23話 導きの先に

 堂の中へ入れば、そこはまたたく間に日本家屋風の部屋が現れた。玄関の三和土たたきに靴を揃え、かまちを上がり、廊下を歩く。しっかりした造りの家だ。明日にでも住めるような。

 しかし、どうにも勝手知ったる自宅や藤磐家とは間取りが違うので、新鮮な空気に気圧される。他人の家に上がり込む感覚で「お邪魔します」と小声で居間を覗いた。

 そこには、狐の面をつけた少女が正座していた。肩より長かった黒髪がばっさりと首元まで切られている。まあるい髪型は確か、ボブというんだったか。霧ねえが言っていたような。


「えっと……鬼木か?」


 どうでもいいことを頭の隅に追いやって、私はこっそり問う。すると、彼女はゆっくりと白い狐面を向けた。


「うん。なんか久しぶりやねぇ、鹿島くん」

「あぁ、うん……そう、だな」


 体感では数週間が過ぎたように思うのだが、まだたったの一日しか明けていないのだから、この挨拶は不自然だった。それに、鬼木の声が繕うようで不思議そうだったから、私もしどろもどろに返すほかなかった。


「座って」


 狐面のせいか、鬼木が別人のように思える。髪型が変わったことと、私服姿だからという点も含めるが。

 何故か、私は緊張していた。剣道の試合でもここまで緊張したことはないのに。

 ごくりと唾を飲み、鬼木と同じく正座して向かい合った。


「……ねぇ、鹿島くん」


 ゆるりとした鬼木の声は、なんだか憑き物が落ちたように優しく弱い。


「いろいろと綾乃さんからお話を聞いたっちゃけどね、神様についてを。それでね、いろんなことを訊かれたし、答えたんだ。でも、鹿島くんには自分から話したいって思って。だから、呼んでもらったんやけど」


 前置きが長く、口調は遅い。元々、鬼木は穏やかだからこういう話し方だったけれど、今はどうにも気まずい雰囲気があり、話をまとめようと考えている節があった。私はそれをじっと辛抱強く待つ。

 狐面は表情を語らない。いつ口が開くのかは分からないが、しばらくの沈黙があった。


「……はじまりは、四月。高校に入って、鹿島くんと出会って、部活に入ったあとくらいかな。が聴こえるようになったの」


 声がだんだんと弱くなっていく。それでも鬼木は面を通して私から目を逸らさない。面のおかげなのかもしれない。どうして彼女が顔を隠しているのかは分からないが、聞いてはいけないような気がしている。


「なんか、この言い方だと本当に変な人みたいよね。でも、聴こえたの。鹿島くんなら笑わずに聞いてくれると思うから話すんだけれど、神様が私に教えてくれたの。いろんなことを。そして、他にもあたしみたいな子がいるってことを。それで、あたしはその子たちにお願いをすることもできるって」

「お願い?」

「うん」

「お願いって、つまり……超能力の騒動を起こす、という?」

「……うん」


 鬼木の返事に、私はがくりと首を落としてしまった。脱力した。

 北星高校超能力ブームの黒幕は鬼木弥宵だった。

 信じたくなかったが、ここへ来るまでの間はそのことを考えていた。いや、霧ねえが怪しんでいた時点で気づくべきだった。鬼木であってほしくないと願っていたから気づかないようにしていたのだ。まったく、つくづく私は弱い人間だ。


「だから、ね。超能力は信じないって言ったのもカモフラージュっていうか。そういうことで。ごめんね、嘘ついて」

「嘘……か。そうか。全部、嘘ってことになるんだよな……」


 どうして私はこんなにもショックを受けているんだろう。目頭が熱くなるのは、まだ万全じゃないからか。

 そして、彼女の顔が見られないのは何故か。こんな情けない顔を見せたくないからか。それとも、彼女が嘘つきだから軽蔑しているのか。どっちだろう。どっちも、かもしれない。

 私はあの教室で、鬼木が言ったことを思い出した。


 ――夢は夢のままがいいって思ってるから、かなぁ?


