十一:狂刃は白く君を刺す

 楽しいことが好きだった。

 学ぶことは楽しい。

 遊ぶことは楽しい。

 知ることは楽しい。

 試すことは楽しい。

 もっともっと、楽しいことがしたい。

 君はきっと、楽しい。



十一:狂刃は白く君を刺す



 涓滴岩を穿つ、と云う。

 事実、水というものは恐ろしい。陸生生物は水中では身動きも制限され肺に水が入ればあっけなく息絶えるし、何年もかけずとも高圧の水流なら一瞬にして金属を両断する。

 高圧の水流というものを、水瓶一本で作り出せるような能力者が居るとすれば、それは紛れもなく脅威であろう。

「(――いるんだよな、それが)」

 どこか遠い思考で、イルドバッハは息を吐いた。溜息にも満たない浅いそれは、地を駆け続ける身から吐き出される、平時よりも早い息と判別がつかない。視界の端に映るに、知覚とほぼ同時にまた強く大地を蹴った。飛び上がる。イルドバッハが先程までいた場所を水流は抉り、奥の木々を両断した。倒壊音を背後に、イルドバッハは着地と同時に今度は真横に飛び掛かる。その方向――イルドバッハの飛び込んだ先にいる男が、空の瓶を投げつけた。ガラスのそれは、イルドバッハが振り被った拳にぶち当たり――溶けた。

 溶けて、液体すら蒸発し、腰の入った拳はそのまま男――コープの顔面に、入る前にコープは首を傾ける。同時に、先程は水流だった水が彼の元へと舞い戻り、コープとイルドバッハの拳の間に滑り込む。ジッ、と火花のような音が鳴って、高温の――業火の竜鱗クリムゾン・スキンの拳と水は弾き合い、爆発的な煙を上げた。コープとイルドバッハがそれぞれ反対方向に飛び去る。飛び去って、着地して、イルドバッハは浅く息を吐いた。

 もうどれだけ走ったか。黒のアジトの周辺、岩山地帯を抜け、森林地帯に入って――木々を切り倒しながら――コープを押し出すように進み続けて何時間か。数時間も経ったかもしれないし、数分足らずかもしれない。体感など当てにならず、懐中時計はとうにコープの腕に鰭によって真っ二つだ。置いてきてしまった結のことが、心配だった。

「隙あり」

 ――そう、ほんの一瞬、思考を遠くにやりすぎた。高速で渦を巻く水流を纏ったコープの拳が、目の前に。


 爆発音。


 咄嗟に熱を高めさせた両腕で拳を防ぎ――蒸気爆発で吹き飛ばされて、イルドバッハは、視界が切り替わるのを見る。森林地帯の終わりだ。木々は無くなり――下に見えるのは、限りない青だった。ひゅ、と思わず喉が鳴る。いくつか見える『足場』には、少し、届かない。

 ――バシャンッ!! と、水飛沫が跳ね上がる。湖に落下したイルドバッハの体が勢いのままに大きく沈む。バシャンッ、もう一つ、湖に落ちる――否、飛び込む音。痛む目をこじ開けて、滲む視界でイルドバッハはそれを見る。それは――コープだ。ただし、その肌は青く、水中でありながら刮目した瞳を囲む白目は黒く染まり、ニタリと笑った牙は鮫の如く。そして何より、腕だけでなく足にも、背にも鰭が、そして鱗が生えている。水中を我が物のように――否、事実我が物なのだ――泳ぎ、その刃物の如き鰭がイルドバッハの眼前まで迫る。

「(まずい!)」

 咄嗟に、イルドバッハは両腕を前に出し、熱を高める。周りの水に温度を奪われるより早く、急激に――それは再び、爆発を引き起こす。それがまた、イルドバッハの体を弾き上げた。

