4話 憂鬱の女神
中洲、中央通りは飲み屋やクラブがひしめく歓楽街。
その一角にある
シックな黒の外観であるそのクラブは、正面をくぐれば落ち着いた空間が広がる。丸いソファを中央から円状に配置してあり、奥へと視線を向ければ、透き通った乳白色のカーテンがかかっている。そこを開けると、煌びやかなボトルが並ぶバーカウンターが顔を出す。
開店前の店。そのカウンターでスマートフォンをぼんやりと眺めている細身の女が一人。
ゆうらりと弛む薄い艶めかしい暗色のロングドレス、結い上げた美しい黒髪、ほっそりと締まった顎。年の頃は20代半ばに見える。若々しくきめ細かな白肌がオレンジの白熱灯に照らされて、長いまつげが影を落としている。
哀愁に暮れる妖艶な女といった雰囲気だが、彼女はただ従業員の欠員に頭を悩ませているだけである。
「ママ」
オープン一時間前になっても唸る彼女にそっと寄り添うのは支度を終えた若い
「あら、
平静を装うも、亜弓は目ざとい。彼女のスマホをチラリと見やり、呆れのため息を吐く。
「ねぇ、ママ。そんなに困ってるんならお願いしたらいいでしょ。もう意地張ってないで」
「やあよ。絶対にいや」
スマホを放り投げて、ママはカウンターに突っ伏した。
「でも、どうしようもないやん……」
それでもママは首を横に振って拒否。それを亜弓は大きな目でじぃっと見つめた。
「ほんっと、ママはしょうがないなぁ……余計なお世話かもしれんけどね、実は私からもう連絡しときました」
しれっと言うと、すぐさま「えっ」と声を上げて起きる。ママの目には明らかな動揺がある。亜弓は自分のスマホを掲げて振った。
「清水原、呼んだからね」
「えぇぇぇぇぇーーーっ!?」
ママの絶叫が店内を震わせた。
***
中洲、明治通りを横切って。あたしたちは中央通りに入った。
「……僕、やっぱり納得いかない」
白スーツのウカちゃんがぼやく。もうこの言葉も何度目か。
でも、その言い分にはあたしも納得である。ただ、とてもしつこい。清水原もうんざりと口元を歪めていた。
「ほんっと往生際悪いねぇ、ウカちゃん。そろそろ黙らんと、くらされるよ」
「誰に?」
「俺に」
「君のゲンコツは怖いなぁ……でもね、僕も譲れないことがあるんだよ」
清水原の面倒そうな声にもウカちゃんはめげずに文句を言いつづけた。
神様のくせにネチネチしているなぁ、というのがここまでのあたしの感想。
ぐずるウカちゃんに対して、清水原は疲れたような笑いを上げる。彼の手は既にこぶしを作っている。そろそろ本当に
でもまぁ……確かに女装は嫌だろうね。しかも強制だし。
だが、あたしは黙ったままで決してかばうことはしない。だって、あたしも強制的にキャバクラへ連れて行かれているのだから。こればかりは助けられない。
「ウカちゃん、弁天さんと仲良かろうもん。それにウカちゃんはその辺の女の子よりもかわいいし。ほんと、めっちゃかわいいやん。肌キレイやし、顔も小さいし、あーもう、バリかわいいねぇ」
清水原はおだて作戦に出た。しきりに「かわいい」を連呼する。
「うーん」
まだ煮え切らないウカちゃん。
そうこうしているうちに、あたしたちはCLUB MUSEの入り口までやってきた。
「ウカちゃんは何着ても似合うしねぇ。神様一かわいいよねぇ。スタイルもいいし、酒も強いし」
このおだて作戦に、ウカちゃんは「まぁねぇ」と顔をうつむける。これは落ちるな。マジで落ちる五秒前。
「うーん、分かったよ……もうここまで来ちゃったし。キャバ嬢ならお酒もタダで飲めるだろうし」
神さま、チョロいな。
「よし! そうと決まれば早速行きましょー」
清水原はあたしの手を取って、何の躊躇いもなく暗い店内へと入った。
あたしはずっと黙っている。だって、クラブなんて初めてだし……緊張しないわけがない。
中洲の歓楽街というのは道として使うくらいしかなく、キャッチのお兄さんたちや派手なお水の人たちが闊歩する中を横切る程度。背景としか見てなかったし興味もなかったし、また遠い存在だと思っていたから……つまり、私には縁のない場所のはずだった。
「こんにちはー」
あたしの心情を汲み取ることなく、清水原は堂々と正面から店内へ入り込む。暗めの灯りがどこか高級感を演出しており、とにかくあたしは腰が引けていた。
「弁天さーん?」
丸いソファが並ぶホールを行き、奥のカーテンへと進んでいく清水原。それを追いかけるあたしとウカちゃん。
