24話 栄光の手をなぎ払え

 きぃいん。

 一陣の風が波打って、渡る。勝敗を分かつ一太刀ひとたちであった。空牙くうがの切っ先は確実にスサノオさまを裂いた。

 しかし、何が起きたのかはすぐには分からなかった。私は両眼を大きく開いて、同時に口も大きく開けて、目の前に広がる光景に驚愕した。

 霧ねえは冷めた顔で居直る。その目はスサノオさまを睨んだまま。

 スサノオさまはと言うと、彼は、地面に転がりながら笑っていた。「ぬぁっはっはっは」と声をとどろかせて。


「……だから嫌なのよ」


 渦巻く笑いの中、霧ねえがイライラと言う。


「この人、わざと負けるんだもの。斬られて楽しいだなんて、イカれてる」


 神様相手に「イカれてる」と言い放つ霧ねえも大したものだが。


八岐大蛇ヤマタノオロチを倒した英雄とは思えないわよね」


 霧ねえはぼやきながら、見えない刃に指を滑らせた。


「はぁっはっはっは。勝てると思うた相手に真剣勝負をしたってなぁ。楽しくなかろう。わしは、到底勝てぬ相手との勝負がしたいのじゃ」


 スサノオさまの腕が首を拾い上げた。笑いながら首を元に戻す。ペットボトルのキャップみたいにひねった。ぐりぐり回る首はなおも言う。


「見た瞬間にそいつの力量が見えるのじゃ。シノは昔より強くなったが、これくらいじゃな。すこぅしだけじゃ」


 人差し指と親指で距離を測る。それはごく薄いもので、霧ねえは不機嫌に鼻を鳴らした。


「……つまり、霧ねえはスサノオさまと何度も戦っているというわけですか?」


 恐る恐る訊くと、彼女は「まぁね」と短く言った。


「会ったらこうしてじゃれ合う、みたいな。そういう流れやシステムみたいなものよ、鬱陶しい」


 はっきり刺々しく言うと、スサノオさまは嬉しそうに「はっは」と笑った。


「して、何用じゃ。確か、儂は機嫌が悪かったはずなんじゃがなぁ」

「あなたが不機嫌だった理由はなんとなく分かってるわ。ひいさまが今、ご不在なんですってね」


 さらりと言い放った言葉は、私にはスサノオさまの機嫌を損ねるのではと危惧するほどの威力があった。せっかく話ができそうだったのに。

 私の心配をよそに、霧ねえは挑発的にスサノオさまを見る。

 一方、スサノオさまは首がきちんとはまったからか、霧ねえの言葉によるものか、「うーむ」と渋い顔つきで唸った。


「そうなんじゃ。今は姫がらん。安全な地に置いて守るべきだと大宰府だざいふの菅原に言われてなぁ……」


 思ったほど憤慨することもなく、スサノオさまは口を曲げつつ言った。機嫌は下降したようだが。それでも、先ほどの覇気はない。


 櫛名田姫クシナダヒメさまは、須佐之男尊スサノオノミコトの妻である。それはこの八坂神社へ来る前に霧ねえから聞いていた。いや、それ以前よりも誰かから聞いてはいたのだが、鹿島家は八坂神社との関わりが極力最小限に留められているので触れる機会がない。


「で、あなたは道真さまの言うことに従ったわけね。珍しいわねぇ、誰の言うことも聞かないあなたが」

「姫を守るのは儂の役目じゃ。菅原にだって守れやせん。数多の脅威から姫を救い、守ってきたのはこの儂じゃ」


 自信たっぷりに、わずかな意地を見せてスサノオさまが言う。


「ということはつまり、姫さまのご意向か道真さまが無理やり強奪したかのどちらかってことね」


 霧ねえが唸りながら言う。

 話が噛み合ってないようで、何故か噛み合っている。


「八尋姉妹についても似たようなことがあったわよね? その時も、あなたは関与していなかったわけ?」

「左様じゃ」


 これについては素早く返ってきた。


「忘れもせん、あの憎たらしい小僧によって消されたのじゃ」

「それはおかしいわね」


 食い気味に霧ねえは言った。


「あの時、八尋沙耶香を消したのが慎一だったとして、あの子は今ここにはいないわよ。どうやって八尋沙与里を消すっていうの? それに、沙耶香も沙与里も、その時はあなたのカミゴじゃなかったはずよ。ねぇ、スサノオさま。あなたのカミゴに、福本勇魚って人はいるのかしら」