 弾き上がって、その体は、今度こそ足場――この広い湖地帯の水上に顔を出す岩場に着地した。

「――ッぷはっ、はあっ……!」

 今度こそ呼吸は大きく荒れて、激しく息を吐き出す。人間は、水中で息はできない。そんな、岩場に膝をついたイルドバッハの周りを――まるで鮫が泳いでいるかのように――鰭だけを見せて、その水影は嘲笑うかのように一周してみせる。そうして、ざぱ、とイルドバッハの正面、その水面に、コープは顔を出した。

「レジスタンスって大変だよなあ」

 そう笑うコープの肌の色は元に戻っていた。白目は白く、歯は普通。彼の『水霊の加護ウンディーネ・グレイス』はそういう能力、らしい。水を操り、体の一部に刃物の如き鰓や鱗を生やし――完全に魚人化すれば水中にて自在に呼吸し泳いでみせる。魚人化状態では肺呼吸は出来ないようだが、一瞬で姿の切り替えができるのならば大した問題にはならないのだろう。笑いながら、コープの体はざばざばと持ち上がり、そのまま平然と水上に立ってみせる。足元の水を操っているのだろうか。便利なことだと、イルドバッハは心の中で悪態をついた。

「敵を殺しちゃいけないし、死なせちゃいけない。放置も出来ない逃げてもいけない、黒のアジトに白が出ようもんなら、どうにかこうにか遠ざけないといけない」

 コープは指折り数え、そうやって五つ目を数え上げてから、パッと広げた片手をイルドバッハに掲げてコープは笑ってみせる。

「その結果、白野郎のフィールドに持ち込まれたりしないといけない」

 ――コープは水上だろうが水中だろうが、自由に動くことができる。湖地帯は、広い。ここはどうやら、そのど真ん中だろうか。随分吹っ飛ばされてしまったようだ。イルドバッハは息を吐く。

 ――イルドバッハがそうやって息をつける足場は、湖地帯に顔を出す岩肌が、視界にちらほらと。それだけ、だった。にんまりと、コープは笑う。

「どんまーい、でも俺としてはラッキーだわ。お前とは一度ってみたかったんだよ、レジスタンスのイルドバッハ」

「……知られてるたぁ光栄だね」

「知ってる知ってるー、お前の能力もね」

 笑うコープの周りに、四つの水柱が盛り上がる。イルドバッハの頬に水が伝う。それが湖のものか自分のものか、判別は付かなかった。

「炎とかじゃなくて、温度操作だろ、お前。水と炎じゃ勝敗は決まってっけど、水と高温じゃ分かんないじゃん」

 面白そうだと思って、と、コープは笑う。

「――やっぱこっち来て良かったわ!」

 水流は――水龍となって、一斉にイルドバッハに牙を向いた。



 戦況は悪い。

「――あー、もー、ちょこまかうっざ!!」

 怒鳴り散らしながらユースは腕を振り上げる。それに従って、砂で出来た巨人が腕を振りかぶって結を叩き潰さんと拳を落とした。それは、またもすんでのところで身を躱す。

「またかよ! 避けんな!!」

 ――避けるだろそれは!

 飛び退いて、着地も上手くいかずに転がりながらも結は内心で叫ぶ。声に出さないのは、その余裕も無いからだ。さっきから走りっぱなしの心臓は煩く、息は整わず、足がまだなんとか思い通りに動くのが奇跡的にすら思う。こんなに走るのは体力測定のシャトルランくらいだ。否、シャトルランだったならとうに足を止めていたかもしれない。今何とか動けているのは、足を止めれば死ぬからだ。

 ――ユースに叩き上げられた屋上。そこで、逃げることも倒すことも出来ず潰されることも無く、結はひたすら己を叩き殺さんと狙う泥人形の手を避け続けていた。ひたすら避ける男と、ひたすら避けられる男。傍から見れば大層滑稽だろう。泥人形の拳がめり込みクレーターがあちこちに出来た屋上の惨事は、笑い事ではなく命の危機だと察するに容易いだろうが。

