第一幕:代行屋と流浪な猫《博多》

1話 流浪な猫は何者も信じない

 近くなる。ブーン、とモーターが動く音が段々と。水の底から上がるように近づいてくる。

 すると、視界に光が入り込む。眩しさを感じ、あたしは重いまぶたをこじ開けてみた。


 ――知らない天井……


 いや、まぁ、当たり前なんだけど。

 それに知ってる天井だったら、飛び起きてすぐに窓から出ていくし。知らない天井で良かった、とホッと一息。


「………」


 いや、いやいや。待った。天井があるってことはつまり室内ってことだから、知らぬ間に見知らぬ部屋に入り込んでグースカ寝てたってことでしょ。マジかよ……あたし、どこまで図太いんだろう……


 そろりそろりと起き上がった。どうやら、くたびれたソファに寝ていたらしい。周囲に目をやれば、なんだかごちゃごちゃ物があった。ペン、パソコン、カレンダー、眼鏡、新聞、ニットキャップ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、書類、ゴミ、ゴミ、埃……そんなのが散乱していてとにかく汚い。


 光があまり通らない暗色のカーテンが、窓の場所を示している。そして、あのモーター音が換気扇が回っているんだと気づいた。電気はついてないけど、カーテンの僅かな隙間から差す光で、今が夜ではないことが分かる。


 ここは、どこか。

 パッと思いつくのは、何の機能もしていない事務所。埃とカビ、あとタバコの匂いが染み付いている。ゴミや書類が古ぼけていないので誰かがいるはずだ。

 窓を開けてみようかと足を伸ばす。すると、背後で軽い物音がした。


「――あ、起きた? おはよーございます」


 ゆるりと明るげな男の声。すぐに振り返れば、まったく見覚えのない黒Tシャツが目に入る。洒落っ気のない服装。

 だが、それよりもあたしの警戒が最大に跳ね上がったのは、この男の顔が分からないから。見えない。いや、正確には目元が見えないんだ。深緑のニットキャップを目深にかぶりすぎて、前髪が鼻筋にへばりついている。ちゃんと前見えてるのか……?

 そんな怪しい彼は、へらりと口元をゆるめた。


「まぁまぁ、そう警戒せんで」

「いや、するやろ、普通」


 男のゆるい口調にすぐさま噛み付く。彼は肩をすくめて笑った。


「おっとっと……あんまし動かんでくださいね。昨日、ほんと大変だったんだから。君は暴れる、俺は怪我するしで。もう二度とこんな仕事するもんかって思いましたもん」


 向こうも警戒するように言う。腕に貼った絆創膏を見せてきた。いや、言うほどの傷じゃないし。


「………」


 互いに距離を取ったままで沈黙。あたしはこの男の言動に不穏を覚えていた。ただただ睨んでおく。


「覚えてない、ですかね……昨日、ほら、夜に」


 遠慮がちに訊いてくる。威嚇した野良猫を相手にするように。

 ただ、あたしは野良だとしても猫じゃないので、思考を巡らせることにした。

 えーと……あたしはどうしてここにいるのか。まだ頭がくらっとするけど、意識もはっきりしてきたしなんとか思い出せそうだ。


 ***


「もう明日から来なくていいよ」と、回転寿司屋の店長に言われ、つまみ出されて、鼻先でスタッフルームの扉を閉められたとこから始めよう。


 あたしは不器用だけど裏方でも表でも仕事ならなんだってやる。今どき珍しいイエスマンの姿勢でいるというのに、何故かバイトが続けられない。

 まぁ、そこはいいとして。問題は金だ。その日のねぐらが見つからないというのが面倒。友達に連絡しても「今日は彼氏くるから無理」とか言われるし。

 そりゃ、仕事は1日しか持たなかったよ。ネタは落としまくるし、足は滑らすし、転んだ先にたまたま予約注文の品があり、頭から突っ込んだら「もう帰れ」と言われて。時給分くらい寄越せ、ケチんぼめ。あと、もうちょい多目に見てくれてもいいだろうに。世知辛い。本当に散々だ。


 Gate'sゲイツビルにネットカフェがある。そこに泊まってもいいかな。それか、どっか狭いスナックに転がり込むか。あぁ、でもお風呂入りたいしなぁ。やっぱネカフェかな。河川で野宿はしたくない。森ならまだしも。いや、森も嫌だな。うーん……どうしたものか。