 彼女は勢いに任せ、スラスラと言葉を並べていく。この短い瞬間に三人の人物が挙げられたが、スサノオさまは聞き流すことなく、何やら恐ろしいものでも見るかのように目の玉をひんむいた。

 そして、「知らん」と力強く言った。



 *** 



「――いい、祥ちゃん。スサノオさまは福本勇魚を知っているわ。これを慎ちゃんに伝えなきゃ」


 大門を出て、霧ねえは早足に言った。

 城から遠ざかり、ひとまずリバーウォークの中へ入る。


「あの、福本勇魚って誰なんですか」


 私としてはまったく知らない人だ。いつの間に、そんな人物が参入してきたというのだ。


「平たく言えば、誘拐犯ね。または愉快犯かしら。道真さまも怪しんでいてね。聞いたところによれば彼は天狗なんですって」

「天狗?」

かくみの羽団扇はうちわを持ったあれ。空を飛ぶあれよ。あるいは妖怪、あるいは神様、あるいは人。つまり、福本勇魚は冥府の力を持っている」

「はぁ……そんな化物みたいな人をスサノオさまが知っていると?」


 あまりピンとこず素直に訊くと、霧ねえはピタッと足を止めた。私たちはフードコートの中心にいる。平日とは言え、ここには人が多く集まっているから通行の邪魔になってしまう。


「化物、ね。あながち間違いじゃあないわね」


 ぼそぼそと彼女は言った。その顔色は暗い。

 だが、瞬時に明るさを取り戻した。


「福本勇魚も元はだったのよ。そして、大國主さまから奪われた。八尋姉妹――八坂神社の巫女姉妹も同様に引き抜かれているのよ。大國主さまがそういうことをし始めたのは十年ほど前だったから、その頃に」


 十年前……慎一兄さんが北九州を出ていった、出ていかざるを得なかった時期。そして、霧ねえの家族が忽然と消えてしまった時期。

 それがすべての始まりとでも言うのだろうか。


「では、この相次ぐ事件もすべて、十年前から……?」

「そうよ」


 残酷なほどにあっさりと言葉が返された。

 霧ねえの表情に色はない。なんの情もない、無だった。私はそれを一歩離れた場所で呆然と見る。

 同時に、あることに気がつく。


「……じゃあ、鬼木は被害者だったわけですよね?」


 十年前から始まっているならば、この超能力事件は起きるべくして起きた、いわば作られた事象なのだ。大國主さまによって作られた現象。


「そう。あらゆるすべての事象の一方は気まぐれ、もう一方はそれを利用するもの……偶然を必然に変えたのが、果たして神か人か。大國主さまか私たちか、どちらかなのよ」


 霧ねえは目を瞑って、自らに言い聞かせるように言う。その唇の動きがスローモーションに思える。


「これを、道真さまは一言で表していた」


 ――ゲームなのだ、と。



 ***



 翌日、私と鬼木は霧ねえの力で全快し、学校へ通うことも可能になった。

 彼女の顔はとても綺麗で、火傷を負ったことすら思わせない。清々しく「おはよう」と笑顔を向けてくれる。

 しかし、私はどうにも顔が引きつって仕方がない。


「やぁやぁ、諸君。少年少女よ。なんと清々すがすがしい朝だろうね」


 パンク調の黒と赤のライダースーツで、明朗快活に笑う賑やかな人が私と鬼木の間を陣取っている。

 私たちは道祖神さまを同行させられている。申し訳ないが、これには気が散ってしまう。える人には視えるのだから、悪目立ちしないか心配にはなるもので。鬼木はまったく嫌がらないから助かるが。


