十:泥戦、混線

 大丈夫、お兄ちゃんが守ってあげるからね。

 それが兄の口癖だった。私は泣き虫で、弱虫で、ずっと兄に甘えていたから。


 怖い夢を見て泣く私の頭を撫でてくれた、あの優しい手を、今でもずっと覚えている。



十:泥戦、混線



 ざく、ざく、ざく。瓦礫が散らばり、荒れ果てたC地区都市部、東。真白の――総帥、と言うよりは教祖とでも言うに相応しい、ギリシャの神々のような衣装。一切の汚れのないそれを揺らし、歩いていたヨハンが、ふと足を止めた。

 その白に近い青の瞳が、ひとつの瓦礫を見る。

「……知った、気配がしますね」

 ぽつりと、ヨハンは呟いた。返事は無い。周囲にあるのは瓦礫のみで、人影も無い、ように見える。

「まあ、でも。出てくる気がないならば良いでしょう。私にはすべき事がありますから」

 くすりと、ヨハンは笑って、また一歩を踏み出した。少し強い風が、彼の布と長い白髪を靡かせる。


「それではまた。今度は、私に時間がある時に」


 ざく、ざく、ざく。

 きっとわざと音を立てて、彼は歩いていく。その音と、気配が、遠くなる。

 ――そこで漸く、瓦礫の影で、少女は息を吐き出した。風の音が鳴っている。それよりも、自分の心臓が煩く鳴いている。ばくばく、ばくばくと、落ち着かないそれを胸の上から身を縮込めるように抱き締める。

「ル、イン」

 通信機を握りしめ、少女――フロストは震える声を絞り出した。

《――フロスト! 無事か!?》

 通信機の向こうから、切羽詰まった声がする。仲間の声。それに、少しだけフロストは身体から力を抜いた。

《そっちにヨハンが行っとる、今すぐそこから離れ――》

「……だい、じょうぶ。見逃された、みたい」

 ルインが言葉に詰まるのが、通信機から感じ取る。そんな彼に、フロストはもう一度「大丈夫」と繰り返した。

「会った、わけじゃないの。隠れて、そのまま、行ったから……でも、葬藍、と、リオ。見失っちゃっ、た」

《……ええ、気にすんな。葬藍とリオは……あいつら何しとんねや、何やC地区から離れてっとるわ。大方殺し合いに夢中で滅茶苦茶な移動してんのに気付いてないんやろけど》

 ルインが呆れた声で話す内容に、少しだけ笑えてしまって、フロストは立てた膝に顔を埋める。吐いた息は、まだ少し震えていた。

《葬藍とリオはもうええわ。あの二人だけでやっとる分には被害は少ないやろ。自分からあんな爆心地に突っ込むネームレスも居らんやろしな。

フロスト、お前は……五分くらいしたら、C地区中心部に戻りぃ》

「……わかった」

 五分。冷たい物言いが多いルインの、優しい気遣いだろう。それに内心で感謝しながら、フロストは通信を切った。

 風が吹いている。少し寒いくらいのその中で、彼女は膝に顔を埋めたままで、その手に少し力を込める。自分で自分を抱き締める。浅く、息を吐いた。

「――ぃ、」

 顔も見ることは無かった白の総帥。その声を、思い出す。冷たくて、遠い声。


「お、に――ぃ、ちゃん」


 少女の力んだ手を解いてくれる人は、もう居ない。居ないのだ。

 何故か、フロストは、初めて出会った時――結の手を引いたあの時の、繋いだその手の温度を思い出していた。



 ――一方、同時刻。

「……ルインさん、ルインさん? 聞こえますか」

 黒の帝国アジト内、武器庫。その隅に身を隠し、内部の地図を握りしめて、結は通信機に小声で呼びかける。それは既に三度目の通信だ。二度の通信において、結の声への返事は無く、結は動き出していいものか分からずにいた。