 ネオンの街は鮮やかで、あたしをあざ笑うようにキラキラだ。

 笑い合う老若男女。それを冷めた目で流し見する。「あーあ、やってらんねぇなぁ」と独り言つ。すると、吐き出した息を見送る間もなく、急に肩を叩かれた。


「ちょっといいかな、君」


 確かにここは色街。でも、こんなみすぼらしいTシャツとショートパンツのちんちくりんをチャラいにーちゃんたちが相手にするわけない。振り返れば、やっぱり制服姿の警察官だった。


「嫌です」


 即答し、早足に離れる。しかし、この警官はしつこかった。


「嫌です、じゃなくってね。ほら、こういうとこだから未成年がフラフラと出歩いちゃいかんやろ」


 補導か。くそ。そりゃあまだ未成年ですけども、もうすぐ成人するし、あたしは子どもじゃない。失礼なヤツだと思い、睨みつけるとそいつも眉をひそめて乱暴に肩を掴んでくる。

 瞬間、あたしはくるりと振り返りざまに飛び上がって蹴りを入れた。下から突き上げるように。警官はよろめきながら仰け反った。惜しい。でもこの隙きに逃げるしかない。


 酔っぱらいのおっさんたちを掻き分け、きらびやかなドレスを着たキャバ嬢の脇をすり抜け、勧誘に精を出すホストたちを飛び越え、中央通りを走る。

 これだけ人がいるんだから撒けるはず。逃げ足には自信があるんだ。田舎もん舐めんなよ。

 そうタカをくくって通りをまっすぐ走り、道路を突っ切って飲み屋とホテルと駐車場を見送れば、夜の暗みが突如に視界を埋める。一気に静かな寂しい道に変わった。

 その道沿いには、ビルの隙間にねじ込んだような朱い鳥居がある。この小さな神社に隠れれば、あたしの存在を消してくれるだろう。息を切らして鳥居の中へ飛び込んだ。


 でも……


「おいおい、いかんやろぉ。人ん家に勝手に入ったら」

「え――?」


 振り返った瞬間、あたしの視界は黒に沈む――


 ***


 そこで記憶が途切れてしまった。

 はて? それからどうなったのか分からない。


「まぁ、手荒なマネして悪かったなぁとは思ってますよ」


 帽子男はその風貌とは裏腹にゆるい敬語を使う。そして、部屋の隅にあった(服を引っ掛けたままで見えなかった)冷蔵庫を開ける。炭酸水のペットボトルを出して飲んだ。自分だけ。