 一発でも喰らえば全身の骨を叩き折られて死ぬだろう。もしかしたらフロストに貰ったネックレスの不思議な力で――屋上に叩き上げられた時のように――死は免れるかもしれないが、身動きはもう取れなくなるに違いない。

「なんだよお前!? 動きはトーシロなくせに妙に的確に避けやがってさぁ!」

 苛立ったようにユースが叫ぶ。それは、尤もな疑問だろう。結は決して戦闘慣れなどしていないし、足に自信があるわけでも、ユースの動きが読める訳でもない。それなのに、何故こんなにも避けることが出来るのか――結自身にも、疑問な程に。

 ――その答えは、実は既にぼんやりと分かっている。

 ハッと、結は目を見開いて、転がるように何とかその場を飛び退いた。飛び退いた、その一瞬後――ギリギリで、土の拳が叩き込まれる。

「~ッあー、腹立つ! 今のぜってー死角だった!! なんで分かんだよ!?」

 ユースが地団駄を踏む。結は、咳き込みながらも出来るだけ泥人形から離れようと這う這うで急ぐ。そんな結を、ユースがギッと睨んだ。

「能力なのか!? なんだよお前!」

 ――そう叫ばれても、結にも分からないのだ。

 だが、能力なのかと言われれば、心当たりはあった。レジスタンスに来た当初、イルドバッハに示されるままに小石に力を使えば、小石は繋がり、融合していった。繋げる、結ぶ、そういう力であるならば。

 ――視界とは別の知覚。言うならば、脳味噌に直接流れ込むように、結が姿姿を知覚できるそれに、説明がつく。

 それは、きっとユースが見ている結の姿だ。結の目で知覚出来ずとも、結よりも強いユースが知覚出来るそれを、結は――その脳内情報を、『繋いだ』のだ。

 同じことは、思えば先程もあった。コープと呼ばれる男の襲撃を受け、イルドバッハの声を聞いたあの時。あれも、イルドバッハの思考と『繋がった』のだと思えば説明がつく。そういうことが出来る能力なのだと、すれば。

 だがそれは、結が意識的に発動したものではなかった。今も持続はしているが、いつ途切れるか分からない。ユースの知覚を共有し、攻撃が放たれる事前情報を掠めとっているからギリギリ回避ができている。それが無くなれば――戦闘に関して素人である結だけの反応速度で、避けることなど不可能だろう。

「(――だから、その前に、どうにか……どうにか、しないと)」

 ゼエゼエと、結の呼吸は覚束無い。能力の効果であろうものが持続したとしても、結が避け続けられる体力が残るかも怪しかった。それを自覚していた。

 ――どうにか、泥人形を掻い潜って、ユースの横を抜けることが出来れば。

 そうすれば、せめてここから何とか退避して、ユースから逃げ切ることが出来れば。その隙を、伺う余裕はあまり無い。泥人形の動きを本来の自分の知覚速度よりも早く感知できることだけが、結にあるアドバンテージだった。

「(でも、やらねぇと。殺される、訳には)」

 顔を上げる。泥人形は巨大でパワーがある分、空ぶった拳を戻すのに時間がかかるのだ。幸い、ユース自身の戦闘力は高そうではない。ユースの体は細く、体格的には結が勝っているだろう。泥人形にさえ捕まらなければ――そう、結は思考して。

「……あー。もうキレた」

 ユースがそう言って、冷めた目でこちらを見ていた。結の脳に、その光景は共有されていた。

「ここにある砂、全部使うわ」

 ユースの人差し指が結を指す。泥人形が離散する。クレーターだらけになるほど壊された屋上の破片は砂となって寄り集まる。

 結の周辺、八方位。巨大な土の掌達が、浮いていた。

 ――避けられる隙間は、無い。

「(あ、死ぬ)」

 そう考えた。

 ――同時に、笑うユースのその顔が、憎たらしくて仕方が無かった。勝ち誇ったその顔が。結のことなど、新たなポイントのひとつくらいにしか思っていなさそうな、その目が。

 ユースのその目が、結を押し潰さんと迫る八つの掌を見ていた。その知覚が、結にも伝わっていた。

 ――その逆だって、味わえばいいんだ。

 そんな風に、思った。腹が立ったのだ。死の恐怖よりも何よりも、頭が燃え上がって、それが思考を塗り替えた。ユースのその目を睨み、強く、願う。


 ――ああ畜生、俺の見ているものをお前も見ろ――!


