序章
開幕・天に拝し、神風を賜る
一つ、土を踏みしめるたびに彼は己に巣食う夜叉を吐く。一つずつ地に落とし、心を無にするべく登る。山を登る。
しかし、無の境地へと達すれば何が残ろうか。邪の如き心の悪雲を取っ払えば、そこに待つのは無であろう。
無。
無心。
心を亡くせば跡形もなく、内に潜めた怨みも消え失せよう。
彼は山頂に到達するまでに夜叉をすべて除いた。そして、骨と皮だけとなった震える手で紙を広げる。かつて見目麗しく瑞々しかった声音でうたうように祝詞を上げた。
山の頂きに立てば、また祈りを捧げば、己が何者であることすら忘れられるのだ。
みすぼらしい手を重ね、祈ること七日。
光の帯から降り立つように
――そなたの内を見せよ――
密やかな音が、枯れかけた耳の奥へ流れ込む。天津神か、はたまた
しかし、すべてを捨て去ったはずである。
彼は応えずにただただ祈りを捧げるのみ。すると、神は更に彼の耳元に近づいた。
――潜めたものを晒すがよい。さすれば……
その言に、彼はふと眉を上げた。僅かな隙きが侵入を許す。神の声が心を掴み、捻り潰されるような痛みが胸の内を走った。同時に、のたうつ何かに気がつく。どうやら夜叉を一つ、除き損ねたらしい。
謂れのない罪を着せられ、すべてを奪われた。無である。何も無い。妻も子も、みなが散った。それを許さずに、ただ命運のままに従おうとするも、抗うように染みを広げる怨――
すべての理には、表裏が付きまとう。対の顔を持つ。どれだけの徳人であろうとも、国つくりの神であろうとも、表裏を併せ持つものだ。
「――ならば、この醜さも私のものか」
やがて、彼は受け入れる。
瞬間、言の葉が舞い降りてきた。ひらひらと風に乗り、落ちるそれを取った。
彼の祈りと怨を聞いた神の名がそこに記されてある。
その名は紙から離れれば雷をつくりだす。青々とした天に光の亀裂が走る。山頂が風を起こす。
彼の願いを具現した激しい雷鳴が、世界を震わせた――
*
*
*
「――そして彼は神様の仲間になり、自分を陥れた者をぶっ殺しましたとさ」
冷たい床に座る
膝の上に座る愛らしい少女が大きな瞳で彼を見上げる。
「どうやってぶっ殺したの?」
「そりゃあ、思いっきり雷をバーンってね。落としてやったさ」
「そしたら死んじゃったの?」
「そう、死んじゃったの」
「スッキリした?」
「うん。人生最高に清々しい気分だった……まあ、私が死んだ後のことなんだけど」
「ふーん」
いたいけな少女は歳不相応に薄く笑った。興味がないらしい。
「ミチル、梅のお話の方が好きー」
さらには話を変える暴挙を起こす。
「ああそうだった、ミチル姫は梅のお話が好きでしたねぇー」
ミチルの機嫌を取るべく渾身の猫なで声で言うも、彼女はツンとするばかり。仕方なしに彼女を抱えあげると、彼は外に立つ梅の木を窓越しに眺めた。
「では、飛梅の話をしよう。ミチル姫のご所望とあらば、何度でも」
頬をくすぐるように、彼は彼女の耳元で囁く。すると、幼い真っ赤な唇は笑みを浮かべる。
姿形はラフな白シャツにパンツスタイルという風貌だが、かつては波乱万丈に生きた平安貴族――彼こそが天神として祀られる菅原道真だ。
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