無念流の剣術家 三話(2)
それからわたしはしばらくの間、お義父さまと兵左衛門さまの談笑に耳を傾けながら、黙々と肴を口に運んでいた。
しかし、ああ、七水は飲みやすくていけない。少し目を離すとおかわりが注がれていて、そのたびに盃を唇につけてしまう。ついにわたしの頭はふわふわとしてきて、夢見心地の気分であった。
初めは肩に添えられていた兵左衛門さまの手が、今では腰まで下りてきている。そのことには気付いていたけれど、うつらうつらとした心持では突っ撥ねることもできなかった。
お義父さまがため息をつき、そんなわたしと兵左衛門さまを見る。
「これ、兵左衛門。ひつじに密着しすぎではないか」
「そうは言っても飲ませたのは俺ですから、放っておくわけにもいきますまい」
「ふふ、ふふふ。お義父さま、御心配せずとも大丈夫ですよぅ」
わたしは愉快になりながら言った。
「ひつじという女は田吾郎さま以外のひとには興味ありませんからねえ」
なんだか楽しくなってきて、盃の中の七水をぐいとあおった。くらくらと揺れる視界の中で、お義父さまと兵左衛門さまが静かに顔を見合わせているのが見えた。
む。
どうしたのでしょうか。そんなに心配そうな顔をして。
わたしはこんなにも愉快なのに。
ずるり、と音が聞こえた。視界が、大きく、傾いで、沈む。
わたしの頭は兵左衛門さまの膝の上にいた。
「……これは過失でしょう、藤十郎どの?」
「よく言うワ。おまえの額には色濃い墨で役得と書いてあるぞ」
わたしはそこで意識を手放した。
◇◇◇
わたしは兵左衛門さまの膝の上で目を覚ます。
起き抜けについ頭を押さえたのは酔いのせいではなく、自嘲のせいだった。
「うう……わたし、また……?」
「ハハハ。役得かな、役得かな」
――これにて三度目である。
あれから兵左衛門さまはお義父さまの言いつけ通り、毎昼の稽古に顔を出した。そして毎晩はわたしをお酒の席に誘った。酒の肴を作ってほしいと言われるから、用意して持っていくと、いつもそのまま巻き込まれてしまうのだった。
そしてそのたびに兵左衛門さまは、眠ってしまったわたしを膝の上で介抱してくれた。でも感謝なんてしない、この気持ちは恨みだ。おのれ。
まるで小動物を愛玩するように顎下から頬を撫でてくる無骨な手を払いのけ、わたしは上体を起こす。なぜか少し乱れた着物の衿を直しながら、わたしは兵左衛門さまから拳三つほどの距離をおいた。
「膝をお貸し頂いて申し訳ありません。ですが次からは、わたしが寝ていたら起こして下さい」
「おお。次があるとは、嬉しいねェ」
「……失言でした。次からは遠慮させて頂きます」
「ハハハ。疲れているようだったから起こさんでおいたが、次は改めよう」
兵左衛門さまの軽口をいちいち訂正しようという気にはなれなかった。寝起きの頭はあまりにも重い。
差し出された水を受け取って、唇をつけながら、わたしは深いため息をついた。
何だか妙に身体が熱い。股の付近が疼いているようで……。
どれだけ酔っていたのだろう。
気が付くとわたしは、兵左衛門さまに押し倒されていて。
「夫がいなくなって、夜は寂しかろう」
その声は怖いほど低い。
直した着物、また乱されて。
兵左衛門さまの無骨な指が、わたしの
どうやら夕餉か、あるいは酒の肴に丁子と山椒でも盛られたのかもしれない。そのせいで身体が熱を求め、子宮が疼いていた。
兵左衛門さまの胸が下りてくる。肌が触れ合うと、わたしの耳元につけられた唇が、熱く湿った吐息とともに囁く。
「俺であればその疼き、治めてやれるぞ?」
「……お、おやめ下さいっ。こんなわたしでも、これ以上したら怒りますから」
わたしは兵左衛門さまの胸を押す。この体勢ではびくともしない。
股に触れた膝が揺れるたび、喉元にこみ上げるこそばゆさに、熱に汗ばんだ胎の底が脆く崩れてしまいそうになる。赤くて青い衝動は、この身体溶かされそうなほど熱く、それでいてぞっとするほど寒く、わたしを狂わせようとしている。
だけれど、密着した首筋の匂いが違う。わたしの愛したひとの匂いとは、全然、これは違うのだ。
「あなたと夜を明かすつもりはありません。だって。わ、わたしはっ、田吾郎さまの妻でございます……っ」
わたしは涙目になって兵左衛門さまを拒んだ。
肩に触れた兵左衛門さまの首からは、少し力が抜けていた。
「怒ると言いながら泣いている。まったく変な女だなあ、おまえさんは」
兵左衛門さまは、そう呟くと。
わたしの身体から身を起こして、途端に酔いのさめた顔をする。
「俺が悪かった、冗談だ。いや冗談でなく半分本気だったが、……まァ冗談だ。これ以上やったら俺も藤十郎どのに顔向けできんからな」
わたしは起き上がるなり、着物をおさえ、逃げるように座敷を後にした。兵左衛門さまはそんなわたしを追いかけてはこようとはしなかった。
水を飲み、外の空気に涼んでから自室に帰る頃、すでに時刻は暁七つ(午前三時)を迎えている。いつもならもうとっくに眠っている時刻だった。
……だというのに、わたしという女は、まだ身体の疼きが治まらないでいる。
その日は布団の内側で一人震えて夜を過ごした。股に潜る手の動きが激しくなり、ぬめりを帯びて指が湿ってゆくたび、自分がみっともないという思いに駆られ、切なさが胸に募っていった。
「田吾郎さま……田吾郎さま……っ」
頬をうずめた枕の内側に向けて。
わたしは朝方になるまで、繰り返し、繰り返し、まるで熱にうかされた子供のように同じ名前を呟き続けていた。
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