第50話 ネロ それは今は無きティンダーリ。
無人と思しき水門小屋であるが、結果的に言えば、本当に無人だった。
空の光が急速になくなっていったのは、分厚い雲が空を覆ったからだった。機会が動くような音はまさしく、機械の音だった。
水門を制御する巨大な装置が、一定の間隔でうなるような音を立てている。
一階が主に仕事に関するフロアで、二階には職員が寝泊まりする部屋が並んでいた。
小屋であるのであまり広くはないが、一週間ほどであれば十分に寝泊まりできる施設がある。観測所や避難所も兼ねているようだ。
「ああ、なんだ、安心しました」
建物を一通り見て回った後、マーガレットは一階の大広間のソファにへなへなと崩れ落ちた。談話室なのだろう、本やカードゲームが部屋の隅にある。
「怖かった。お化けとか苦手なんです」
「俺もお化けは怖い」
「あはは、ださ」
「おい」
「妖精が見えるのにお化けが怖いんですか」
「妖精とゴーストを一緒にするなよ。ゴーストは怨念だぞ。怖いだろ」
妖精もある意味怖いのだが。
ネロとマーガレットは二階の部屋を使わせてもらうことにした。
それから勝手にキッチンを拝借し、簡単な食事をつくる。談話室のテーブルでそろって食事を始めると、マーガレットは急に思い出し笑いをした。
「っぷ、はは。ネロさんって生霊に憑りつかれてそうですよね」
「え? なに、まって。なに怖いこと言い出したの、この子」
「女の生霊がたくさん憑いてそう」
「ちょっとまてよ」
「あはは。こわーい。ごちそうさまでした。先に寝ますね」
「え、ちょっと?」
「おやすみなさーい」
人を恐怖に陥れてから、マーガレットはおかしそうに二階へと上がっていった。
なんだかおもしろい。
ネロはくつくつ笑い、マーガレットの後を追う。
「こらマーガレット、ちゃんとシャワーを浴びてから寝ろよ」
「わかってますよー」
声が眠そうだ。気丈に振る舞っていたが、かなり疲れているのだろう。
「それと、念のためだからロッドを持っていけ」
「え?」
ネロが階段を上りきると、マーガレットは部屋に入る手前で立ち止まっていた。
「何が起こるかわからない。お前のロッド、たいそうな代物だから、今夜はそれを枕元にでも置いて眠れ」
「……この辺、なにか怪しい妖精とかゴーストがいるんですか?」
「いや、わからないけれど」
しかし、いつなんどきアンルー熊のようなおかしくなった猛獣が来るかわからないし、リヒャルのような得体のしれない生命体が襲ってくるかしれない。
暴発させる可能性は高いが、あの素晴らしいロッドがあれば、ひとまずはマーガレットは自分の身を守れるだろう。
ネロは預かっていたロッドをマーガレットの仮眠室に置いた。
窓の外は暗い。
月明かりもない。
雨でも降るのだろうか。
「じゃあ、俺は少し仕事をしてから寝る。下の部屋にいるから、なにか異変が起こったら呼んでくれ」
「わかりました。ネロさんも、あんまり無理しないで早く寝てくださいね」
「ありがとう。なるべくそうするよ」
ネロはマーガレットの頭をポンとなでてから足早に仮眠室を出た。女の子の部屋に入るのは紳士的ではない。
それからネロは、食事の片づけをしたあと、一階の制御室に入った。
制御室の電気はやけに白く、温かみが乏しい。
科学的な明かりだ。
ネロは巨大モニターの前の椅子に座った。
モニターは起動している。どうやら周りの様子を映しているようだったが、暗闇しかないため、画面は真っ黒に近い。
一方で、ネロの頭上からは白い光が降り注ぐ。
いつも浴びている魔法師団での明かりとはだいぶ趣が違う。もしかしたらロキはこのような科学的な明かりをいつも浴びているのかもしれない。
そう思いながら、ネロはそっと呪文を唱えた。
モニターの前の空間が少し、歪んだ。
指を繰って、その歪みを左右に空ける。
すると、中かが勢いよく小さな妖精が二体飛び出してきた。
魔の精だ。
ネロの言いつけを守り、小さな妖精の姿を保っていた。
《ネロ様》
《マイマスター》
魔たちは可愛らしい声でネロを呼び、くるくると周りを飛び回てからネロの肩に座った。
「あの魔人はどうなった?」
わずかに開いた異空間の向こうには、蛇に似た魔人が眠っている。
コルセッカが配下、ソワゾ。
「起きたか?」