「ねぇ、鹿島くん」


 通学中、固いアスファルトを歩きながら鬼木が言う。


「すべては日曜日に蹴りをつけるって、霧咲さんが言っとったけど、ほんとなん?」


 彼女は道祖神さまがいようとも構わずにいる。私ももう気にせずにいよう。


「あぁ、そうらしいな」


 つい昨日聞いたことしか知らないが、曰く、決戦は明後日の日曜日に大宰府で行うという。

「日曜なら、あなたたちも学校がお休みでしょ。だから都合がいいわ」とのことで。

 悠長にのんびりしていていいのかと思うのだが。聞けば、八坂神社の巫女や博多の、慎一兄さんの仕事仲間が行方不明と言うし。

 だが、学校をさぼるわけにもいかない。


「それでね、あたし、ちょっと考えたんやけど」


 鬼木が含むように笑う。私は「はぁ」と気乗りしない。間抜けな返事に、鬼木は少し眉を持ち上げた。


「あのね、荒江先輩に協力してもらいたいの。出来れば敷島しきしま先輩や辻井つじい先輩も」


 思わぬ提案だった。


「だって、力を使える人が多いほうがいいって霧咲さん、言っとったよ?」

「確かにそうだが……荒江会長はともかく……」


 敷島先輩や辻井先輩が果たして応じてくれるだろうか。


「なぁに、難しい顔をしなさんな、少年。彼女にはちゃんと考えがあるのさ」


 道祖神さまがほのぼのとした温かい目を向けてくる。鬼木も「そうそう」と元気に笑う。


「霧咲さんにはもう言ってあるのよ。それに、荒江先輩なら仲間になってくれるはず。だって、あたしの能力をんだから」

「……は?」


 要領を得ない。彼女の言葉が足りないのか、いや、私の頭が悪いのか……どういう意味だ。


「だから、跳ね除けちゃうんだって。テレパシーが通じんの。いや、無視されてたのかなぁ?」


 それから彼女は不思議そうに首をかしげて、照れくさく笑った。



 学校に着けば、私たちはそれぞれの友人のもとへ帰り、丸一日休んだことを茶化されている。

 ちなみに、道祖神さまは廊下の中に忍んでいるからいつでもどこでも私たちを見つけることが可能だそうだ。

 そうして一限目、二限目と時間は過ぎていき、なんだか平和な空気を吸い込んでいた三限目、社会科の授業終わりに横江よこえ先生から声をかけられた。


「鹿島くん。怪我をしたって聞いたよ、大丈夫?」


 頼りなげな細い目で、先生は私を心配しているようだった。


「大丈夫です。超能力絡みではあったんですが……横江先生はその後は何かありましたか」

「僕は特になかったよ。学校もここ二日は平和そのもので、これといって目立った事件はないよ」

「それは良かったです」


 横江先生は教材を抱えて、私に安堵の笑みを向けた。そうだ、引き入れるなら先生に頼んだほうがいいのでは……


「鹿島ー!」


 突然、廊下から強い呼び声が割り込んでくる。誰かと思えば、荒江光源生徒会長だった。その傍らには鬼木がいる。

 彼は私に手招きした。愛想のいい顔で。


「なんでしょうか」


 怪訝に近寄ると、横江先生もついてきた。

 すかさず荒江会長の目が光る。


「鹿島に用事があってさ。あ、先生は次の授業の準備とかしてもらって大丈夫なんで」


 なんだか冷たい言い方だった。それにより、気の弱い先生は「そうかい」と、寂しそうに私たから離れていく。その後ろ姿をじっとりと荒江会長が見つめていた。


「先生がどうかしたんですか」

「どうもこうもない」


 私の言葉に、荒江会長は煩わしげな態度を見せる。一変した彼の表情に、なんだか人間の裏側を見た気がした。


「僕ね、ちょっと考えてたことがあってね。まあ、まずは質問からしよっかな……鹿島、君は横江先生の神通力を知っとるん?」


 その質問に私は口を開きかけ、閉じた。

 言われてみれば、横江先生がどんな力を持つのか聞いていない。大國主さまのカミゴであることは知っているが。


「……しかし会長、普通は他人に自分の神通力を明かしません。ひけらかすようなことじゃないので」


 二人の手前、小言じみたことを言いたくないのだが、カミゴ倶楽部の人間は基本的にそういう人たちばかりだ。条例違反とまではいかずとも、なんとなく隠したがる。

 それを言うと、荒江会長は「ふーん?」と含むように頷いた。


「OK。なら、知らんのも仕方ないってことやね」


 肩をすくめて諦めの態度を見せる会長。私は鬼木を見やった。彼女は曖昧に笑うだけで、こちらもどうやら会長の意図が分かってないらしい。