 イルドバッハがやってくる様子はない。先程脳に響いたイルドバッハの声は、白の政府『ネームド』――コープを黒のアジトから遠ざけようと思案していた。となれば、恐らく、イルドバッハはコープを引き付けてここから離れる筈だ。証拠に、外の戦いの音は最初こそ聞こえていたものの、どんどん遠くなって今はもう何も聞こえない。

 イルドバッハがいつ戻るかは分からない。抗争中には戻って来れないかもしれない。となれば、本来の役目――黒のアジトに忍び込み、ポイント泥棒と『見せかけた』騒ぎを起こすのを、結一人でやらねばならない。先程まで少し騒がしかった内部廊下の方は、喧騒が通り過ぎたように、静かだ。

「……ここにずっと居る訳にはいかねぇよな」

 首に下げた、フロストから貰った首飾り。それを握り締めると、ひんやりと冷たくて、ざわつく結の心を少し落ち着かせる。それが、結の頭も冷やした。

 僅かながら冷静になった頭で、考える。武器庫には内部廊下に繋がる道と、先程入ってきた裏口への道しかない。もしも黒の帝国のメンバーが武器庫に来るならば、どちらかといえば内部廊下の側からだろう。結はお世辞にも戦い慣れているとは言えない。この場所で見つかれば、きっと追い出されてしまう他無い。一度追い出されてしまえば警戒も強まり、もう入れない。役目も果たすことが出来ない。

 ならば――そこまで考えて、結はぐっと内部廊下の方へ睨みを向ける。

「……中に、入るか」

 震えそうな足を踏み締めて、結は立ち上がる。そうして一歩、歩き出した。


 黒の帝国のアジトは西洋の城に似ている。外装は真っ黒だったが、内部も黒を基調としているようだ。ただ、黒一色という訳ではなく、黄色の灯りや赤色で刻まれたアンティーク調の模様、飾りとして置かれた花瓶が彩りを与え――誰が建てたか知らないが――圧迫感や威圧感を幾らか軽減させている。恐らく黒の帝国メンバーにとっては居心地の良い場所だろう。

 とはいえ、結にとっては敵地である。警戒を緩めないまま、できる限り足音を立てないよう、廊下の端を歩いた。

「地図では……もう少し奥だよな、ポイント保管庫……」

 いくつかの階段を上ってきたが、今のところ、誰かに遭遇する気配は無い。どこまで進むべきかと、結は思案する。あくまで目的はポイント泥棒そのものではなく抗争中にポイント泥棒が入ったという騒動を起こして抗争を中断させることだ。ポイント保管庫自体に行く必要はなく、むしろあまり奥に行き過ぎれば撤退が難しくなるだろう。そう考えていて――鼻に違和感。思わず、結はくしゃみをする。存外大きな音が鳴ってしまって、慌てて周りを見渡すが、人が近付く気配はなくほっと胸を撫で下ろした。

「……それにしても、なんか、妙に砂っぽいなここ……」

 結が歩くのは廊下だ。恐らくは石造りで、砂っぽくなるようには見えないがと、首を傾げる。掃除をしていないのだろうかとも考えるが、埃が溜まっているようにも見えない。

 ――その時、結の耳に付いた通信機が震えた。

「っ、ルインさん……っ!?」

《悪いな、ルインじゃなく俺だ》

「ガルドさん……!」

 すぐさま通信を受け取ると、耳元で心地よいバリトンボイスが響く。敵地故に声量は潜めつつ、漸く繋がった通信に結は安堵の息を吐く。だが、ガルドの声は少し固い。

《そっちはどうなってる? イルドバッハは一緒か? 通信が繋がらないんだ》

「それが……コープ? って奴が襲いかかって来て……多分、そいつを引き付けて黒のアジトから離れてます。アジトの中には俺だけで入りました」

《コープだと……!? 白のネームドが黒のアジトに来たのか!?》

 ガルドの声が揺らぐ。イルドバッハもコープの襲撃に似たような反応をしていたと思い出して、結は息を飲んだ。

“レジスタンスならともかく、『黒に白が忍び込んだ』なんて起こしちゃならねぇ。ポイント泥棒は『戦争ゲーム』のルール違反、それを白が破ったとなれば、戦争は激化する”

