私は中立なのでね、あまり派手には動けないんだよ。でも、中立だからこそどちらかが掟破りルール違反をしたら止めなくちゃいけないのさ」


 空を睨んだままの道祖神さま。その後姿を唖然と見るしかない。中立だのルール違反だの、頭の中はこんがらがっている。


「よし。藤磐の家に行こう」


 道祖神さまは穏やかな顔で振り返り、いつぞやのごとく私の腕を引っ張った。



 *

 *

 *



 同刻。博多、中洲。

 ゆったりと波打つ川面から魚が飛び跳ねる。


「おお! 戻ってきおったぞ。見ろ、清水原。魚が戻ってきた!」


 魚と同じように跳ねてはしゃぐ大黒天。清水原はうんざりとそれを見ていた。


「あぁ、そうやね」

「ったく。しけた面しやがって」


 博多川の魚が戻ってきたことは、大黒天にとっては吉報なのだろう。先ほどまでしおらしかったくせに、調子よく悪態をついてくる。


「まぁ、お前さんはぶきっちょだからなぁ……これができるかは知らんが。試す価値はあるだろうな」

「試すって何を?」


 突然の大黒の提案に、清水原は口を曲げて困惑を示した。すると、帽子のてっぺんを思い切り叩かれる。


「いったぁ!」

「大して痛くねぇくせに大げさだろうが。いいか、清水原。消去人には勝てても喰人には勝てん。でもな、そう思い込むから負けるんだよ」

「……ん? んー、まぁ、そうやろうね」


 大黒天の言いたいことが見えない。


「玉城を取り戻すには探すしか方法はないわな」

「うーん……まぁ、別に、あんなうるさい野良猫なんて別になんとも思わんのやけど、まぁ、悔しーしね」


 調子が悪い理由はこれか。いないとなるとなんだか気持ち悪い。そんな違和感がある。

 長年、一人でふらふらと神の言うとおりに仕事をしていたせいか、他人と仕事をするのが楽しかったのかもしれない。そんなことをぼんやり考え、自嘲気味に笑った。

 潮が引いていき、川の水面が下がっていく。濡れた石畳に這う虫を目で追いながら、清水原は大黒天の言葉を待った。


「なんだよ、情けねぇなぁ。威勢はいっちょ前のくせに打たれ弱い。これだから九州の男は」


 とんだ悪口が返ってきた。


「分からねぇか。まぁ、しょーがねぇか。生粋の馬鹿だからな」

「おい、おっさん。調子に乗るのも大概にしいよ。もう二度と遊んでやらねーからな」

「バカタレが。遊ぶか遊ばねぇかは俺が決めるんだよ。大体、お前は一生、道真の言うことを聞かにゃならんのだ。人を騙して生きてくしかねーのよ。自分を騙して、人を騙して、神も騙す。それがおまえの役目なんだよ、ざまぁ」

「はいはいはい、分かってますよ。だから代行屋やってんだろーが。ほとんどあんたのせいやけど……」


 言いながら清水原は、ふと止まる。


 ――自分を騙す……


 その言葉が妙に引っかかり、清水原はようやく立ち上がった。大黒天を見ると、いそいそと釣り竿を用意している。

「今日は大漁かもなぁ」と嬉しそうに笑った。



 ***



 中洲、CLUBMUSE。

 清水原から「帰れ」と言われた亜弓たちは薄暗い紫色のカウンターで不満な顔を見せていた。


「でも、あななたちにできることはないでしょう。素直に大人しくしてなさいな」


 弁天の言葉が冷たく聞こえ、亜弓は頭を抱えた。だが、弁天の口はきつくしつこい。


「そういつまでも自分を追い詰めるのは愚かなことよ。何度言ったら分かるのかしらね、この娘は」


 苛立たしげに言われ、亜弓はふくれっ面をゆっくり持ち上げた。


「まぁまぁ。喧嘩しないで。清水原くんも準備できたら呼ぶって言ってたし、それにここにいれば安全なんだし」


 碓井が間に入ると、弁天は「フンっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「安全なのはあななたち、亜弓ちゃんと大介くんだけよ。そこの小娘はそういうわけにはいかないわ。なんで私がこの娘まで守らなくちゃいけないのよ」


