グリーンフレイム・ホテル

安良巻祐介

 

 緑色の炎をとぼしたランプが、黒く塗りつぶされたホテルの軒にかかっていて、闇に降る霧雨をぼんやりと染めている。

 宿号を掲げた入り口に、雨の中から迷い犬がとぼとぼと通りがかり、見上げるようにして、また雨の中へと歩き去った。

 宿の中では、白い、しんとした光がロビーを満たしていた。

 フロントに男が一人、客の居ない手持無沙汰に、鮮やかな絵骨牌カルタをかき混ぜている。

「十ドロップ銀貨は灰の中、猫の両目は暖炉の下、箱入り娘は薪山の上…」

 口ずさむ男の頭は卵のようにつるつるで、鼻の下にうっすらと、黴みたいな青髭がある。

 男の後ろには怒り顔の髭面の紳士の胸像が置かれてあり、その隣に、たくさんの引き出しのついた棚がある。

 と、チリンと鐘が鳴り、扉を開けて、男がロビーへ入ってきた。

 開いた扉の向こう、底のない夜闇の色と降りしきる細かな雨の音が束の間覗いたが、扉はすぐに軋み声をあげて閉じたので、辺りはまた、静かな白い光の空間に戻った。

 さて、入ってきた男であるが、いささか異様な風体をしていた。

 身に付けた服と帽子は苔むした山肌のような色合で、庇の下の顔も岩のように青黒く、何より、この雨の中を傘も持たずに来たらしいのに、まるで濡れた様子もない。

 そうして、黙ったままロビーをゆっくりと横切り、フロントの前にのっしりと立った。

 禿頭の男はこの珍客をちらと見やると、驚いた様子もなく、手元の骨牌をシャカシャカと手早くまとめてから、端へ放ってあった宿帳を引き寄せた。

「予約は…していない」

 帽子の男は無言でうなずくと、差し出された宿帳に自ら、ザラザラと灰色の文字を書いた。

 虫の列のような、判別のできない文字であったが、禿頭の男はそれを見ながらふむと呟き、骨牌を一枚取った。

「こりゃあ年代物だ。それも、没落貴族様と来た…」

 牌に描かれた、王冠と墓の絵を眺め、懐から銀の鍵を取り出す。背後の怒り顔の胸像の目がピカリと緑色に光り始め、やがて、鍵が、ゆっくりと同じ緑に染まった。

 その鍵でもって、棚の引き出しの中から一つを選び、鍵穴に差し込んだ。キュルキュルキュルと鼠の鳴くような音がして、引き出しが自然と開く。

 禿頭の男はその中から大事そうに何かをつまみ上げ、目の前の帽子の男の差し出した掌にポトリと落とした。

 それは、恐ろしく大きな蜘蛛の死骸であった。…腹に、黄金の顔のような紋様が刻まれている。

 帽子の男は、驚いたり怒ったりするでもなく、手の中に蜘蛛を握りしめ、ゆっくりとフロントを離れると、昇降機の方へ向かって歩き出した。

 禿頭の男が鍵をしまいながら大事そうに引き出しを閉めるうちに、奇妙なお客の背中は昇降機に近づいていきながらゆっくりと薄れ、消えていった。

 再びロビーに人気がなくなる。

 フロントの中から、禿頭の男は客の消えたあたりを眺めて、

「アパリション御用達、幻の十三階。あの年季からして、どれだけ長いことお泊まりになるのやら。いや、古い手合いはふとしたことでさっぱり解消することもあるんだったか。いずれにせよ、出ていくより入ってくる客の方がもうずっと多い。全く、難儀な商売だ…」

 と、ぶつぶつ早口にまくし立てた。

 その後ろで、胸像が瞳に緑の残り火を燻らせながら、少し口角を釣り上げている。

 禿頭はそれをもちらと見やって、「因業な支配人め。もう死んでるくせに」と小さく呟いてから、「いや、死んでるからこの調子なのか」と付け足した。

 そうして、手元の骨牌を苛立たしげにがしゃがしゃとかき回し、髑髏の絵ばかりが表になっているのを見ると、諦めたようにそれらを脇へよけ、壁へもたれた。

 閉じきられた扉の向こうで、犬の悲しげな遠吠えに似た、哀れっぽい声が響いている。


 ここは グリーンフレイム・ホテル

 忘れ去られた 影たちが

 終わりを求めて 憩う場所

 おのれのたましい 宿代にして


 しんとした白い光は、変わらずロビーを照らしていて、禿頭のフロントマンは壁にもたれたまま、ただ目を閉じていた。

 刹那ののちか、或いは百年後か、誰にもわからないけれど――御覧、チリンと鐘を鳴らして、また誰かが入ってくる。…

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グリーンフレイム・ホテル 安良巻祐介 @aramaki88

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