 イルドバッハは確かにそう『考えて』いた。何故それが結に分かったのかは分からないが――と、結は拳を握り締める。

「イルドバッハさん、大丈夫なんですか?」

《……あいつなら、大丈夫だ。伊達で切り込み隊長名乗ってるわけじゃない。それよりお前の方が心配だな》

「騒動を起こすんですよね? 俺、いつ動けば……」

《悪いな、レジスタンスはどうしても後手に回るんだ。……今、白の総帥と黒の帝王が接近してる。このまま総帥は帝王に接触するつもりだろう。ルインが探ってくれてるが、目的は分からん。両陣営の消耗具合は、微妙だな。お互い損害が無いわけじゃないが、まだ様子を見る必要が――》

「っ、すみませ、」

 ――耐えきれず、結はまたくしゃみをした。

《大丈夫か?》

「すみません……ここ、妙に砂っぽくて」

《……砂? 砂だと?》

 鼻を啜って呻いた結に、ガルドの声の調子が変わる。結がそれに首を傾げ、彼の名前を呼ぶ前に、通信機の向こうの声が、吠えた。


《――まずい! そこから離れろ結! 砂の無い方にだ!》


 その叫びが響くのと、砂を多く含んだ風が結の体を通り抜けるのは、ほぼ同時だった。

《黒のネームドのユースがねぼ――てアジ……に残――砂――つる能――……》

 砂を浴びたせいか。通信にノイズが走り、上手く声を拾えなくなる。そのうち、ブツンと切れてしまった。だが、それに気を払っている場合ではない。

「みーつけた」

 男の、声。少しそれに似た――具体的にいえば女性バージョンのような――声を、結は聞いたことがある気がした。それは、爆風渦巻く戦場で。

 ――そうだ、リーベの声だ。それに、少し質が似ている。

「抗争中に侵入者とかほんっと有り得ねーけど、とっ捕まえれば俺の成果だよな?」

 砂煙の中、男が歩いてくる。艶のある黒髪と、眼鏡の奥の琥珀の瞳は、リーベと同じカラーリングだ。


「――そうすれば、このユース様、寝坊の汚名返上ってわけ! 俺天才じゃん!」


 そう得意げに――自らユースと名乗った男は、びしりと結を指さした。

「……って、あれ?」

 かと思えば、男――もといユースは目を丸くする。ぼりぼりと後頭部を掻いて、「おかしいな」と零した。

「聞いてた特徴と違うじゃん……けど黒のメンバーじゃないだろこいつ、ってことは……はぁー!? 侵入者が二人とかマジ勘弁しろよ! どっちも白の奴等じゃないっぽいからまだいいけどさぁ!」

 ぼやいたユースは、思わず後ずさった結を睨んで、今度は叫ぶ。

「っ、侵入者が……二人?」

 態度の急変と大声に怯みつつも、イルドバッハも見付かったのかと思いかけて、結は否と首を振った。彼は今、コープと言うらしい白の政府のメンバーと黒の帝国アジトから離れながら戦っているだろう。離れる前に見付かったとしても、コープが一緒に発見されるはずだ。ならば侵入者は三人になるし、『侵入者が白の政府ではない』などとは言わない。

 ユースがぐわりと口を開いた。

「そうだよ! お前ともう一人! 変なツナギ野郎! お前レジスタンスか!? あいつは何なんだよレジスタンスの新入りかよ!? 趣味悪いぞ! しかもネームレス達をちょっと切り付けてはどっか行ってさぁ!」