 弁天は沙与里を一瞥しながら言った。厳しい目を向けられれば、沙与里は首をすくめる。

 実の妹がけなされようとも、亜弓は姿勢を変えなかった。そうなると、やはりここは碓井がなだめるしかない。


「まぁまぁまぁ、まぁまぁまぁ」


 険悪が漂う店内。

 大柄な碓井だが、気が弱いせいであまり役には立たなかった。


「――状況は概ね分かっているのよ。でもね、前にも言ったとおり、私は手が出せないの。そういうルールだし、私が割って入る義理もなければ道理もないの。いくら私に助けを求めたって加護を与えることしかできないの。亜弓ちゃんだって、それはよく分かってるでしょう?」


 そうは言われても、素直に納得できるかと言われれば嘘になる。

 これは碓井も同じらしく、清水原もそう感じていることだろう。融通が利かないことが納得できないのだ。


「結局は人間のものさしよね……困っているから助けるのが当たり前だって、そういう意識で生きているから許せないのよ。まったく、神様わたしがここまで言っているのに。最近の若い子はマナーがなってないわね」

「あぁ、もう! 分かった! 分かったよ! だから、一つだけお願いする。ママは表に出なくていいから」


 ようやく亜弓が口を開いたが、その声は拗ねた子供のようだった。困り眉で弁天を見る。


「もし、恵比須さんと派手にやり合うって状況になったら力を貸して」

「それは無理だわ」


 あっさりと嘲笑う弁天。しかし、亜弓は迷いなく次の言葉をつないだ。


「じゃあ、もし清水原くんと玉城ちゃんが危ない状況になって、力を貸して」

「それは……」


 言いかけて止まる。弁天は厳しい目を亜弓、碓井、沙与里を順々に見た。そして、真っ赤な唇をニヤリとつり上げる。


「そうね。もし、ね」


 神の言葉は、他の神にも筒抜けだ。しかし、言葉には裏もある。その裏までを読みとれるかどうかは神次第である。

 中立の道祖神や、状況が不利になりそうな恵比須が嗅ぎつけることも、我関せずの姿勢を貫く大黒天の耳に届くこともない。例外を除いて。


「こんちはー! 神隠しから無事帰還したウカちゃんの登場ですよー!」


 店の扉を思いっきり大きく開け放ったのは、いつもの白スーツをまとった倉稲魂命うかのみたまのみこと。沙与里の姿を見るなり、わずかに怯む。

 その背後から、品のいい笑顔を浮かべた菅原道真が現れた。


「やぁ、弁天。ご機嫌いかがかな」

「ご機嫌のほどはよろしくなくてよ」


 悠々と調子よく入ってくる道真に、弁天がカウンターからすぐさま返す。威厳たっぷりに睨んだ。


「営業時間外に来られちゃ迷惑よ。その辺はわきまえて頂戴な。たとえ大神であろうともね」

「これはこれは、間が悪かったかな。失礼したね。しかし弁天、事は一刻を争うぞ」

「はぁ? 一刻を争う?」


 近づく道真を、弁天はいつもの調子で嘲笑った。目尻にたっぷりと嫌味を含ませる。


「一国じゃなくて? えぇ、それでもそこまで悠長にしていられるのだから、さほど困っていないんでしょう? 私には分かるのよ」


 その言葉に、道真は「降参」とばかりに両手を小さく挙げた。しかし、顔はやはり笑ったまま。何を企んでいるのかまったく分からない。

 彼は弁天の前で立ち止まると、カウンターに肘をついた。

 亜弓と碓井、沙与里は固唾をのんで見守る。


「君の言う通りだ。私にはすべてお見通しなのだから、まぁ、こうなることは予想の範囲内なのだが……ひとまず、話をしようじゃないか。来る日曜日に備えて」

「あら、一体なんのお話かしら?」

「麗しき女神を特等席にご招待しようとね。そういう話だよ」


 キザったらしく言えば、弁天の眉はたちまちつり上がった。それを見兼ねて、倉稲魂命が呆れた溜息を吐く。


「道真さん、回りくどいよ」

「おや、そうだったかい。しかし、間違いじゃあないだろう? そこのお嬢さんたちも今回の件に関しては一枚噛んでいるし、弁天はこちらの事情も恵比須あちらの事情もよーーーく知っている」

