無念流の剣術家 二話(4)

「ところでおまえさん方、都賀郡にある小泉の稽古場に来ようという気はあるか?」


 兵左衛門さまはそう問いかけると、ゆっくりと門人たちを見回してから、最後に榎太郎さんを顎で指した。


「たとえば榎太郎。俺から見てもおまえさんは筋がいい。どうだ。藤十郎どのや田吾郎と同じように、おまえさんも小泉で腕をならしてみるというのは?」


 矛先向けられた榎太郎さんは、途端に青い顔をして口許をだらしなく歪める。彼は大慌てで首をぶんぶんと振った。


「め、滅相もない! 我が身は上村にて精進中の身なれば、まだまだ未熟ゆえ、此度は遠慮させて頂きます」

「ハハハ。本心は?」

「……小泉は、そのぅ……そ、某はまだ死にたくありませぬ」

「正直で結構。小泉は三途の川の向こう岸にあるゆえ、川を渡りたい者のみが来る場所だ。おまえさんの考えは正しいぞ、榎太郎」


 からからと笑って、兵左衛門さまは続けた。


「小泉の稽古場では門弟に対し、手始めに切腹の仕方を教えるのだ」

「せ、切腹ですか?」


 榎太郎さんの当惑に強く頷き、兵左衛門さまは自身のみぞおちに手を当てて。


「本当に死ねという意味ではなく、あくまでもやり方としてな。要するに、おまえは己の命を預かっているのだと、それをまず実感させるのだ。死んだほうがマシと思うほどの厳しい修練の日々にあって、打ちのめされると決まって俺たちはこれを思い出した。

 ――その各々が預かる命をな、掠め取ろうというのが剣術の在り様よ。敵から掠め取られぬように、己もまたそうしようというのが剣術の在り様よ。こればかりは無念流も上村派無念流も、または木ノ下竜眼弥彦の柊流とて本質に関しては同じことだろうさ。

 ゆえに無念流では、まずは剣の避け方を学ぶ。その次に当て方を学ぶ。この二つが揃って初めて、各々が預かる己の命というものを守ることがかなうわけだ」


 兵左衛門さまは懐かしむような顔をする。


「田吾郎は避け方が誰よりも上手かった。奴は万事に対して常に逃げ腰の男だったからなァ。むろん、それを嘲笑う奴など一人もいなかったが。あれはそういう男だからこそ、五年で免許皆伝を許されたのだから当然だ。

 ゆえに田吾郎を見倣いたければ、おまえさん方もまずは逃げろ。躱し、いなし、捌くのだ。最悪、当てるというのは二の次でもいい。いや本当はいかんのだが、まァ、最終的に身に着いたならそれで良しだろうさ。この順序を間違っては、おそらく上村派無念流の剣にはならんぞ」


 兵左衛門さまはパンッと膝を叩き、ここで話を切り上げた。疲れたような顔で立ち上がるなり、使っていた道具を片付け始める。

 そんな彼に向けて、榎太郎さんが問いかけた。


「兵左衛門どの、ところで切腹の仕方というのは……」

「誰が教えるか莫迦め! そんなものを教えたら俺が田吾郎に叱られちまう!」


 兵左衛門さまはぶっきらぼうに吐き捨てた。榎太郎さんは残念そうな、でもどこか安堵したような、複雑な表情を浮かべていた。


 ――これをもって、本日の稽古は終わりとなる。


 刀礼は忘れずに。

 田吾郎さまは格式を軽視している、と兵左衛門さまはしきりに口にしていたけれど、その例に漏れず、刀礼も今日は普段より厳しく執り行われた。


 その後、わたしは裁縫し終えた稽古着を門人たちに返しながら、彼ら彼女らが帰っていく背中を見送る。いつもは田吾郎さまと二人で残るのだけれど、もう田吾郎さまはいないから、これからはわたし一人の仕事になる。

 夕暮れの日差しとともに、どこからかひぐらしの声が聞こえていた。胸がざわめいてしまうのはひぐらしの物悲しい鳴き声ゆえか、それとも一人きりの寂しさゆえか……。

 稽古場に誰もいなくなったのを確認してから、わたしも一人帰路に就いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る