 ――ユースがお喋りで良かったと、結は密かに、呆れも込めて息を吐く。ツナギ野郎、そんな特徴に該当するような存在は、結は知らない。レジスタンスのメンバーとは確かに全員知り合っているはずだ。

 ――安堵、すべきことではない。よく分からない第三者が、何故黒のアジトにいるのか。それが分からない以上は。

 何よりも今、結は黒のメンバーに見付かってしまったのだから。


「……っ!」


 どうするべきか――考えかけて、己の顔にかかった影に結の思考は途切れる。目の前に迫った何かを咄嗟に避けて、大地に転がった。あまり上手くない受け身に結の体は多少軋んだが――先程まで立っていた場所よりは遥かにマシな状態だと、視界に入った廊下に青ざめる。結が立っていたそこは、巨大な――拳の形状をした土の塊に殴りつけられたか、埋まり込んだその土の拳の下が酷くへこみ、ひび割れていた。

「まあいいや、やること変わんねぇよな」

 先程まで地団駄を踏んで騒いでいたはずの男が、酷く静かに、結を見下ろしている。

 ――ノイズ混じりの通信を思い出す。黒のネームド、ユース。間違いなく、目の前のこの男のことだ。そして、“砂”“つる”。恐らく――砂を操る、能力者。

 ネームド。

 戦争にて名前を覚えられるほどの、実力者。戦争に出払っていたはずのその一人は、話をまとめるならば、寝坊にてアジトに残っていたらしい。

 まずい。そう、結の心臓はドクドクと早まっている。本能が警告する。ぞわぞわと、鳥肌が立つ。

 分かる。

 お喋りで、聞いてもいないのに侵入者の情報をくれたこの間抜けた男は、結よりずっと、強いことが。戦争に慣れていることが。人を――傷付けることを、躊躇わないことが。

 ――逃げなければ。

 そう考えたのと、結が身を起こしユースに背を向け地を蹴ったのは同時だった。


 ――そして。

 結の踏み出した、その床から、土で出来た平手が結の身を弾き上げるように突き飛ばしたのも、同時だった。


 声も出ない、衝撃。

「――ご、ッゲホ、ッは……ッ!」

 少し遅れて咳き込む。一瞬息が止まった反動で、急激に入ってくる酸素を受け止めきれず、蹲って身を捩った。何が、起こったか。

 突き上げられて、空に飛ばされて、そのまま結は重力に従って落ちた――のだろう。あまりの出来事に、結の三半規管は自身に起こった動きを理解しきれては居なかった。空が見える。結が居た場所は他の場所よりも階層が少ない棟だった。その屋上まで、突き上げられた、らしい。

 バラバラと、何か、崩れる音がする。掠れた視界が少しずつ鮮明になっていって、その音が、向こうに見える――床に空いた風穴から落ちる、破片の音だと知った。斜めに突き上げられた故に、空いた穴にそのまま落ち直す、ということはなかったようだ。

「はぁー? 生きてんじゃん。頑丈すぎじゃね」

 その穴から、土の拳が伸びてくる。それが指を開いた中に、ユースが呑気に座っていた。

「能力使う暇無かったはずなんだけどなぁ」

 そう笑うユースを咳き込みながら睨み付けるが、その言葉は正しい。結はユースの攻撃に全く対応出来なかったのだ。思い切り土の平手を喰らい、天井を突き破って屋上まで突き上げられた。普通は骨でも折って、首や脊髄が折れるなり肋骨が心臓に刺さるなりと――そうやって、死んでいるだろう。

 確かに結の体は軋むし、その衝撃は一瞬息ができなくなったほどだった。だがそれだけだ。少し背中が痛むが、体は動く。骨が折れた感じも無い。

 ――これのおかげか?