 あの時、彼女はそう言った。超能力は信じないと言ったそのあとに。


 ――現実世界でも超常的な力が使えてしまったらもう娯楽じゃなくって『現実』になるわけだから……そうなっちゃうと、もう楽しくないのよ。


 それから、彼女は寂しそうにあとを続ける。


 ――だからね、今起きていることは全部、あたしは望んでないことなんよ。見なかったことにして、あたしの中にある架空異世界を守ってんの。


「なぁ、鬼木」


 私は顔を上げずに言った。

 彼女は「ん?」と優しく聞き返す。


「お前は一体、何を守っていたんだ?」


 問うと、彼女は怯むように上半身を反らした。


「えっ」

「いや、あのとき、お前が言ってただろう。あたしの中にある架空異世界を守っていると。それは嘘じゃないんだろ? 守っているものがあったから、ああ言ったんだろ?」


 なおも問えば、彼女の怯んだ体が戻ってきた。そして、綺麗だった姿勢が折れ曲がっていく。やがて彼女は溜息を吐いた。


「……そんなことも言ったよね。よう覚えとーっちゃね、記憶力良すぎだよ、鹿島くん」


 おどけるように返す狐面。その内に隠された表情はきっと、笑っているんだろう。苦しく。


「守っているもの……それはそのまんま、あたし自身のことよ。自分を守っている。鹿島くんはないかな? 不安で押しつぶされそうで、どうにも感情が正常でいられなくなること。不安で不安で仕方なくて、あたしは正しいのか分からなくなること。いろんな人に出会って、刺激をもらって、それはそれでいい経験になるんだろうけれど、でも、それに染まりすぎていつの間にか『これは本当の自分なのか』って考えちゃうこと……ない?」


「それは……」


 どうなんだろう。あるのかもしれない。でも、気づいていないのかもしれない。

 己が己であることに自信を持つことができないという感覚が、この瞬時には思いつかなかった。だから言葉に詰まってしまう。


「まぁ、鹿島くんはいつでも自信満々だし、積極的だし、真面目だし、素直な人やもんね。あんまりそういうことを感じないのかも。でもね、あたしや他の子たちはそうじゃなくって。みんな、悩みがあったの」


 悩み、か。そう言われると敷島先輩は特に当てはまるかもしれない。荒江会長が言っていたように、彼女はクラスに馴染めないという。そういう悩みが能力を爆発させたのだったら――それと似たことは、私も経験にある。

 だが、それは人生のほんの一部だ。その辛さや痛みを、あたかも人生の一括りにして嘆くのは愚かしいと、神様は言ったから、それ以来、そう強く信じている。


「ということは、辻井先輩も荒江会長も、敷島先輩も、鬼木もそういう不安が力を呼び寄せたと……?」

「そうなんだろうね。綾乃さんたちはそう言ってたけれど。あたしも委員長なんてやってるせいか、どうでもいいことで悩んで抱え込んじゃってね……馬鹿だよね」


 鬼木は小さく「ふふふ」と笑った。


「あーあ、やっぱり鹿島くんは他の人とは違うなーって思っとったけど、そうやったんやね。生まれたときから神様が一緒だなんて、なんか羨ましい」

「羨ましいとは、あまり言われたことないな……そりゃあ、ありがたいものだが」


 苦い思い出もあれば良い思い出もある。力が強すぎて溺れそうになるけれど、助けられたこともある。使いようによっては毒にも薬にもなると、タケさんが言っていたからその教えは守っていきたいつもりだ。

 それが当然だった私を、鬼木には異人のように見えていたんだろう。今でもそうなのかもしれない。彼女との距離が少し開いてしまったようで、無性にさびしく感じた。

 それに、私のあの暴走を見ていたのだったら……離れていくのは明らかだろう。怖がられても仕方ないと思う。


「鬼木、あの……」


 いつものようにはっきりと言葉が出ない。

 不安とはこういうものなんだ。すっかり忘れていたが、こうも恐怖を覚えるとは。

 迷っていく。なんと言えばいいか分からなくなる。大げさに嘆きそうになる。

 こんな壮大なものを抱えていたのかもしれない。鬼木も。


「鹿島くん。お互い様だよ」


 私が言う前に、彼女は悟ったように言った。


「お互い様だよ。あたしも見られたくないものを見られた、鹿島くんも見せたくないものを見せた。お互い様じゃん。神様の力は多種多様だって聞いたよ。確かに、鹿島くんの力は強くて怖い、けれど、それはあたしもそうだし……だって、他人に命令できる力って……一番怖いやろ?」