「俺だって頼まれんと、こんな仕事しませんし」

「あんたの仕事って、人さらいか何か?」


 言葉の脈をつなげば、あたしはどうもこの帽子男に誘拐されたんだと容易に考えつく。すると、男は「あはは」と呆れの笑いをあげた。


「この平成の時代に『人さらい』って。漫画じゃあるまいし」


 違うのか。


「ちょこっと眠らしただけです」

「んで、ここに連れ込んだわけだ……それさ、誘拐じゃね?」


 すると男はしばらく逡巡して「あー、ほんとだぁ」とのんきに笑った。


 はぁーあ……あたし、誘拐されたのかぁ……まさかの事態に頭を抱える。


「でも、どっちみち行くアテないんでしょ、君」


 炭酸水を冷蔵庫にしまいながら男は言う。途端にあたしは口ごもる。


「女の子が、あげんとこったらいかんって。そりゃ補導されますよって」

「あんた、さては補導の現場にもいたのか」


 警官に捕まりかけたとこを見ていたということは、あたしを狙っての犯行ということじゃないか。

 しかし、その考えはあっさりと否定された。


「あぁ、あの警官、実は俺です」


 男は笑いを堪えながら言った。なんそれ。意味分からん……でも、まぁ、一つだけ分かることがある。

 こいつ、タダモノじゃない……ヤバイ感じがする。変態か。変人か。どっちもか。


「まぁ、分からんでいーですよ。実物見たほうが早いやろうし。そっから、ちゃあんと説明しますし」


 言いながら男は、ソファまで来るとポケットから名刺を出してあたしに寄越した。


「代行屋 天萬てんま、所長の清水原しみずはらです。今回は、とある人から頼まれて、君を追いかけてました」

「はぁ……」


 ご丁寧にどうも。

 名刺は素っ気ない白地で黒い明朝体が並ぶだけ。

 代行屋 天萬ねぇ……聞いたことないわ。胡散臭いレベルが大幅に跳ね上がる。

 あたしは名刺をつまんだまま、じっとりと清水原を見上げた。


「で、なんなん? あたしを追っかけ回して。警官にまでなりすまして」


 彼はソファの背に座ると、何も応えずおもむろにあたしの背中を叩いた。

 バシーンッ!! と音がしたあと、ビリビリと痛みが走る。悲鳴が喉の奥で止まり、声も出せなくなる。


「おっと、やりすぎた」

「……っ! 何すんのよ! 急に! マジで、おまっ、ほんと、なんなんっ!!」

「何って、お祓い」


 当然とばかりに言う清水原。


「見たほうが早いし、こういうのは隙きを突いてやらんと」

「だけんって、急に叩かんでよかろうが!」


 ひどい日焼けをしたみたいに背中が痛い。こいつ、思いっきり叩きやがった。なんなのよ、まったく。ほんと、意味分からん……


 イライラと背中をさすっていると、清水原があたしの目の前に何かをぶら下がった。清水原がつまむのはマスコットみたいな、つぶれたまんじゅうみたいな顔のが鼻の先にある。


「これね、やくって言うんですよねぇ」


 伸びた小さなおっさんを指して言う清水原。


「君の背中にくっついてて、剥がそうにも剥がせんから、荒めにやらないかんくて。ほんと、ごめんね」


 そう言って、彼は口元を引きつらせて笑った。目元が見えないから、表情はわかりにくいけど声音から申し訳なさは伝わってくる。


「……や、でも待って。まだ、ようと意味が分かっとらんのやけど」

「やろーね」


 あたしの声に、今度は同意してくれる。どうやら社会的一般知識はあるらしい。怪しさ満点なヤツだけど、口調はずっと穏やかで、彼自身も何か戸惑いの節があるようだ。


「あー、そっかぁ……君はを見たことがないんですね」


 小さなため息がおっさんの毛をそよがせる。厄、とやらは気を失っており、まるで物言わぬ人形。それを目の当たりにしてもあたしは何がなんだかさっぱりで、とにかくここは黙って清水原の与太話に付き合ってみようかと考えていた。

 清水原は小さなつぶれまんじゅうを手のひらで転がしながら、重い口を開いた。


「まぁー、なんと言うか……君は、神様って信じる?」


 やにわに何を言い出すのやら。

 あたしは首を横にブンブン振る。


「神頼みとか、しない? 占いとか。明日の運勢気になるなーくらいはあるんじゃない?」


 そう言われてみればそうかも。

 途端に身近なものに思えてきたのでゆっくり頷く。すると、清水原は少しだけ口をゆるめた。


「神って言ったらなんか厳かに聴こえますよね。でも、そう大層なものじゃなくて、万物には神が宿ると言うし、実際、神は道端にゴロゴロいます」

「………」


 なんかまた怪しくなってきた。あたしは「はぁ」と気のない返事をする。

 宗教の勧誘みたいだなぁ……あー、あたし、面倒なヤツに目をつけられたんだな。最悪。高い壺買わされそう。家だってまだないのに。

 顔を手のひらで覆っていると、清水原は怪訝に「大丈夫?」と言ってくる。「大丈夫、続けて」と後を促せば、彼は気まずそうにまた言った。


「あぁもう、何を言っても怪しいなぁ……どうしよ……」


 自覚があるようで何よりだ。


「確かにこれじゃ、信用するのも無理ある――あ、そーだ」


 彼は少し声を高く上げると、ソファの背から離れた。


「ちょっと、ついてきてほしいんだけど、いい?」

「えぇ……どこ行くの?」

「神社」


 そう短く言う。清水原は事務所の入り口へあたしを手招きした。

 仕方なく、のろのろとソファから降りて汚い床をつま先立って行き、清水原の元へ。

 何を見せるつもりなんだろう。こんな怪しいヤツにホイホイついていくあたしもどうかしてるけど。

 事務所を出ると、清水原はしっかり鍵をかけて足取り軽やかに冷たい床を踏み鳴らした。

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