 そう、身を起こしながら結は首飾りを握り締めた。突き上げられた一瞬、結の身を冷たい空気が覆った気がしたのだ。守られた、のかもしれない。

 だが、状況は悪い。床に空いた穴は――恐らくユースの能力によって――塞がれていっている。広い屋上、向こうに階下に繋がるであろう扉は見えるが、ユースの横を通り過ぎて逃げられる気はしない。寧ろ、今度こそ握り潰されて殺されてしまうだろう。先程助かったのは奇跡に近い。

 ぐっと歯を食いしばり、ユースを睨み付ける結に、ユースは軽やかに土の掌から降りて笑う。

「ま、いっか。お前トーシロっぽいし、俺の敵じゃないね! 『手持ち』だけで十分っしょ!」

 ブツブツッと、ボタンが弾ける音を立ててユースは自らの上着の前を思い切り広げた。その裏には幾つもの、砂がたっぷりと入った細いコルク瓶が、びっしりと取り付けられて並んでいる。

 その砂が、ひとりでに蠢き出す。自らそれらはコルクを弾き飛ばして、噴出した。噴出して、砂が舞って――集まっていく。ユースを運んでいた土の掌と一体化して、質量を増す。

 やがて――それは、一体の巨人を形作る。それを後ろに従えて、ユースがビッと力強く指を空に突き上げた。目の前で、そう、敵が笑う。


「さぁ! この『泥人形の狂宴マッドドール・パーティー』で――揉んでやるよ、侵入者!!」


 力量差は歴然。

 ――それでも、やるしかない。殺されてたまるかと、その一心で、結は立ち上がる。

 活路を。一筋であっても、糸のような細さでも、見逃すまいと。襲い来る巨人の動きを睨み、駆け出した。




「――白の、総帥が」

 ルインが呻く。何度か脳のオーバーヒートで鼻血を出した。目も充血し、荒い息で、それでも声を聞き続けている。

「黒の帝王に、接触、します。目的――目的は――、……王……? 心臓、たま、しい、……オーダー……」

「ルイン」

 限界が近い。そう判断して、ガルドはその足にぬいぐるみの腕を置く。

「……まだ、やれます。奴の、抗争の意図を……暴けるのは、今しか……」

「それでお前が壊れたら意味が無い。一度休め」

「――……」

 ぽす、と、ガルドがルインの額を軽く小突いた。ぐらり、その身がよろけて、ガルドの方に倒れる。その身を、ぬいぐるみの体では受け止めたとは言えない――むしろ踏み潰される形に近い――が、頭を抱え、地面にぶつけることは避けさせた。

