無念流の剣術家 四話(1)
わたしは兵左衛門さまのことをよく知らない。
日頃から彼が何を考えているのか、わたしには分からなかった。
けれど兵左衛門さまはというとわたしへの興味が尽きぬようで、しきりに話しかけて下さる。皆には内緒にするようにと付け加えながら、こっそりと切腹の仕方を教えて下さったこともあった。わたしは別にそんなこと、興味なかったのだけれど。
兵左衛門さまに教わるまま、わたしは指二本を立てる。
「そこに刃を突き入れて、傷口を開くようにして一文字に動かすのだ」
すると引き抜いて、切っ先をさらに持ち上げるという。今度はみぞおちから臍の下まで、上から下へとなぞる。
「そのように切り裂いて、腹を十文字に切り開く。胆力がなければできることではないな」
「い、痛そうですね……」
「そりゃあ痛いだろう。死ぬためにやっていることだからむろん、痛い。しかしその苦痛で身体が止まってしまうと下手に生き永らえ、死ぬに死ねずに苦しみながら、臓物を撒き散らす羽目になる」
「浅い傷でもだめですか」
「背中まで貫く心胆で行かねば苦しい、と教えられた。だから胆力が必要となるのだ」
人の肉は弾力があるという。だから切腹する際には、左手で皮膚を伸ばしてから、切っ先を突き入れることもあるらしい。または十文字に切ってもすぐに死ねず、人によってはそのまま心臓か首を己で一突きして死に至るということもあるのだとか。
いずれにせよ、壮絶な死にざまである。
想像していたら手が痺れてきた。わたしは自分の手を揉みながら、兵左衛門さまを見上げる。
……正直、わたしは困惑していた。
「ええと。これを教わって、わたしはどうしたらいいんでしょうか」
「ハハハ。まァ。どうしてだろうなあ。ひつじならどんな顔をするかなと思っただけだ。存外薄い反応だったが」
「……もしかしてわたし、ばかにされてます?」
「ばかになどしてねえさ。俺もそう思ったし、田吾郎もそう思った。たしか田吾郎めはおっかないなんて言って顔を青くして、その日は一日中機嫌が悪かったモンだ」
「きっとむすっとした顔をして。それはわたしも想像がつきます」
「そうだなァ、俺も今となってはいかにも田吾郎が嫌悪しそうなことだと分かる。土台、奴は剣術自体さえ嫌っていたしな」
そういえば、と思い出す。
田吾郎さまと出会った時、剣術が嫌いと言っていた。殺生がおっかない、とも。
「では兵左衛門さまは、剣術がお好きですか?」
「……むう。むつかしいことを聞くな、おまえは」
難しかっただろうか。わたしにはよく分からない。
悩んでいた兵左衛門さまは、すぐに頷いて思案を終わらせた。
「俺には才覚がないが、それなのに今まで続けている。考えたこともなかったが、きっと好きなんだろうなあ」
そんなふうに言って、兵左衛門さまはうつろな目をして遠くを見る。その瞳が何を捉えているのか、わたしには知る由もない。
彼は自嘲気味に肩を竦めると、小さくため息をついた。
「俺などというものはしょせん女と酒と剣が好きな浮浪者だ。かつてはこの道以外の生きる道を選べた時があった筈だが、俺自身それがいつ、どこで、その時に何故この道を選んだのか。もう忘れちまったモンだよ」
「……わたしには、兵左衛門さまに才覚がなかったなど、とても信じられませんけど」
わたしの知らないどこか遠くから帰ってきた兵左衛門さまの視線が、今度はわたしに向けられた。
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