 彼女は毅然と言ったが、膝に乗せたこぶしは震えていた。


「そういうものを持ってたって今さら気がついて、あたしはあたしが怖くなったよ」


 寂しげな声の鬼木の顔は、面に隠れていて、やはり分からなかった。



 ***



 厄払いの面をつけていたのだと、あとで綾乃さまから聞いた。それと、鬼木は顔にも火傷を負ったらしい。


「そんなに気にするほどじゃあないわ、かすり傷みたいなものよ。痕が残るってわけでもないのだし。それに、私がそうさせないんだから」


 霧ねえが自信満々に言う。横に立つ彼女は、今日はいつものライダースファッションではなく、しとやかなロングスカートである。サマーセーターは大胆なノースリーブ。


 霧ねえの護りは強い。私の体を一日で快復させたくらいに強い。さらにこの護りの力は、使いようによっては攻撃も可能なのだ。よほどのことがない限り使わないのだが……私に向けてはさらっと使う。

 鬼木の言う通り、神通力というのは恐ろしい力なのかもしれない。ありがたい恵みだと思っていたが、認識を改めなくてはいけないな。

 すっかり傷心な私の背中を、霧ねえは茶化すように優しく叩いた。そして、鼻息荒く言う。


「さて、祥ちゃん。今から私とバディを組むわよ」


 何を今さら。


「バディって……今までもそうだったじゃありませんか」


 呆れた私に、霧ねえはとびきりの笑顔を向けてきた。


「ここからは単独行動は一切なしってことよ。最初こそ私とあなたは一心同体だったわけだけれど、別行動になっちゃったでしょ? そうしてあなたは暴走し、鬼木さんが怪我をした。これは私の責任よ」

「そんなことは……」


 きっぱりと言い切る霧ねえに、私はどうにも歯切れが悪い。今日は本当に調子が悪いようだ。

 無理やり快復したのは良くなかったのでは。いや、治癒を施してくれた霧ねえや藤磐家に失礼だ。うーん。


「祥ちゃん? なんだかむつかしいことを考えてるわね?」

「いえ……」


 つい誤魔化してしまう。でも、そんな甘い嘘はお見通しのようだった。


「まぁ、いいわ。て言うか、あなたたちが怪我をしたこともそうなんだけれど、これは天神さま……道真公のご命令でもあるのよ」

「へ?」


 思わぬ言葉に思わず目をみはる。

 天神さまからのご命令、とは。


「詳しくはかくかくしかじかで、まぁ要するに、今からお会いする須佐之男スサノオに話を聞くしかないのよ」

「はぁ……それで私は、突然になんの脈絡もなく八坂神社へ連れてこられたというわけですか」

「脈絡は一番最初からあったのだけれどね。ま、あなたにとってはなんのゆかりもないわけで不思議に思うのは当然なことだったわね」


 彼女は大門の前で仁王立ちしながら言った。鼻で笑うように。

 大きな門と、その周りに堀がある小倉城こくらじょうの敷地内に八坂神社はあるのだ。はためくのぼりは色とりどりで、春日神社とは少しスケールが違う。圧倒感、いや圧迫感を覚える。


 さて、須佐之男尊スサノオノミコトは八坂神社の主神の一人だという。

 黒崎から小倉までは距離があるので、高校生の私はあまり馴染みがないというのも、鹿島家が八坂神社とあまり関わりを持たないからなのだろう。どうも、昔に大喧嘩をしたそうで(それっきりなのだが、慎一兄さんの追放が八坂神社と関わりがあるらしいというのは中学に上がった頃に知った)。

 それに、ここはなんだか居心地が悪い。八坂神社というよりは小倉が。なんというか……小倉はちょっと派手だ。


「さ、ひとまずの説明が終わったところで、行きましょうか」


 霧ねえは堂々と門をくぐっていった。私も慌ててあとに続く。

 大門をくぐればすぐに境内が広がる。今日は平日だからあまり人はおらず、いるとしたら小さな子どもと恰幅かっぷくのいい男の人。つるりとした頭に、黒い剛毛のひげがなんだかダルマを思わせる。彼は社の前で佇んでおり、目をつぶってじっと動かない。

