ああ、蝉の一生のように(2)

 田吾郎さまが江戸へと赴任することが決定した。そう聞かされたのは、出発直前の夜半であった。

 それは藩主の朝河晋助さま直々のご命令であるらしい。


「ごめんね、ひつじ。急な話とはいえ、朝河どのの頼みだ。僕には断れない。そのせいでおまえに気苦労をかけることは本当に申し訳なく思う」

「田吾郎さまはそんなふうに謝らないで下さい。だってお役目ですから、仕方のないことですもの……」

「来春には戻るから、それまで親父と稽古場のことはよろしく頼んだよ」


 わたしは連れて行ってほしいと懇願しそうになるのをぐっと堪え、田吾郎さまの背中を見送った。

 胸の奥底にはまるで針を飲み込んだような痛みがある。

 一年の別離の寂しさを紛らわせる方法は、しばらく見つかりそうにない。


 ◇◇◇


 田吾郎さまが上村邸を発ってから、もう三日が過ぎた。続いていた雨がようやく止んだ昼過ぎに、わたしは不貞腐れたように下駄を鳴らして歩いてみる。

 蝉の鳴き声に合わせて、からん、ころん、と音を鳴らした。

 ああ、蝉の一生のように時間があっという間に流れればよいのになあ。


「あらあら、可愛い音ねえ」


 不意に声をかけられて、わたしはどきりとして立ち止まる。声のほうを向くと、町でよく会う女がいた。谷中の奥さん、とわたしは呼んでいる。三十路の肥えた女である。


「可愛い音だと思ったら、やっぱりひつじさんですのね」


 谷中の奥さんはにっこりとした笑顔でわたしを見つめていた。


「細くて小さくて、本当にいつ見ても可愛らしい。羨ましいわあ。うちのお多恵もひつじさんみたいに育ってくれたら良かったのだけれど、何を間違えたのかしらねえ」


 お多恵とは谷中の娘のことだ。わたしより少し年上の、母によく似たどんぐりのような娘である。


「羨ましいだなんて滅相もないです。お多恵さんはとても魅力的なひとではありませんか。朝河さまのところの三宗さまとも仲がよろしいと伺っておりますよ」

「そうなのよお。あんな色男をどうやって捕まえたのって何度聞いても、あの子ったら教えてくれなくって。ねえ、ひつじさんはどうしてだと思う?」

「ええと。何故でしょう。すみません、わたしその手の話には疎くて……」


 小首を傾げてみたけれど、納得してはもらえなかった。谷中の奥さんの期待するようなまなざしが向けられて、無言のままではいられない。

 考えるそぶりを見せてから、わたしはおずおずと答えた。


「き、きっとお人柄を大切に想われているのかと存じます。大切なのは中身といいますし、それほど卑下なさらなくても」

「ええ、ええ。まあ、あの子はひつじさんみたいに可愛くはないから、中身だけでも好かれているのは幸せねえ」


 わたしは慌てて首を振った。


「ち、違いますっ! けして外見が好かれていないとかわたしはそういう意味で言ったのではなくて……っ」

「いいのよ、分かっているから。私の娘のことだもの、あの子のことはいつも見ているもの」


 谷中の奥さんは思い悩むようにため息をついた。


「このままくれたなら、私も安心して嫁に出せるんだけれどねえ」

「普通の……、ええと、はい。奥さまのお気持ちはよく分かります」


 谷中の奥さんはまたにっこりとした笑顔でわたしを見る。わたしも同じように、にこにこと愛想笑いで返した。


 じつは彼女の娘、谷中お多恵がわたしについて「美人だけど頭がおかしい」と陰で言いふらしているということを、わたしは知っている。

 田吾郎さまは来年、五十歳になる。くたびれた熊に恋をする十三歳は、頭がおかしいと言うのだ。……いいや。頭がおかしい、だけではない。

 みっともない女、とも。

 男ならだれでもいい、とも。

 見下されて、見下されて、それでもわたしは首を振る。

 せめて声小さくともいい。わたしは田吾郎さまの妻なんだから、主張しなくては。


「田吾郎さまはとても魅力的なひとですから、わたしの母も奥さまみたいに安心してくれていたら良いのですけど……」

「ううん、ごめんなさい。知らないひとだもの。あなたのお母さまがどうお考えなさるかなんてこと、私には分からないわ」


 会ったこともないのだからしごく当然だった。

 わたしの母と、この女が、まったく違う生き物であるように思えるのはきっと気のせいではない。

 それでは自分は? 自分は違う生き物だろうか。

 ――わたしは胸中で否定する。


(わたしはここ、大野の女として生きていくのだ。転身して生きていく。大野の女として、田吾郎さまの妻として……)


 半年前から言い聞かせ続けてきた決心を、まじないのように心のうちで唱えた。

 するとわたしのまぶたの裏に、田吾郎さまの風貌が浮かぶ。そうしたらわたしは頑張ろうと思える。

 だけれどその面影をなぞるように、谷中の奥さんの声が耳に入った。


「そういえば田吾郎さん、お役目で江戸に行ったと聞いたのだけれど? 羨ましいわあ。私の旦那は剣術を嗜まないから、江戸に行けるだなんて本当に羨ましい」

「……羨ましい、ですか。でも寂しいですよ、愛するひとが傍にいないのは」

「あら。でもねえ、一年なんて、あっという間よ」


 谷中の奥さんは毒の果実を差し出すように、ぞっとするほど低い声をして言う。


「慣れてしまえばいいのよ。旦那のいない、のびのびとした時間。かけがえのないものよ、後になってきっと気付くわよ。ああ、羨ましいわあ」

「でも不安で、心細いのです。寂しいのです、わたし」

「それって新婚のうちだけの、短い間の特別な感情よ。女の贅肉よ。ああ。羨ましい」


 羨ましい、羨ましい、と歌うように呟きながら谷中の奥さんは帰っていった。

 残されたわたしはひとり、深いため息をついてからまた歩き出した。から、ころ、と力ない音が鳴る。

 たまに止んではまた一斉に降りそそぐ蝉しぐれを聴いていると、気分は妙にささくれ立った。

 泣いてはいけない。自分に言い聞かせながら足音を鳴らした。

 目頭が熱を持ったように感じるのは夏の暑さのせい。そう言い聞かせる。納得できたなら、ぐっとこらえられる。

 空を見上げてみると、雨の降りそうな気配などなく、さっぱりと晴れた空模様が広がっていた。もしも雨が降りそうなら、今すぐに来た道を引き返したのに……。


 強くならないといけない。

 素朴でいながら凛として立つ、大野の女として。


 転身だ。

 わたしは転身しなければ。

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