無念流の剣術家 一話(3)

 兵左衛門さまはお茶を一口含み、よく味わってから喉に流す。それから彼は膝に頬杖をつき、わたしをじぃっと見つめた。

 そんなふうに遠慮なしに見られると、お茶を嚥下するのは恥ずかしくて、わたしは湯飲みに伸ばしかけた手を一度引っ込めた。


「しかし田吾郎のような男が結婚するとは、思いも寄りませんなァ。ひつじめは一体どうやってあの木偶の坊を惚れさせたんだィ?」

「ええと。どうやってでしょう。分かりません。それ以前に田吾郎さまが本当にわたしを好いてくれているのか、たまに疑ってしまいます」

「ハハハ。あの頑固者がまさか惚れてもいない女と結婚などするモンか!」


 快活に笑う兵左衛門さまの言葉に、お義父さまも頷いていた。


「合縁奇縁も日頃の行いという。不安に思うのも分かるが、兵左衛門の言う通りだから安心してよろしい。縁があったのだよ、二人は」

「縁ってェのは眉唾ですが、じつはあり得るのやもしれませんなァ。何はともあれこれであいつも家庭を持ち、藤十郎どのもようやく心落ち着けますか」

「うむ。これでのんびりと過ごせるワ。田吾郎はお役目で江戸に向かってしまったが、家にはひつじもいるし、稽古場には榎太郎もいる。近頃は楽をさせてもらっているよ」


 お義父さまはわたしに微笑みかけてくれた。


「ひつじはまだ幼いが心根が柔らかく、そして何より器量も良い。きっと良い母となるに違いない。作ってくれる飯も美味い。ひつじがこの家に来てくれて将来安泰だ、私は何の心配もしておらんよ」

「いたく気に入っているのですなァ。これでは嫁御というよりまるで愛娘のようじゃないですか」


 兵左衛門さまはまたからからと笑っていた。

 わたしはお義父さまを見つめて礼を返す。あまりに褒めて下さるものだから気がふやけてしまって、声は小さくなってしまったけれど。

 ひとしきり笑った後で、兵左衛門さまが膝を叩いた。


「ところで藤十郎どの、つかぬことをお尋ねしてよろしいですかィ?」


 改まった口振り?

 どうしたのだろう。気になって、わたしは兵左衛門さまを見る。

 彼は軽薄そうな笑みを引っ込めて、真面目な顔つきでお義父さまを見つめていた。


「先の話にもありましたが、どうして田吾郎が江戸に行ったのです?」

「参勤交代の護衛だ。仕方ないことであろう」

「いやはや、納得しかねますなァ」


 兵左衛門さまは顎を擦りながら、お義父さまに睨むような視線を向ける。それは地獄の閻魔大王さまのように、その嘘を見透かすように。


「例年なら文句も言うまいが、今年の田吾郎は妻をめとったばかりだ。この門出にお役目を任せるなど、あの温厚篤実おんこうとくじつな晋助どのがしたがるとはとても思えませんなァ」


 追撃に、お義父さまはしばらくの沈黙。

 やがてため息をつくと、困ったように、ゆるりとかぶりを振った。

 箸を置いて、お茶を啜ってから、またお義父さまはため息をつく。


「……本来なら、田吾郎の務めではなかったよ」

「つまり本来通りではないと?」


 わたしも同様に考えた兵左衛門さまの疑念を、お義父さまは首肯する。

 すると額を掻きながら、渋い顔をして言った。


「左様よ。じつは一度護衛として他の者を立てて、晋助どのは出立している。けれど一行は夜半に襲撃を受け、元々付いていた護衛が何者かに殺されたのだ。

 幸いにも晋助どのは一名を取り留めた。しかし護衛たちは皆一様に刀をへし折られ、一撃に斬り捨てられていたと聞く。犯人はおそらく並の遣い手ではあるまいが、この刃傷沙汰、無視をして江戸に向かえる筈もなし。

 そこで晋助どのと幼少からの付き合いがあり、当門の師範を務める田吾郎に白刃の矢が立ったという次第だ」


 兵左衛門さまはお義父さまの説明に、合点がいったように頷いている。その口許はまだ笑みを形作っているが、目は暗い色をして、心から笑っているふうには見えない。


「……なるほど。藩主の暗殺ですか。であれば護衛には田吾郎が適任でしょうなァ。こればかりは致し方ないというものだ」


 言い終わるやいなや、お義父さまと兵左衛門さまの視線がこちらを向く。

 わたしは反射的に目を伏せてしまった。

 ……隠せただろうかと心配したけれど、どうやら二人ともに見透かされてしまったらしい。


「まァ、そのように心配そうな顔をするな。田吾郎は腕利き、易々と殺される男ではないからな」

「兵左衛門の言う通りよ。どの路、この町にはあ奴以上の剣客はおらんのだ。むろん私を含めてナ。夫の帰りを待つのも妻の度量、ひつじは田吾郎が帰ってきた時に今より成長して出迎えてやらねばなるまいよ」

「……はい。そうですね。田吾郎さまの妻ですもの。精進します、わたし!」


 わたしはがばっと顔を上げて頷いた。

 お義父さまは満足そうに微笑んでくれる。期待されているのだ、応えなくては。

 わたしは立ち上がると、お義父さまと兵左衛門さまの茶碗を回収し、盆に乗せる。

 まずは目の前のことを手短に。

 つまり嫁の仕事として、食べ終わった茶碗を片付けることからだ。


「では兵左衛門。今日の稽古場のほうは、おぬしに任せてもよいな?」

「もちろん、任されましょうや。飯は食ったんできっちりと働きますよ、俺ァねえ」


 二人の会話を尻目に、わたしはふすまを閉める。

 そうして隠居所をあとにした。

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