無念流の剣術家 三話(1)

 その日の晩。

 稽古終わりには疲れた顔をしていた兵左衛門さまはというと、上村邸に戻ると、土産に持ってきていた酒瓶を片手に上機嫌の様子だった。聞くとどうやら、今晩はお義父さまとお酒を飲む予定なのだとか。


 わたしは台所に立ち、酒の肴を三品用意していた。

 茄子としょうが、青しそを塩で揉んでから、大葉、山椒やたでの実などを加えた青柚子の汁に前日から漬けておいたものを茶碗に移す。これはお義父さまのお気に入りだからと、日頃から作り置きしているものだ。

 一口大に薄く切ったたこの足に塩を振り、沸騰した鍋でさっと茹でた。

 別の鍋ではみりんと醤油がコトコトと煮え立ちながら、台所には食欲をそそる甘辛い香りが漂っている。

 それぞれを茶碗に盛りつけて、完成となる。


 ――献立は茄子の漬物、茹でだこ、油揚げと芋の甘煮である。


 ◇◇◇


「失礼いたします」


 隠居所に着くと、お義父さまと兵左衛門さまはすでに飲み始めていた。

 わたしはお盆を机に置く。茶碗をそれぞれ並べつつ、兵左衛門さまの盃が空になっていたから、隣に腰を下ろしてトクトクとお酒をついだ。


「ひつじ、おまえは飲まんのか?」


 わたしは愛想笑いついでに小首を傾げた。自分の癖ついた毛先に頬をくすぐられる。鬱陶しくなってきたから、そろそろ短く切ろうかしら?

 すると不意に肩を掴まれ引き寄せられて、わたしはつい正座を崩してしまった。


「ハハハ、そら捕まえた。おまえも飲めないということはないだろう?」

「申し訳ありません。あまり嗜んだことがなくて、ご遠慮させて頂きたいのですが……」

「いいや、逃がさんぞ。俺がおまえくらいの年頃には飲めたのだ、おまえも飲めるに決まっている。それに七水しちすいは飲みやすいからなァ、一口くらいは行けるだろう」

「……では、一口だけですよ?」


 わたしは観念して、兵左衛門さまの手から盃を受け取る。

 鼻先に近づけると、つんと酒の匂いがした。濁りはなく、色は澄んでいる。わたしは恐る恐る、ぺろりと舌先をつけてみる。

 そんなわたしを見ながら、兵左衛門さまは馬鹿にしたように膝を叩いて笑った。


「ハハハ! 火傷をした猫かおまえは!」


 含んだ一口を嚥下しながら、わたしは兵左衛門さまをじっと睨む。

 そんなわたしにお義父さまが助け船を出すように、兵左衛門さまをたしなめた。


「あまりからかうな、兵左衛門。ひつじが困っているではないか。まったくおまえという奴は、剣の腕は立つが、相変わらず酒の飲み方と女の扱いは下手くそだの」


 呆れた調子で兵左衛門さまを見やりつつ、お義父さまも酒に口をつけていた。

 兵左衛門さまが土産として持参した日本酒は、名を七水という。下野国の七つの名水を『七水』と呼ぶことに由来する銘酒であり、透明感のある味が特徴らしい。

 わたしはもう一口、盃に唇をつける。

 まずは滑らかな舌触り。蜜のような濃厚な甘さに続いて、穏やかな酸味が後を追った。ふわりとした余韻を残しながらも、それはゆっくりと消えて、最後には清涼感だけが舌に残る。

 わたしは湿った唇を舌先で舐めながら、ぽつりと呟いていた。


「飲みやすい……」


 なるほど、と舌鼓を打つ。兵左衛門さまの言った通り、これはたしかに飲みやすい。

 茄子の漬物に箸をつけてみると、このような飲み口であれば塩味を強めにした方がよく合ったかもしれない。今になって悔やんでしまう。

 だけれどお義父さまは先ほどから気乗りした表情で茄子の漬物を口にしていて、美味しい、美味しいとわたしに微笑みかけてくれた。そんなふうに笑って頂けるのなら、きっとよかった。

 わたしはお義父さまにお礼を返して、茹でだこへと箸を移した。

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