「――あ!?」

 ユースが叫ぶ。その目を困惑に瞬かせ、ごしごしと擦って後退る。

「何だ!? 俺がいる! 俺が見える!?」

 ――突如。ユースの視界は。ユースの目に結は見えない。自分自身が、見えていた。自分が作り出した掌の隙間から、目を擦る自分が――そう、目を擦ってもその視界があるのだ。まるで己の視覚情報をジャックされたかのように。

 主の動揺を反映するように、砂の掌は動きを停止する。砂粒が零れ落ちる。

「(――今だ!)」

 混乱し始めるユース。統率を失った砂の掌。

 何が起こったのか。考える前に、結は駆け出していた。軋む体を無視して、崩れる砂の塊を突き抜けて。駆けて、駆けて――


 その勢いのまま、ユースの顔面に拳を叩き込んだ。


 その身体は見た目通り軽い。結の全身全霊の拳は、ユースの体を弧を描いて吹き飛ばす。ドシャアッ、と吹き飛んだユースが無様に落下すると同時に、結の背後で砂が完全に離散した。砂塵となったそれは、殺傷力を失って風に散る。

 ユースは仰向けに転がっている。起き上がる様子はなかった。

「……勝っ、た?」

 何が起こったのか。自分でも整理がつかず、呆然と結は呟く。

 ただ、ユースが零した言葉から、推測は出来た。ユースは自分自身を見ていた、らしい。

 ――恐らくそれは、結の視界だ。

 結はユースの視界を――そこから得られる情報を『共有』し、脳の端でそれを『視』ていた。さながらモニターに映るそれを見るように、自分自身の視界は維持しながら、ユースの見る情報を共有していた。

 その共有を――ユースに押し付けたのだ。ユース自身の視界を塗り潰すほど、強く、強く。結の視界情報だけで脳の処理を埋め尽くすほどに、強く――共有させた。実際に目で見て得ている情報ではないのだから、ユースが目を瞑ろうとも結の視界は伝わっていただろう。そう理解して、結はユースの動転に合点がいった。

「脳内情報の、共有……」

 それが自分の能力なのだろうか。そう考えて、あまりしっくりこずに結は息を吐く。それが本質ではないのかもしれない。だが、そう出来るポテンシャルがあることは事実だろう。

「っ、いって……」

 息を吐いた瞬間、軋む体が悲鳴をあげて結は呻く。屋上に叩き上げられた時に思い切り打撲した背中が痛いし、泥人形から逃げ惑って硬い床を転がった体のあちこちが痛いし、走り回った足はパンパンになって痛い。――だが、生きている。

「――い、ってぇ、な」

 吐きかけた安堵の息は、背後から聞こえたそんな声で呑み込まれた。バッと振り返ると、ユースがゆっくりと半身を起き上がらせている。顔を手で覆い――ギッと、割れた眼鏡越しに琥珀色の瞳が結を睨んだ。鼻血を拭い、ユースが吠える。

「ッカスがよぉ……! もう許さん、ぶっ潰してやる……!!」

 砂が舞い上がり、再びユースの背後で同じ――否、先程の数倍巨大な泥人形が形作られていく。殺気が膨れ上がる。ビリビリと肌を焼くそれに、結が思わず後ずさった、その時だ。