「で? 結局、何が言いたいわけよ」


 すでに話に飽きている弁天は、道真の大仰な言い方にさっさと水を差した。


「連れないな。まぁ、そこも君のいいところだが……要するに、十年続いた恵比須とのゲームがそろそろ佳境を迎えるんだよ。その舞台を用意した」


 登場から独壇場を決めている道真の声は、どうにもテンションが高い。その高揚感がようやく伝わり、弁天と亜弓は顔を見合わせた。


「舞台……そこに私たちを招待しようってわけ?」

「そういうことだ。ただし、弁天とウカが直接手を出すのは禁止だ。まぁ、向こうはすでにいくつかペナルティがあるから、こちらもルールからギリギリ逸れたりと曖昧なんだがね。それでも駄目だよ」

「……分かってるわよ」


 弁天は口をあまり開けずに苦々しく答えた。その反応が良かったらしく、道真は「うん」と機嫌よく頷いた。亜弓、碓井、沙与里を順にゆっくり見やり、踵を返す。その際、彼は茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。



 *

 *

 *



 黒崎。藤磐邸。

 廊下にある古時計を見れば、十五時を回っていた。私は道祖神さまと一緒に無言で奥の間まで向かった。ふすまを開けると、霧ねえ、明水さん、綾乃さま、そして鬼木と荒江会長が集っている。

 鬼木と会長がすぐに「大丈夫!?」と口を開いたが、私は小さく笑うしかできなかった。霧ねえが遮ったからだ。


「無事でよかったわ、祥ちゃん」

「霧ねえ……」


 顔を見たら少し安心してしまった。それもつかの間で、霧ねえは笑顔で私の肩をがっしり掴んだ。


「この子たちから聞いたわ。まったく、ルール違反にもほどがあるわよ、あの人たちは」


 ニコニコと愛想よく言うが、肩を掴む力が強い。痛い。めり込んでいる。これはものすごく怒っていらっしゃる。ただならぬ怒気。横江先生とはまた別の圧力だ。

 見兼ねて明水さんが咳払いする。


「霧咲、祥山、とにかく落ち着きなさい。町内のカミゴにも伝えてあるから町への被害はないだろう。それに、一般人を巻き込むのは最大の禁忌のはずだから……しかし、消えた子たちが心配だ」


 どうやら詳しい話はすでに会長たちが伝えてあるみたいだ。それなら私から報告することはそれ以降の話だけである。

 私は姿勢よく座り、綾乃さまと明水さんを真っ直ぐ見た。


「横江先生が言っていました。敷島、辻井はあくまで自分の意思なのだと言っていました。操られているわけではないと。これは、つまりどういうことなのでしょう」


 その問いに、明水さんは「ふむ」と唸った。そして、傍らの綾乃さまを見やる。


「そうね……えぇっと、ドウイウコトカシラ……」


 顔色が悪く片言の綾乃さま。膝の上に置いた手はブルブルと震えている。


「落ち着きましょう。ええっと、そうね……お告げよ、お告げ。そう、お告げをようやく解明したのよ」


 全然落ち着いていないのだが、この朗報はかなり嬉しいものだった。

 霧ねえはともかく、会長と鬼木も身を乗り出して聞いている。明水さんは目を閉じた。


「あらゆるすべての事象の一方はきまぐれ、もう一方はそれを利用するもの。これはつまり、怪雨騒動に乗じた誘拐揺動事件だった。怪雨がきっかけで起きた、まったく別物の事件で、私たちは神様の手の内で踊らされていたという……そんなお話、です」