「それにしても珍しいよねぇ。弁天ちゃんが彼に代行を頼むなんて」
「そうなん?」
すかさず訊けばウカちゃんは「うん」とまん丸の目をこちらに向けて笑った。
「ちょっと前に大喧嘩したんだよねぇ。それきり、弁天ちゃんは清水原くんのことを避けてるんだ」
「大喧嘩……へぇ?」
なんとまぁ、そんなことがあったとは。
しかし「弁天」と言えば大黒さんと同様に七福神の一人。もしかして、その人も「神様」なんだろうか。ウカちゃんも知っているようだから尚のこと、あたしのカンが鋭く働く。
「弁天ちゃんはね、金運の女神さまなんだよ」
考えていたらウカちゃんが教えてくれた。
なるほど、やっぱり神様だったか……
「いやぁああああああーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!」
突如、店内を響かせる悲鳴。それは女のものであり、超音波のごとく高い音で耳をつんざいた。尋常じゃない戦慄めいた悲鳴には背筋が凍る。そして、ドンガラガッシャーンと大きな衝撃音が渡る。
ウカちゃんが慌てて奥のカーテンをばっさり開いた。
「どうしたの!」
あたしも白スーツの後ろから顔を覗かせる。
すると、そこにはロングドレスの美女が肩で息をしていた。カウンターに置いてあったボトルが無残に散乱している。何事か。
「……清水原くん、なんかしたの?」
ウカちゃんが呆れ口調で訊く。すると、カウンターの向こう側から清水原がふらりとよろめきながら這い上がってきた。
「いや待って、俺の方が被害者なんやけど……急に投げ飛ばされたんだけど」
頭を抑えながら訴えてくる。すると、ロングドレスのお姉さんが息を切らしながら言った。
「あんたが急に来るからよ! びっくりさせないで!」
「俺の方がびっくりしたんですけどねぇ……まったく、手荒い出迎えだぜ」
そうやってぼやくけども、彼の口元はなんだか軽薄に笑っている。ロングドレスのお姉さんはプルプルと怒りあらわに両手にこぶしをつくっていた。
「よくもまぁノコノコと来れたものね!」
「弁天さんが呼んだんでしょーよ。だから来たってのに、その言いぐさはないんじゃないですか」
「よ、呼んでないわ! 私はあんたの手なんか借りないんだから!」
カウンターから出てくる清水原を警戒するお姉さん。その後ろで呆気にとられた様子の、けばけばしい女の子がため息を吐いた。
「もう、ママったらいつもそう言う……」
「ツンデレもここまでくると災害レベルやね。亜弓ちゃん、どうにかしてくれん? この人」
「無理。私は弁天さまには逆らえませーん」
派手な女の子――亜弓ちゃんはホールドアップして、いたずらっぽく笑った。清水原がうなだれる。
「あーもう、大体分かった。弁天さんになりすまして亜弓ちゃんが代行を頼んだってとこね……はぁ」
清水原の言葉に、亜弓ちゃんは「ごめんね」と両手を合わせた。なるほど、だから「珍しい」のか。納得。
「でも、困ってるんでしょ?」
ウカちゃんが訊く。すると、おしゃべりな亜弓ちゃんがすかさず口を開いた。
「困っとうよ。もうめっちゃ困ってる。黒服が病欠でね。それだけならまだしも、今日は上客が来るからさぁ」
「ちょっと、亜弓ちゃん!」
未だ困惑気味のお姉さん――弁天さんは亜弓ちゃんの口を慌ててふさごうとした。だが、すでに遅し。清水原の口がニンマリとする。
「上客ねぇ……誰が来ると?」
「
「わーお、超VIPじゃあないの」
清水原が冷やかすように言った。ウカちゃんがヒューッと口笛を鳴らす。そして、体制を整えた清水原は弁天さんに顔を向けた。
「ここは俺に任したほうがいいんじゃないですか」
自信満々な提案だな。
弁天さんは頭を抱えて口元をもごもごさせている。
「し、仕方ないわね……金づるを逃すわけにいかないし……」
なんか今、しれっとどえらいことを言ったぞ。そして弁天さんの顔もまんざらではなさそう。ツンとしてるけれど。
なんだ、神様ってのはみんなチョロいのか? よく分からないな。
「まぁ、いいでしょ。この際、あんたを利用してやっても……で、そこにいるかわい子ちゃんは?」
とうとう弁天さんの目にあたしが映った。思わずドキリ。
「あぁ、職場体験の子です。神様が見えるようになったんで研修を兼ねて」
先に素早く清水原が答えた。すると、弁天さんの目が優しくなる。
「ふうん? 見た目は普通だけれど、高く売れそうね」
失礼なことを言うな。
しかし……「売れる」とは?
