ああ、蝉の一生のように(1)

 それから一月の後。

 わたしは田吾郎さまの妻として上村家に迎えられた。


 婚礼は行わなかった。わたしも田吾郎さまも、騒がれることが得意なたちではなかったから、どちらからともなくそう結論していた。

 稽古場の門人たちはわたしを快く祝福してくれ、立派な雛人形を贈ってくれた。上村家の親戚方や大野藩の人々もわたしを可愛がるように撫でてくれ、箪笥たんすを贈ってくれた。

 わたしは三日間、あっちに挨拶、こっちに挨拶。慣れない町を慣れない靴で。

 毎日夕方になる頃にはもうへとへとだったけれど、田吾郎さまについて回り、初めて妻らしいことができたわたしは終始、嬉しさに笑っていたように思う。


 飛騨国大野藩は素朴な人々の暮らす町だった。忙しそうに動きまわる人は一人もいない。心のどこかには常に余裕があって、のんびりとした空気が人と人との間を流れていた。

 町並みには京文化が取り入れられている。品のある景観はよき風土となり、民草の心根に小さくも凛とした花をそっと添えているように感じる。


(田吾郎さまはこの町で育ったのだ)


 町を眺めて往く道すがら、自然と感心してしまう。

 ひとは田吾郎さまの見目を醜悪だと言うけれど、心根を醜悪とは誰一人言わない。のんびりと柔らかな春風のようで、けれど凛と大地に立っていて、わたしなどには勿体のない素敵な殿方だ。彼は大野の男なのだ。

 故事より人は風土や習慣によって性質を変えるものだという。

 では八野の女として育ったわたしでも。

 田吾郎さまのように。あるいはこの土地のように。


(わたしは大野の女になれるでしょうか)


 大野では昨日、今日、明日の隔たりは薄くて、いつまでもが地続きのよう。突拍子もなく始まった夫婦生活は、気が付く頃にはわたしの身体に馴染んでいた。

 しかしながら、特別な日というものもある。

 たとえば初夜は緊張した。情けなくって日記にもしるさなかったけれど、わたしはあまりにも緊張しすぎて、じつはこっそりと泣いてしまった。

 冬の空気が冷たかったことと、抱き合った身体の燃えるような温かさ。その二つだけはいつまでも忘れられずにいる。


 田吾郎さまは決まって剣術稽古の合間に、わたしを外に連れ出してくれる。

 いつも通りののんびりとした顔で、二本の竿を持ってきて、上村家の裏にある川に誘ってくれるのだ。したこともない釣りを教わって、わたしは大きな鮎を釣った。

 隣では田吾郎さまが寝ているのか起きているのかよく判らない様子でぼーっとしている。

 たまにわたしの話に相槌を打ったり、笑ってくれて。

 わたしも同じような顔で同じように相槌を打ったり笑ったりする。


 愉しく、豊かで、しあわせな日々だった。けれど、しあわせなばかりではない。


 わたしは料理が得意ではないし、妻としての作法も知らない。裁縫は褒めてもらえたけれど、それ以外の家事を褒められたことはなかった。

 田吾郎さまは布団の内でわたしを慰めるように撫でてくれるが、それで妥協をよしとするわたしではないのだ。毎日が花嫁修業なのである。

 さらに二月が流れる頃には、料理の腕も上達し始めたらしい。田吾郎さまもお義父さまも美味しいと言ってくれるようになった。


 嬉しい。

 けれど、しあわせなばかりではない。


 ――夫婦生活も半年が過ぎた頃、田吾郎さまはお役目で江戸に赴任してしまった。

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