まさか死んではいないだろう。高等な回復魔法を使ってやったのだ。
魔が耳元で囁いた。
《四回 目を覚ました 今も 起きてる》
《呼ぶ?》
呼ぶかどうか、ネロは躊躇した。
目覚めたソワゾはいったいどのような反応をするだろう。
マーガレットが眠っている。ここで暴れられたら困る。
《もう だいぶ 馴染んだ》
《うまくいった》
「ならば、お前たち全員出て来い。もしも暴れそうになったら全員で押さえつけてくれ」
ネロが命言うと同時に、残り八体の魔の精霊がネロの胸の辺りから飛び出してきた。
どれも小さな姿を保ち、黒曜石のような色をして、銀の光を風呂巻きながら制御室をを飛び回ている。
リィン、リィン、そんな小さな耳鳴りがする。羽音だろう。
「お前たち、大きくなっていいぞ。これから魔人を呼び出すから、暴れそうになったら全力で押さえつけるんだ。いいな?」
魔たちはすぐに大きく転変した。
「うっ」
可愛らしさはどこかに消えて、十体の異様に美しい黒い妖精たちがネロを取り囲んだ。
しかも距離が近い。ネロを慕っている証拠なのか、近い。
「ちょ、ちょっと……もう少し離れろ」
《なぜ?》
《どうして?》
《せっかく会えたのに》
《次は傍にいさせてくれる?》
離れろと言ったのは逆効果だった。不満をあらわにネロにのしかかってきた。
「いや、ちょっと色気が怖いんで……すみません……」
つい敬語になってしまう。
原初の魔王マナは妖艶なエロティックが好みだったようだ。
ネロも嫌いじゃない。
むしろ好きである。
だから怖い。
なんとか離れてくれた魔たちを、円を描くように等間隔で並ばせる。その足元を目印にし、念のために結界を作った。
魔法攻撃と物理攻撃の影響を半減させる結界だ。
念のためである。
「よっし、じゃあ呼び出すぞ」
角界の中央、魔たちが一斉に見つめる中心で、ネロは空間魔法を解いた。
ぽう……
月明かりのような淡い光に包まれて、青白い色をした魔人が姿を現した。
淡い光は部屋の無機質な明かりの中に溶けて消え、魔人ソワゾの輪郭がはっきりと表れる。
ただその瞳はどこか虚ろで、口元もわずかに開いている。
「コルセッカが配下、ソワゾ」
「……」
「返事をしろ」
「……はい……」
力なくソワゾは声を出した。
「名前を言ってみろ」
「私の名前はソワゾ。ティンダーリのソワゾ」
「ティンダーリとは?」
「ティンダーリ族、ティンダーリの集落……。私はティンダーリ」
どうやらこの蛇に似た魔人はティンダーリという種類の魔人のようだ。
魔人には人間とは違い様々な種族があるという。ネロの知らない種族があって当然だが、
「もしや、一族の族長なのか?」
その一族の長というならば、それなりの対応をしなければならない。
「……であれば、なんだとおっしゃるのか……?」
まだ虚ろなまま、ソワゾは答えた。
「いや、なんだというわけじゃないが……」
「ティンダーリのソワゾ。……ティンダーリ……。……。あなたは?」
急にソワゾが訊ねてきた。
ネロは慌てて立ち上がった。
「俺は……私は、カンバリア共和国はコーカルの貴族、ネロ・リンミーと言う」
「カンバリア、……コーカル……、ネロ・リンミー……。コーカルのネロ。……ネロ」
「そうだ」
ソワゾの視線が動き、ゆっくりと覚醒して言っているのが分かった。ネロはすかさず魔たちに目配せした。覚醒しきったソワゾが攻撃をしてこないとも限らなかった。
けれど、ネロの緊張をよそに、ソワゾがゆっくりと片膝をついた。
「コーカルのネロ様。私はティンダーリのソワゾと申します」
「……あ、ああ。それは先ほど聞いたが……?」
「よろしく申し上げます」
「……、は、……?」
ソワゾがいったい何をしたいのか、ネロには皆目見当がつかなかった。
どのように接すればいいのか。
カンバリアでは、敵対している種族同士でも、お互いの代表者は丁重に扱わなければならない。
不敬を働けば諍いはより大きく深いものとなってしまう。
であるので、ソワゾは得体のしれない敵ではあるのだが、族長であるのならば丁重に扱うべきである。そのように思うのだが、当のソワゾにはそれが通じていないように思えるのだ。
カンバリアの魔人ではないからだろか。
「……ええと、コルセッカが配下、ティンダーリのソワゾ。お前は私の捕虜となった。……これから、様々な情報を聞き出したいと思っているが、協力をしてくれるか?」