「ここは神御用達のクラブなの。人間のお客も来るけれどね。でも、神率高いから。だから、あなたみたいな神好みはとーっても貴重なのよねぇ」
「しかも野良の神好みですからね、相当に貴重です」
「野良って言うな」
清水原の軽口には我慢ならない。舌打ちしておくと、弁天さんが愉快そうに笑った。
「あらあら、まあまあ。これは面白い子だこと。いいわ、もっと言っておやりなさい」
「……そう言われるとやりづらいっす」
あたしはボソボソ言った。
うーん、調子が狂うな……てか、神好み? だからか、やけに神様があたしに優しい。モテ期か。よく分からん。
「あ、そう言えば」
戸惑うあたしを無視する一同。弁天さんが思い出したように声を上げた。
「恵比須が神好みを欲しがっていたわねぇ」
「え、マジで?」
すぐに反応したのはウカちゃん。清水原は口をへの字に曲げていて感情が分からない。
「えぇ、そんな話をチラッと聞いたのよ」
「ふうん。そんなら、ちょっと用心せないかんね……」
清水原は低い声で返した。そして、今度はあたしに顔を向ける。
「玉城さん、ちょっと――」
彼はあたしの耳元までかがんだ。
「とりあえず、これだけは言っとくけども……恵比須には気をつけようね」
「え?」
「大丈夫だと思うけどね。ま、俺が上手くサポートするし、ウカちゃんもおるし」
「や、でも、なんで……?」
いきなり不安な言い方するなよ、怖いじゃん……恵比須に気をつける? どういうことよ。
清水原はなんだか濁すように笑うし。
「んー、まあ、簡単に言うと……」
「恵比須はスケベじじいだから気をつけた方がいいんだよ」
横から割り込むように、ウカちゃんがあっけらかんと言った。
「あー……」
そういうことね。なるほど、理解した。それは要注意だわ。
清水原とウカちゃんが無言でなんか顔を見合わせているけれど、あたしは少しだけ身構える準備が出来た。
「それじゃあ、VIPがおわす前にちょいと体験でもさしてもらいましょっか」
清水原があたしの肩をかるーく叩く。その背後では弁天さんと亜弓ちゃん、ウカちゃんが話をしている。
「ところで、ウカはなんなの? どうしてここにいるの?」
「えへへ。僕も今日は職場体験なんだぁ」
さっきまで嫌がってたくせに。ウカちゃんの目に「タダ酒」の文字が浮かんでいるよう。お茶目に笑うウカちゃんに弁天さんはため息を吐いた。
***
ホールの奥にある控室で、着替えと化粧を亜弓ちゃんに手伝ってもらった。
赤のミニドレス……ショートパンツとさほど変わりないんだけど、やっぱりなんか着飾ってる感じが……ものすごく、嫌だ。
「あら、でもヒールは履き慣れてんのね。普通、慣れとらんと足元おぼつかんやろ」
亜弓ちゃんは見た目の派手さに反して、とても親切な人だった。ほわんとした口調がかわいい。ガッツリと「女」って感じ。計算で構築された女感。でも優しい。
「あのぅ……」
男の人なら強気でいけるんだけど、女の子相手にはなんか萎縮しちゃう。
「あなたも神様が見えるってこと、よね?」
「そうよー。私はママに拾ってもらったの」
亜弓ちゃんはなんだか照れくさそうに笑った。
「まぁ元々、神社の子だったんだけどちょっとやらかしちゃってね……追い出されたからさ、行き場がなくて」
似た境遇だなぁとしみじみ。でも、あたしよりもハードな過去だ。
「もうずっと前の話なんだけどねー……あ、私のことは亜弓でいいけん、頼ってね」
気を取り直すように言う亜弓ちゃん。にこやかで明るいその笑顔には安心感がいっぱいだった。
「それにしてもママったら。清水原のことホントは大好きなくせに、ツンツンしちゃうから店がひどいことになったねぇ……あれは想定外」
「あ、やっぱそうなんだ」
「うん。清水原を投げ飛ばしたのはね、恥ずかしいからよ」
神様ってのも案外「フツウ」なのかもしれないなぁ。
あたしたちはイヒヒと下卑た笑いをしながらホールの方を見やった。
「――えーっと、玉城ちゃん、だっけ」
ひとしきり笑いあった後、亜弓ちゃんが訊く。その目は少しだけ真剣に。
「清水原も言っとったけどさ、恵比須には気をつけてね」
「はぁ……」
スケベじじいに気をつけるのは女子としては当たり前だろう。
首をかしげていると、亜弓ちゃんは「なんも分かっとらんね」と呆れた。
「怒らすのもダメってことよ。でないと、殺されちゃうかも」
「えっ」
いきなり物騒な言葉が飛び出し、あたしはヒヤリと肝を冷やした。
そんな不穏が広がる中、とうとう店が開ける――
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