「鬼木さんからの招集を受けてね、僕はぜひとも君らに手を貸したいと思ってるんだよ。悪い神様を退治するっちゃろ?」

「いやぁ……悪い神様というか、なんというか……」


 厳密に言えばそういうことではないのだが、認識は間違っていないから説明が難しい。それに、荒江会長がすんなりと承諾してくれたことが妙だと思う。

 この疑心を察知したのか、会長はおどけるように笑った。


「僕はね、この鬼木さんの命令を無視してたんだよ。学校への嫌がらせを推進するようなやつを、超能力者たちに信号を送っていたのは気づいとったけどね」

「どうして無視したんですか?」


 これには鬼木が食い気味で訊く。

 すると、会長はニヒルに口元を持ち上げた。


「そんなことをしたくなかったから。何しろ僕は生徒会長だし、やろうと思えば自分でできるし。命令されなくともね。しかも、僕にその意思がなかったのも要因かなぁ」

「はぁ、そうでしたか……」


 鬼木が返すけど、理屈がよく分からないので納得はしていないようだった。無論、私も首をかしげるしかなかった。

 会長が咳払いする。


「ともかく。参加するよ、その件に関しては。僕に力を勝手に与えた神様ってやつを、ぜひとも拝んどこうって。神だけに」

「………」


 なんとも反応に困るジョークだ。

 でも、荒江会長が味方なら心強い。信頼のほどは五分五分だが。


「あの、それなら私からも提案をいいですか」


 二人を前に、私も切り出してみる。ふと、廊下の奥を見つめた。暗さを帯びた階段の踊り場、その奥にある教室は情報処理ルームだが、その下にあるのが社会科資料室だ。


「その決戦で、横江先生にも協力してもらうのはどうだろう」


 それを言うと、二人の顔に影が落ちる。


「先生はやめよう」


 きっぱりと会長が言った。顔色はあまり良くない。その意味が分からない。


「何故ですか」


 訊くと会長は眉を寄せて渋面をつくる。


「問題点はいろいろあるんやけど、結論から言えば、僕は横江先生がどうにもに思えて仕方ない」

「はぁ……」

「ま、分からんやろーね。でもこの間、鹿島と先生が僕を訪ねてきたときから不自然さがあったよ」


 会長の声が一段と低くなる。私は思わず周囲を見回した。道祖神さまは聞いているのだろうか、と何故だか不安を覚えてしまう。

 そんな私に構わず、会長は饒舌にある仮説を述べた。


「横江先生は大國主のカミゴだって言ってたよね。でも、あの時、神通力を見せてはくれんかった。ってことは、見られちゃまずいやつなんじゃないのかなって。でも、鹿島の言う通り、通常は力をひけらかさないのかもしれない。でも、何者か分からない人を仲間に引き入れるのは危険な行為だと僕は思う。手の内を知らないままにしておけば、トンズラされても文句が言えんわけで」


 なるほど、一理ある。

 確かに私に神通力の話は一切しなかったし、会長に力を見せるときも咎めるように止めていた。見せたくない事情があるのだろう。


「そこで僕は昨日、社会科資料室に行ってきたっちゃん」


 会長は「ふふん」と得意げに笑い、私たちの唖然とした顔を愉快そうに浴びた。楽しそうで何よりだが、さすが生徒会長、無鉄砲な人だな。


「それで、何か分かったんですか?」


 鬼木がせっついて訊く。荒江会長はもったいぶらずに「うん」と白状した。


「横江先生の力が分かったよ。彼は、浮遊だ。空を飛べる」


 

 どこかで聞いたフレーズだ。


「一瞬やったけど、見えたよ。窓から出ていった。そして、そのまま宙に消えた」

「宙に消えた……?」

「うん。その時、もしかしたら僕の存在に気づいとったかもしれんね」


 くくく、と荒江会長は喉の奥から笑った。いたずらを遂行しようと企む子供のように。



 ***



 同刻。博多区、中洲。

 空はからっと晴天で、消火した事務所の沈鬱な空気とは打って変わって、青々と清々しい。

 清水原はソファに座り、その向かい側に八尋姉妹と碓井大介、そして吉塚古着店の主人を置いて黙り込んでいた。


「ジタバタしよっても状況は変わらんとやろ。そんなら、一つ一つ整理ばせないかんって道真さまも言いよったしなぁ」


 言ったのは吉塚だった。ずっと黙りこくった清水原に、亜弓と碓井は何も言えない。沙与里はなおさらだ。となれば、緊急招集された吉塚が仕切るしかない。年長者のこの穏やかな話しぶりは、場の空気を和らげる力があった。