「ルイン……!」

 先程呼び寄せたフロストが、倒れたルインを遠目で見つけたか、慌てて駆け寄ってくる。彼の身をフロストに預けて、ガルドは下から抜け出た。

「フロスト。暫くルインを頼む。気絶してる間は消音の必要は無いだろう」

「分かった……リーダーは……?」

「ヨハンとウタが接触する。近くに居る南斗が危険だ。俺が出向く」

 ガルドがぴょんと瓦礫に飛び乗った。ぺほ、とぬいぐるみの肉球から気の抜けた音がする。

「……結との通信も復活しない。急がねーとな」

 遠くを睨み、ガルドは低く唸った。


 そして、都市部北西――よりも、やや北に寄った、その場所。崩れた建物の瓦礫が飛び交うリトルとケルベロスの戦いから少し離れた場所に、ウタを抱えたジャックが着地する。

「……降ろしなさい、ジャック」

「へいよ」

 ウタの命令に、ジャックはあっさりとその身を降ろした。そうしながら、その目は一方向を向いている。ウタもまたそちらに目を向けていた。

 ――その方向。ひとつの影が、こちらに歩み寄ってきている。白い、布を重ねた衣服。長い髪。

「――おや。リトルには、帝王から誰もを遠ざけるようにと言ったのに」

 そう、悠然と笑って、白の総帥――ヨハンが立っていた。

「あの触手坊やには荷が重いだろ、勘弁してやれよ」

「それは、お気遣い感謝します」

 言葉とは正反対な表情で不遜に笑い声をあげるジャックに、大して気を害した様子もなくヨハンは穏やかに口角を緩める。ウタが鼻を鳴らした。

「私に何の御用かしら、白の総帥。私から人を引き剥がそうとしておいて、自分は片腕を連れているだなんて、随分な態度ね」

「……そう怒らないで頂きたい。私は、慎重で、心配性なのですよ」

 笑う、ヨハンの後ろ。ざくざくと、土を踏み締め、ルドルフが並び立つ。それをちらりと見て、ウタは溜息をついた。ルドルフは何も言わず、目を伏せてヨハンの後ろに立つのみだ。

「厭な男」

「おや、随分と嫌われてしまいましたね」

「御託はいいのよ。最初の質問に答えなさい?」

 肩を竦め、ヨハンは笑う。「では」と前置いて、ウタと目を合わせた。

「取引が、したいのですよ。黒の帝王」

「……取引ですって?」

「ええ、そうです。貴女に、此方に来て頂きたい」

 ぴくりとウタが目を眇める。不機嫌そうに、少女は息を吐いた。

 ――瓦礫の奥。『 幻想の霧フォギング・ワンダーランド 』を使って隠れていた南斗が、震える。帝王と総帥が接触する予兆は感じていた。少しでも探ることが出来ないかとこうして身を潜めていたが――その増幅していく殺気に、身体の震えが止まらない。だが今更逃げ出すことも逆効果だろう。今は能力と、何より黒と白のツートップがこちらに意識を向けていないから隠れられているが、動けば少しの気配の揺らぎで気付かれてしまいかねない。南斗はひたすら身を縮こまらせて、声を聞いているしかできない。

「(……なに、考えてるの……? 白の総帥……)」

 南斗はそう、震えながら考える。聞いていれば少しでもその意図を推測できるだろうか。そんな気持ちで、怖いながらに耳を澄ませる。

 ――ウタの、不機嫌な声が聞こえた。

「なぁに、それ。まさかとは思うけれど、そんなことを言うためにこの抗争に誘ったのではないでしょうね? 白の総帥、お前、黒の帝国と同盟でも組みたいのかしら?」

「まさか」

 くすりと、ヨハンは笑う。


「黒の帝国は要らない。黒乃ウタ、貴女が欲しい」


「――笑止」

 大地が揺れる。

 ――否、そんなはずは無い。そうではない。そう錯覚するほどの、重たい殺気が、その地に落ちたのだ。南斗は、身体の震えが止まらない。自分に向けられた殺気ではないのに、発狂してしまいそうだ。その中心にいる彼等四人が平然と立っていることこそ、狂っているように見えた。

「笑止。『私の声も聞きやしないで』、私を物のように扱うだなんて、不敬、不敬だわ。自害を命じてしまいたい」

 ――ハッと、南斗は顔を上げた。

 黒乃ウタ。黒の帝国の頂点として、帝王として坐す存在。彼女の能力は――『絶対王命パーフェクト・オーダー』。彼女を見、認識した者の聴覚に、彼女の声が届いたならば――彼女に逆らえず、あらゆる命令に従わされてしまう。本人の意思や信条は関係なく――そういう能力だ。彼女の声量は関係無い。彼女を見ていたならば。聴覚が開いていたならば。