おかしい。
なぜこんなに丁寧な言い方をしてしまうのだろう。もっと威圧的に命じてもいいはずだが、それができない。
「はい。ネロ様」
ソワゾは素直な返答を寄越す。
威圧的になれないのは。このソワゾの従順な態度のせいだ。
戦闘直後の態度からもっと反発されると予想していただけに、戸惑いが隠せない。もしかしたら他国では、戦闘で負けた者は勝者に従うという慣習があるのだろうか。
「……、ティンダーリの長というならば、最低限の権利を主張することができる。こちらの要求に素直に応じるならば、拷問などは行わない。軟禁にはなるだろうが、衣食などは保証される」
「ティンダーリはもうすでにこの世には存在はしておりません」
「……存在していない、というのは……」
「コルセッカに滅ぼされました」
「滅ぼされた? しかし、お前はコルセッカの配下なのだろう?」
「ティンダーリは滅ぼされ、生き残りのティンダーリはコルセッカに吸収されました。ティンダーリという地名とティンダーリはありますが、ティンダーリそのものはもう存在しておりません」
「コルセッカとは……なんなのだ?」
「将軍です。魔王を名乗るものの、右腕にございます」
「魔王の、右腕……」
ネロにはいささか、作り話のように思えた。
魔王。
鼻で笑いたくなってしまったが、事実他国には魔王を名乗る魔族がごろごろいるのだ。人間同士の諍い、人間と魔人との戦い、魔物同時の諍い、様々な混乱がある。
「その魔王ってのは?」
「私には分かりません。コルセッカは知っているようですが、会ったことはなく、魔王軍の指揮は全てコルセッカがとっております」
「コルセッカとはどのような魔人なんだ? カンバリアを狙っているのか?」
「はい、カンバリアこそが、最終目的地です」
「カンバリアがか!」
「カンバリアは、魔族の聖地。人間の手からカンバリアを取り戻してこそ、魔王と名乗る資格があるのです」
カンバリアが、魔族の聖地。
初耳だった。
この国に生まれ、育ち、しかも貴族の一員として国家公務員となっている身でありながら、そのような話は初めて聞いた。
「いや、まさか」
「本当です。コルセッカの目的は、この地、カンバリア。……原初の魔王、マナの生まれた聖地を目指しております」
マナの名が出た瞬間、ネロはソワゾの言葉が真実であると理解した。そして十体の魔の精霊もわずかに気を張ったように思えた。
カンバリアが、魔王の聖地。
「コルセッカの魔王は、東の最果てよりカンバリアを目指し、様々な魔族を吸収してまいりました。そしてここまで来た」
ネロは下唇を噛んだ。すぐに気が付いてやめようとしたが、やめられない。
「新魔王が立ったというのは、その魔王のことか?」
「新魔王……どの魔王のことでしょうか。コルセッカの魔王は、むしろ古くからいる魔王と思われます。ただ、この地までやって来たのは初めてでしょう」
「魔王とはそんなにたくさんいるものなのか」
するとソワゾは、ふっと大きく息を吐きだすようにして笑った。
酷く馬鹿にされたように感じた。
「魔王はたくさんおりますよ。……しかし、どの魔王も聖地を探し出すことができないのです。……原初の魔王、マナの生まれた地を……、探し出すことが……」
ゆっくりとソワゾが顔を上げ、ネロの目を見つめる。
「ここにあったとは」
「……、なにが……」
「もしも以前の私のままであれば、私が新たな新の魔王を名乗っていたやも知れません。ですが、私はもう以前の私ではないのです……」
なんだ、なにが言いたいのだ。
訳の分からないまま、ネロは首を撫でた。そして指先にちりっと当たった冷たい感触に、はっとした。
魔公サヴァランのタリスマン。
中には、魔王マナの魔力が詰まっている。
「……お前、……」
「私は、ティンダーリともコルセッカとも縁が切れたようです。私は、あなたの元に」
そう言ってソワゾはゆっくりと頭を垂れた。
伏したソワゾの向こうには、魔王マナの側近、十体の魔の精霊がいる。
魔王マナの力で命を取り留めたソワゾ。
魔は顎を上げ、冷たい瞳でソワゾの背を見下ろしていた。
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