 ――バケツがひっくり返されたように、屋上に局所的に水が降り注いだ。


「っ、は?」

 その声はユースのものだったか結のものだったか。お互いずぶ濡れになって、辺りを見渡す。

「――っああ! 俺の砂!」

 その悲痛な声はユースだろう。同様に泥人形は完全に濡れそぼり、能力に依らず固まって蠢いている。

「最悪だ! 濡れたら動かすの重いんだよ!」

「だから濡らしたんじゃん」

 自分の能力で砂から泥に固めることとは訳が違うのだろう。そう喚くユースに、結ではない、新たな声が応えた。

「ユースの能力で一番厄介なの、流動性だし」

 がしゃん、と、音を立ててそれは屋上に

 四つのアームの着いた奇妙な機械を背負い、そう男は笑った。機械の上部についている噴射機のような、ひとりでにくねる筒は――まさか、そこから水が吹き出て、屋上に水を吹きかけたとでもいうのだろうか。その男に、結はよく見覚えがあった。そしてそれはユースも同じらしい。

「良いでしょこれ。俺が作ったんだけどさ、城壁クライミングも出来ちゃうし、コープの力を注いでもらったから水も出る。結のネックレスもその類だろ? フロストかな、その力」

「――なんで」

 笑うその男は、この場にいてはいけないはずだ。ユースの声が震える。

「なんで、普通に黒のアジトに入り込んでんだよ、インセント……!」

 つんつんと跳ねる短い黒髪に、一見して好青年のような笑顔を浮かべたその男――インセントは、名を呼ばれ、たははと軽く笑って見せた。

「そんなヤバいもの見た顔しなくても。ごめんごめん、まあちょっと成り行きってやつっていうか、黒に用事があるわけじゃないからさー、見逃して?」

「出来るかバーカ!! 暗黙の了解忘れたわけ!? ほぼ野良に近いレジスタンスならともかく、白が黒に来るのがどういう意味か分かってんの!? とにかく、ウタ様に連絡……っ」

 そこまでの応酬で、ハッと結も我に返る。そして「まずい」と思考が至った。黒に白が侵入する――イルドバッハがコープを引き付けて回避してくれた事態が、こんな形で起こってしまうとは。

 ――ユースに連絡させる訳には、そう考えた矢先、バキンと破壊音が響いた。

「あー待って待って、それは困る」

 軽く、インセントは笑う。彼が投げたであろうナイフは、ユースが手に持つ通信機に深々と突き刺さっていた。

「ひ、」

 情けない声を上げたユースが通信機を取り落とせば、それは一度火花を散らして、モニターが消灯する。尻餅をついて後退るユースを尻目に、インセントは笑った。

「黒に用事があるわけじゃないんだって、見逃してね。手持ちの砂が使い物にならなくなったユースじゃ、俺に勝てないだろ」

 そう、ユースに声を掛けながら、インセントの目はユースに向いていなかった。真っ直ぐにそれは――結を捉え、笑う。

「久し振り、って程でもないか。この前ぶりかな、調子どう?」

 軽い挨拶だ。同級生にたまたま道端で会ったかのような、それくらいの軽さだった。

 インセントは、黒に用事がある訳ではないと言う。それならば、それは、彼の用事はきっと――

「……俺に、なんの、用だよ」

 声に震えが出ないよう、精一杯の虚勢を張って、結はインセントを睨みつける。虚勢だ。きっとインセントにもバレているのだろう。彼は相変わらず腹が立つほど爽やかに笑ってみせた。

「つれないなー。もう少し和やかにいこうよ」

「俺を、追って、来たのか。なんで……俺が、黒のアジトに居るって、」

「ああ、それね」

 インセントは笑う。大したことでもないように。

「初対面の時に罠に付着した君の血の匂いをさぁ、君がレジスタンスの拠点の森を出たところからコープに追ってもらったんだよね。あいつ能力のせいか血の匂いだけは敏感でさ。森の中までは幻術のせいでさすがにわかんねって言ってたけど」

 ――そこから追われていた。初めから狙われていた?