「んまぁ……教えるのが遅かったね。申し訳ない。電話は何度かしたっちゃけどね、ちょうど福本くんが来とったっちゃろ? それなら電話やら出られんばい」

「まぁ、吉塚さんの奥さんがこの事態を予知してくれていたおかげで、事務所は守れました。現に、亜弓ちゃんの力で元通りやし。ただ、玉城が……」


 重たい口を開いたのは清水原だった。昨夜からずっと口をつぐんでいたのだが、ようやく事態を飲み込めたのか、頭が働いたのか、彼は小さな声でぽつぽつと語り始める。それを吉塚は「うんうん」と大きく頷いて聞く。


「玉城の所在は不明だ。福本がさらったのは間違いない。天狗ってやつは人をさらうと言うけども……あーもう、最悪」

「ねぇ、清水原くん。十日恵比須神社に行ってみようよ。恵比須さんのお社なんだし、そこに行けば何か分かるっちゃない?」


 おずおずと亜弓が訊く。


「いいや、それはそれで一理あるけど、誰もが真っ先に考えることやん。それに、あそこは恵比須さんのテリトリーでもある。下手に動けば何が起きるか分からんし」


 すぐに否定する清水原。そのお手上げといった空気に、亜弓は腕を組んだ。吉塚も口を曲げる。


「じゃあ、弁天さんのとこは? 助言をもらおう」


 今度は碓井が提案する。

 清水原は首を横に振った。


「大黒さんは」

「うんにゃ、あのおっさんはダメだ」

「じゃあどうするん? 黒崎の人たちを呼ぶの?」


 しびれを切らした亜弓が問う。それに対しても、清水原は首を横に振った。


「とりあえず、君らは弁天さんのとこに行ってきぃ。いろいろと準備ができたら呼ぶけん。特に、碓井くんは遅刻せんでね」


 そう言い、彼は三人に手を振った。出て行け、と言うように。

 これに亜弓は眉をつりあげた。そして、妹の腕を引く。


「行こ」


 それだけ短く言い、彼女は沙与里を連れて事務所を出ていった。碓井もあとに続く。


「じゃあ、連絡待ってますんで」


 そう言い残して、事務所から遠ざかっていく三人。その足音が完全に消えるまで、清水原はじっと微動だにしなかった。


「……吉塚さん」


 時間を空けて、清水原は慎重に言う。対し、吉塚は人の良さそうな顔のまま「ん?」と訊く。


「これ、条例違反になるかもしれんけど……」

「名簿を貸してほしいとかいな?」


 察しがよく、吉塚はすんなりと言った。清水原が頷く。


「福本勇魚について調べたいことが山ほどあります。名簿を貸して、までは言わんにしても、あなたから詳細を聞くことは可能でしょ」

「そうやねぇ……なら、こうしよう。条例違反はさすがに容認できんけど、口が滑ることはようあることやしな」


 そんな前置きをして、吉塚は笑った。


「福本くんと言えば、確かに最近、恵比須さんのカミゴさんになったんやけど、その登録が奇妙やったんよ」

「奇妙?」

「そうそう。住所不定、本名も分からん。これ、玉城さんとそっくりよねぇ? 玉城さんについてはお家の事情らしいけど、福本くんの場合は違う」


 清水原は少しだけ帽子をずらした。ニット帽と前髪の奥にある目が光る。

 それを吉塚はまっすぐに見つめた。どうにも滑りやすい口は自然と言葉を紡いでいく。


「普通、カミゴ登録は親神と一緒にはん。特に恵比須さんみたいな大神とは。でも、福本くんは恵比須さんを引き連れとった。つい最近カミゴになったようには思えん。そうやけぇ、こっちで調べたと」


 吉塚は前のめりに話した。段々と声音を落としていく。そして、清水原に囁いた。


「福本勇魚は、いるってことが分かったとよ」

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