 ――逆に言えば、視認していない、或いは盲目である者。耳を塞いだ者、聾たる者。その条件に一つでも当てはまれば命令は届かない。能力上の制限だ。

 そして。

 白の右腕、ルドルフ。その能力は、『世界は遮断されるパーセプチュアル・オブストラクター』。

 触れた相手の、特定の知覚を遮断する能力である。

「……貴女の能力は恐ろしいですから。『聴覚を遮断していても』、唇の動きを読めば会話は出来ましょう」

 ――恐らくは、初めから。

 ヨハンが笑う。周囲の殺気は重たくなって、ウタの機嫌が急降下しているのがよく分かった。最早、南斗には――仮に逃げ出そうとしても――足が動く気がしない。

「いいわ、結構。使い道は色々あるのよ」

 ウタが、息を吸う。その瞳が赤く染まって、黒く渦を巻く。

「――私を見ている白の犬共! 『白の総帥を殺しなさい』!」

 能力の発動。咄嗟に南斗は耳を塞いだが、恐らく間に合ってはいなかった。白の犬共――白の政府のメンバーを名指ししたのが救いだろう。南斗に能力の影響は及ばず、何とかその場に留まることが出来た。

 ――命令の餌食となった白の政府のネームレスは、恐怖に歪んだ顔のまま、武器を持って自らのトップに襲い掛かる。ヨハンの白い衣服が揺れた。

 白が、飛び散る赤に染まる。それはヨハンの血ではなく。

 ――何処かから現れたギロチン。それは、白のネームレス達の首を全て切り飛ばして、何事も無かったかのように消えてしまう。やがてネームレス達の首を無くした体も消え失せて、後には、赤い石だけが残った。ヨハンが一つ、それを拾う。

「……酷い事をしますね」

「酷いのはどちら? お前、本当に嫌いだわ」

「私は、部下には離れるよう命じておいたので。それでも見ていたならば、命令違反――秩序を破った結果ならば、自己責任というものです」

 笑うヨハンと、吐き捨てるウタ。それぞれの背後で、ジャックとルドルフがそれぞれ一歩踏み出した。

「言葉で済まなかったのだから、仕方がありませんね」

 ヨハンが、一言。そう笑って、ルドルフへと手を翻す。

「秩序の為には、時には力を使わなければ」

 ルドルフは何かを答えることはなく、ただもう一歩、ヨハンの前へと歩を進める。その右手を、横に突き出した。

 ぶちぶち、そんな、嫌な音を立て――服を、手袋を突き破り、ルドルフの腕から触手が生える。ぬめった、紫のそれは、リトルの背から生えていたものと酷似していた。

 ――それは、能力、ではない。能力は一人一つ。

 南斗は知っている。それは――言うなれば、白の政府の、『成果』だ。

「相変わらず悪趣味なこった」

 そんな異様な姿をものともせず、ジャックは笑い、己の影を踏み付ける。その上に手を翳し――影は、上に伸びていく。彼は己の影を『掴ん』だ。その形は、大鎌だ。

 『裂空の影シャドウ・ザ・リッパー』。その影から作り出されたあらゆる刃物は、あらゆるものを――例え空であろうとも――切り裂く、黒の双璧の片割れ、ジャックの能力。

 ――その時だった。何か、彼等の近くの瓦礫目掛けて降ってくる。轟音が響いた。煙が舞って、南斗から一瞬彼等の姿が隠される。

 だが、すぐにそれは晴れる。煙を裂いた紫の残像と、もう一体降ってきた巨大な影の爪によって。

 煙が晴れれば、その場に二人増えている。ウタを背にして前に出る、ジャックの隣に並んだ――手足のみを巨大な獣の形にしたケルベロス。そして瓦礫から飛び出て、石の欠片を吐き出しながらヨハンの前に出るリトル。

 白と黒、その頂点と両腕達が、そこに揃った。

「ナイススローケルベロス、とってこいが上手なこって」

「俺は犬ではない。さっさと済ませるぞ、ウタ様への不敬はウタ様の前で跪かせなければ」

 笑うジャックと、睨むケルベロス。

「……申し訳ありません、総帥。すぐに、こいつらを排除し、黒の帝王を御前に」

「……」

 ルドルフを睨みながらもヨハンに宣するリトルと、何も言わないルドルフ。


 ――轟、と。轟音、土煙、破壊音。どちらともなく動き出し、ぶつかり合う。

 響くそれらは、開戦を告げる角笛のようだった。

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