 ゾッと結の背に冷たいものが走る。反対側から、ユースが「イカれてやがる」と呻く声がした。

「なんで……俺を、」

「君の能力に興味があってさ」

 くるくると、インセントはその手に新たなナイフを握って弄ぶ。

「ちょーっとユースとの戦いを観察させてもらったけど、なんだろ、相手と自分を――結んでる? 繋げてる? 面白いね。それどういう能力?」

 インセントが足を踏み出す。とん、と軽くその爪先が地面を叩いた。

 ――その瞬間、めきめきと地面が盛り上がる。否、周辺から建材が寄り集まって、一つの形を形成しようとしているのだ。

「あ、結ちゃんまだあんま能力分かんないか。んじゃ俺の能力教えてあげるね。俺のは簡単に言うと化学合成が起こせてさ、コンクリートとか土とか集めてゴーレムにしたり、水素と酸素で水にしたり、それでエネルギー爆発起こしたり――分解は出来ないんだけどね。ああそうそう、」

 結の目の前で形成してみせたゴーレムをひと撫でし、インセントはその手をそのまま上に掲げた。

「科学の範囲ならこういうのだって作れちゃうんだ、ちょっと時間はかかるけどね」

 そう笑うインセントに影がかかった。その影の正体は、下から飛び上がって屋上までやって来た、体高2mはありそうな、巨大な――獣。

 ライオン、そう、一目で考えた。だがすぐに違うと分かった。


「それが俺の――愉快な合体実験ドキドキドッキング。楽しい能力だろ?」


 尾は蛇。体は山羊――物語で語られるような、キメラが、結の目の前で吠え立てた。



 水飛沫が立つ。イルドバッハが別の岩場に降り立つと同時に、先程まで立っていた岩場は砕かれて湖の藻屑と化した。

『ほらほらァ、逃げてばっかじゃつまんねぇよ!!』

 イルドバッハの背後。下から響いたその声に、ほぼ同時に振り向いて己の首を狙う鰭を己の腕で受け止めた。水流を帯びたその鰭は、イルドバッハの高温の腕に弾かれる。反動はイルドバッハ自身にも及び、爆風の勢いを借りて彼はまた別の岩場へと飛び移る。

 イルドバッハの腕から、ボトボトと血が滴った。高温の腕に焼かれることを警戒し、コープは鋭い鰭に水流を纏わせて攻撃してくる。その水流はある程度鰭の鋭さを緩和し、急激な蒸発で起こる反動はイルドバッハの移動を助けるが、蒸発と反発の狭間に浅く刻まれていく傷は増えるばかりだ。対して、コープは無傷。水流に冷やされたイルドバッハの腕に一瞬鰭が触れた程度では焼けはしない。

『ははははは!!』

 コープの笑い声が湖のあちこちから響く。わざと鰭を見せつけて、凄まじい速さでイルドバッハの周りを旋回するように泳ぐ。

『はは……、……はー』

 その笑い声が、やがて溜息となった。どぷん、鰭が沈み、コープの姿が見えなくなる。静かな声が、どこからか響いた。

『――飽きたな』

 静かな――冷めた、声が。

 響くと同時に、イルドバッハの足元がひび割れる。岩場は下から粉砕され、イルドバッハの身が傾いた。そこに――鯱が飛ぶように、黒い影が踊りかかった。水流を纏った腕が、イルドバッハの首を掴みあげる。どぽん、水飛沫が弾ける。