 子どものほうは、オーバーオールで、フード付きのスウェット。地面に何かを描いている。そのくらいしかいない。

 霧ねえは迷いなく子どもに近づいた。


「ごきげんよう、少比古那スクナビコナさま」

「ごきげんようなんざ、今日び聞かないよなぁ……んで、また来たなぁ、シノさん」


 まさか少比古那さまだとは思わなかった。大國主さまの相棒である小人神が、オーバーオールの五歳児だとは思いもしない。

 文字通りあんぐりと口を開いて驚く私をよそに、霧ねえはポケットからおもむろにキャンディを出した。子供の時分によく食べたペロちゃんキャンディのイチゴ味だ。

 少比古那さまはそれをかすめ取ると、包みを剥がして口に入れた。その姿は子どもそのものだ。


「はい、今日はなんしに来たとねー?」


 口調は年配の男性みたいだけれど。


「今日はね、スサノオさまに会いに来たのよ。いらっしゃる?」

「そこおるやろうが、見て分からんのかい」


 少比古那さまは素直に指をさした。その先には社があり、無言で佇むダルマ男がいる。


「あぁ、あれがスサノオさま」


 霧ねえは冷たく言った。その言葉がいかにもわざとらしい。知ってて知らぬふりをしているような。


「あなたから伝達していただければ助かるんだけれど」


 霧ねえはペロちゃんキャンディのオレンジ味を出した。すかさずかすめ取る少比古那さまは、嫌そうな顔をして「しょうがないなぁ」と立ち上がった。


「スサノオー、これ、スサノオやーい」


 ぶっきらぼうに呼び寄せる。

 すると、無言だったスサノオさまの目が動いた。


「なんじゃい、話しかけるな!」


 のっけから機嫌が悪い。私と霧ねえは顔を見合わせた。

 少比古那さまが「やれやれ」と首を振ってしゃがむ。


「……だってよ」

「諦めが早いわよ。いいから呼び寄せてちょうだい」

「霧ねえ……ここは素直にこちらから行ったほうが良いのでは」


 頑固に来い来ないを言い合ってもらちが明かない。確執じみた何かを感じるも、話をするならどちらかが折れなくてはいけないだろう。

 私の提案に、霧ねえは嫌そうに溜息を吐いた。


「わかったわ……まったく。ほんと、ここの人たちは融通がきかないわね」


 この捨て台詞は余計だったと思う。改めて思うが、霧ねえは基本的に大人げない。

 少比古那さまから離れ、私たちは固い砂を踏んでスサノオさまの元へ向かった。計十五歩でたどり着けた。


「ええと、どうも。お話があるのですけれど」


 不躾な切り出し方だな。


「うるさい! 話しかけるな!」


 またもや大声で怒鳴られる。

 私はヒヤヒヤしながら双方を見守っておくしかできない。霧ねえは耳を塞いで、つんとした顔をスサノオさまに近づけた。


「八尋姉妹についてと、櫛名田くしなだひい様について、あなたはどれくらいのことをご存知なのかしら。お聞かせ願えませんか!」

「忠告だ! これ以上寄れば、貴様らもろともちりにしてやるぞ!」

「ふうん……黙秘ね。道真公が嫌がるわけだわ、納得」


 話が噛み合わないのに、霧ねえは分かっているかのように納得している。私はさっぱりなのだが、ともかく塵にされてはかなわない。これ以上の接触は危険じゃないだろうか。


「姉妹との揉め事よりも、あなたは大國主さまと折り合いが悪いのよね? 最近はお会いになったのかしら」

「ぬはははは。威勢のいい女じゃ。これほどに愉快なのは随分と久しいぞ!」

「あらそう。それは良かったわね。で、質問に答えてくれる? 私、こう見えて忙しいのよ。あなたと一戦交えるのは後にしたいところなんだけれど」

「そうかそうか、黒崎のシノ。わしと一戦交えたいのか。心得た。かかってくるがいい」


 急にご機嫌なスサノオさまに、霧ねえは忌々しそうに舌打ちした。


「本当に相変わらず話をきかないわね……だから嫌なのよ、この人」

「それは……なんとなく分かりました。それで、本当に戦うのですか」

「そうね。でないとまた機嫌が悪くなりそうだし」


 言いながら霧ねえは、スカートのすそをたくし上げた。

 まずい、これは見ちゃいけない気がする。だが、私に構うことなく、霧ねえはふくらはぎに巻いていたホルダーから何かを抜いた。

 つかつばは頑丈な鉄だが、その先の刃がない。彼女の武器の一つであり、愛刀でもあり、形見でもある妖刀、空牙くうがだ。

 すうっと息を吸い、姿勢を正し、スサノオさまと対峙する。

 そして、息が止まった。空気の流れも止まる。すべての気が霧ねえに集中し、空牙の刃が輪郭を浮かばせる。


「いざ尋常に――」


 その声と同時に、空牙が気を切り裂いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る