無念流の剣術家 二話(2)
手ぬぐいで額の汗を拭う榎太郎さん。
疲れ果てた様子の彼を見下ろしながら、兵左衛門さまは問いかける。
「榎太郎の剣がなぜ俺に届かぬか、理解できているか?」
「……はい。兵左衛門どのの体捌きをおれの眼と身体が捉えきれておりません」
「応とも。それが理解できているのなら、あえて言うことはない」
頷いてみせる兵左衛門。
けれどわたしはふと疑問に思い、一言詫びてから口を挟んだ。
「必要なものは竹刀を打つ速さではないのですか?」
だって竹刀を届かせたいのなら、対手よりも速い一撃を打てばいいのでは?
そう考えたのだけれど、兵左衛門さまはわたしの浅慮を嗜めるように首を振った。
「それも一理として在る。だが必須じゃねえなァ」
含むような物言いに、わたしはつい小首を傾げてしまう。
竹刀と防具を外しながら兵左衛門さまは、そんなわたしと榎太郎さん、それに幾人かの門人たちを集めて仁王立ちした。
「ここに
その問いかけに門人たちは顔見合わせ、皆一様に首を傾げている。どうやら誰も知らないみたい。
兵左衛門さまはそれぞれ見回した後、最後にわたしを見つめた。
わたしはおずおずと手を上げて答える。
「ええと。たしか信州に伝わる流派でしょうか」
「ほう……。ひつじ、よく知っているな」
「父が一圓流を学んだことがあったらしく、何度か話に聞きました。円を描く足捌きが特徴の流派と聞いております」
「左様。そして無念流には、この一圓流における円運動の足捌きが受け継がれているのだ」
わたしに向けて頷きつつ、兵左衛門さまは話を続けた。
「円運動とはすなわち敵の死角に回り込むことを意図してのものだ。これを受け継いだ無念流の体捌きにもむろん、敵の死角を狙うという意図が存在している」
言いながら、兵左衛門さまは右へと三寸移動してみせる。
「これでいい」
ふたたび、今度は左へと三寸移動してみせた。
「この無念流の体捌きとは、けして避ける技術ではない。では何か? ――この体捌きとは当てる技術に他ならん。」
兵左衛門さまはまた横に三寸移動すると同時に、今度は徒手のまま素振りを合わせた。
「敵が打ち込む瞬間、そこでは必ず隙を見せている。ここに剣を当てる、あるいは制する。これを狙うというのが、無念流の体捌きの意図である。
ただ避けるだけではいかん。当てるために避けるのだ。あるいは避けることで当てると言い換えても良いか。おまえさん方も例外ではないが、無念流の多くの門人たちにはまずこの意識が欠けている。ゆえに上村派とて、この意識を覚えておくと良い」
もう一度、横に三寸移動する体捌きと徒手による素振りを見せて、兵左衛門さまは腕を下ろした。
わたしは納得して、兵左衛門さまを見上げてこくこくと頷いた。
「なるほど、合点がいきました。竹刀の振りを速くすることで相手に当てる、という意識ではいけないのですね」
「左様。まァ、とは言っても竹刀の振りが遅ければ当たるものも当たらん。これを改善して剣を当てるというのも一理だが、しかしそれは無念流の術理ではないという話だ。ひつじの考え方が間違っているというわけではないぞ」
「はい。存じております。お心遣い、ありがたく思います」
わたしは頭を下げて礼を言う。そうしてまた、手元の裁縫へと意識を戻した。
兵左衛門さまは門人たちに向けて話を続けており、なおも声は耳に届いてくる。
「では少々話を戻そうか。先ほど、影心一圓流について話したが、ではなぜ無念流が一圓流の足捌きを受け継いでいるのか?」
続く兵左衛門さまの声色が、おもむろに呆れの色を帯びる。
「どうせこういうことについて田吾郎は教えんのだろう。こういう部分が重要なのだが、奴は格式だの歴史だのという由緒正しきものを軽視するからなァ。……っとと、あまり門弟の前で師範を悪く言うモンではないか。悪いな」
兵左衛門さまは一言詫びてから。
「世話のかかる弟弟子の代わりに、無念流については俺から話しておくとしよう」
そう断って、兵左衛門さまはやおら話し始めた。
それは上村派無念流の源流、無念流の歴史である。
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