 綾乃さまの声がどんどん消え入っていく。多分、全員の目が厳しくつり上がっていたに違いない。


「やめてよ……私だって嫌なのよ……私が悪いわけじゃないのよ、今回は」

「誤解を招く言い方はよしなさい」


 明水さんの呆れた声に一同はようやく浮かせた腰を落とした。溜息が出てくる。


「まぁ、踊らされていたっていうのは薄々気づいていたわよ。こっちの怪雨は『誰か』の『きまぐれ』であり、それに乗じた『真犯人』がいるってことなんだわ」


 霧ねえが解説する。私たち高校生は「なるほど」と頷き合い、ようやく事態に納得した。


「どこまでがそうなのかは分からないけれど、それはきっと道真さまが教えてくれるんでしょう。日曜日に。わざわざ予告まで出してきたのだから」


 確かに、菅原道真公がわざわざ藤磐家まで訪れたらしいことは話に聞いていた。


太宰府だざいふまで行かなくちゃいけないってのが厄介だけれど」

「太宰府ですか」


 つい口をはさむと、霧ねえは不機嫌そうに「えぇ」と返した。

 太宰府と言えば太宰府天満宮をすぐに思い浮かべる。菅原道真が祀られる大社だ。そこならば、道真さまの加護が十分。絶対的な安全圏と言える。ただ、横江先生が知っているであろう敷島や辻井らの行方は分からないままだ。これも道真さまが解明してくれるのだろうか。


「太宰府まではここにいるみんなで行くのよ。荒江くんと鬼木さんも手伝う気満々だし、置いていけないし、それにあなたたちは報いを受けなくちゃいけない」

「報い、ですか」


 てきぱき言う霧ねえに、荒江会長が眉をひそめる。言葉の意味が分からないのは鬼木も同じくで、首をかしげて不安そうな顔をした。対し、霧ねえは厳しい。


「そう。神様の力を勝手に好き放題使った報いを、あなたたちは受けなくてはならないのよ」


 しかし、望んで授かったわけではないから「好き放題」というのは乱暴な言い方だったろう。

「知らなかった」じゃ済まないということだ。神様の力を勝手に使うというのはそういうことだ。これは敷島や辻井も同じだ。

 鬼木は目を伏せた。しかし、会長は眉を緩めて笑う。


「ふうん。分かりました。気持ち的には納得してないけど、理屈は分かりましたよ。ま、そうじゃなくても無条件に鹿島の力にはなりたいと思ってるんで」

「話が早くて助かるわ」


 霧ねえも優しく微笑んだ。


「……そうと決まれば、日曜日に向けてそれなりに準備をしなくちゃね」


 綾乃さまがすくっと立ち上がる。未だに顔色は悪いが、少しは緊張も解けたようだ。

 そして、ふすまを開けて全員を外へ連れ出す。九十度の廊下から外につながる渡り廊下まで行く間、いつの間にか道祖神さまが消えていた。


 嵐の前とは思えないほど静かでのどかな午後、私たちは藤磐家の最奥にある庭園の池まで連れてこられた。綾乃さまが縁側に出る。そして、池に向かって手をかざした。

 瞬間、池の水がしゅるしゅると音を立てて消えていく。泡が立ち、それが上空へのぼりきらないまでに割れて消えて、それを繰り返してやがて跡形もなく消えた。


「これは……」


 さすがの霧ねえも知らなかったのか、驚きで目を見開いている。


「こういう時のために使うんだってお祖父様から聞いていたの。これが代々藤磐家に伝わる隠れ家。通称、あま岩屋戸いわやと


 ぽっかりと真っ暗な底なしの池。覗き込んでも、風の音しか聞こえない。


「久しぶりに開いたからところどこと汚れてるかもしれないけど。えへへ」


 申し訳なさそうに笑う綾乃さま。溜息を吐く明水さん。大仰に開いた割には、まったく威厳がない。

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