 ごぽ、とイルドバッハの口から気泡が溢れた。その首を絞めたまま、コープはイルドバッハごと湖の底へと身をくねらせて降下していく。

『甚振るのは嫌いじゃないけど、今求めてんのはそれじゃなかったんだわ』

 水中で、波動のようにコープの声は響いた。嘲笑に、鮫の歯が覗く。それを、イルドバッハの翡翠の瞳がぼんやりと開いて、見る。

『がっかりだ。じゃあな、レジスタンス』

 その声を、聞き届けたか。気泡を吐き出しきったイルドバッハの口が、ぱくりと開いた。

 ――そして、その口は弧を描く。歯を見せて笑ってみせる、その目は、闘志を失ってなどいなかった。


 音は最早、響かず。強烈な爆発に巻き込まれたかのような、そんな衝撃が、コープを吹き飛ばす。一瞬見えたのは、イルドバッハが立てた中指だけだった。


「ッゲホ、ゴホッ、ゴホ! ……っは、はー……」

 深く広い穴の中、イルドバッハは倒れていた。仰向けで見上げる空が眩しく、片腕で両目を隠す。

 ――穴。それは、元は湖だったものだった。

「……フィールドに持ち込まれたんじゃなく、誘導、してやったんだよ」

 水中は、コープの最も得意とするフィールドだ。コープは水中で自在に泳ぎ、呼吸すら可能とする。反してイルドバッハは水中では動きも呼吸も制限される。だから、飽きればイルドバッハを水中に引きずり込んでトドメを刺そうとするだろうと、予測していた。

 ――だが同時に、水中は、コープが最も無防備になる場所だった。そこが彼の独壇場であるが故に、彼は何にも警戒することがない。自分の周りに溢れる水が自分に牙を剥くなど、考えることもない。だから――イルドバッハは、コープが自分を引きずり込むのを待っていた。水中で、コープが自分に触れ続ける、その瞬間を。

「……っても、湖丸ごと蒸発させんのは、流石に、無茶しすぎたな……」

 体が熱い。温度を高めすぎた。能力を使いすぎたのだ。体温が戻らない、今のイルドバッハの体はさながら発火人間だ。このまま黒のアジトに戻るにも触れるもの全て燃やしてしまうだろうし、何より疲労が酷くて体は少しも動きそうにない。

 周囲にコープの気配はない。ポイントの気配もないし、何より能力の手応えとして人間を殺した感覚はなかったので、生きているはずだ。その加減はしたし、コープもネームドの一人である。だが、結構なダメージは与えられただろう。コープについては、一先ず問題は無い。問題は黒のアジトに取り残してしまった結の事だった。

「はぁ……、クソ、無事でいてくれ……、結……」


「っがは、ゲホ! ……っはは、マジかぁあいつ! ははは!」

 よろめく身体を木々で支えながら、コープは歩く。その服は広範囲が焼け爛れ、肌もあちこちが赤く腫れている。その程度で済んだのはコープが咄嗟に水流で身を守ったのもあるが、イルドバッハがあくまで『湖の水』の温度だけを変化させたことも大きいだろう。彼が直接コープの体温を高めていれば一瞬で赤い石と化していたに違いない。

「はは、湖丸ごと蒸発とか! とんでもねぇじゃん、あー、ほっんと、最高……ゲホッ」

 足がもつれ、コープはその場に転がった。そのまま四肢を放り出し、高らかに笑い出す。

「最っ高! 期待以上! またやりてぇ! 殺りてぇなぁ、あいつ!」

 暫くそうして笑っていたが、やがて息を吐き、コープはぼんやりと空を見上げる。とはいえ森の中の空というものは、ほとんど葉に隠れて見えはしない。木漏れ日がコープを多少照らす程度だ。

「……インセントの奴もお目当てに会えたかぁ?」

 はは、と今度は軽く笑って、目を閉じる。木漏れ日は柔らかく、通る風は爆風で乾いた身に丁度良い。太陽の位置からして今は十五時程だろうか。昼寝には良い時間だ。

「インセントに目ぇ付けられるなんて、カワイソ」

 心からの哀れみを――自分の発言を棚に上げて――結に贈りながら、満足感と心地よい疲労感と共に、コープは微睡みに落ちた。

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チルドレン・ウォー ミカヅキ @mikadukicomic

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