九:狂う歯車

 人は、わからないものが怖いのだと言う。

 それは時に夢であり、現実であり、真実であり、嘘であり、幽霊であり、人間である。

 成程、確かに。


 俺はずっと、俺のことが怖かった。



九:狂う歯車



「後出しジャンケンって、ズルいよねぇ」

 都市部、南。篠が口角を上げたまま、呟く。

「……二対二、対一。だけど姿を見せた時点で、一は準備完了だった、って訳だ」

 篠は笑んで――今の状態を皮肉った。

 そこは、毒でドロドロに溶け、雷撃で所々焦げた公園だ。しかし、そこには白と黒がぶつかり合っていた時にはなかったものが増えている。

 灰色の柱。四本、しかと聳え立つそれらに、ロッソ、リーベ、篠、洋は一人ずつ縛り付けられていた。

「私だって、何も用意しないで戦いに首突っ込んだりしないよ」

 四人をそういう状態にした張本人――ディーリアは、そう得意げに笑う。

 『夢は常世の鏡なりやドリーム・オン・リアリティ』――印をつけた範囲の中に頭に思い描いた映像を投影する、空想を形にする能力。ディーリアが現れた時点で、既に公園は印の範囲内にあり、最早ディーリアの支配する世界そのものだったのだ。

「う゛ー!! レジスタンスってほんっと、後から来て良いとこ奪ってくんだもん! 嫌い!」

「嫌われるのは悲しいなー、っと、危なっ」

 リーベが叫ぶと同時に迸った雷電は、ディーリアが咄嗟に己の上部に『投影』した木のアーチによってディーリアを焦がすことなく地面に流れる。隣で洋が「何やってんのヨ」と文句を垂れた。

「うるさいバーカ! そっちの毒だってこの柱溶かせないくせに偉そうに!」

「喧しい小娘ネ! 仕方ないでしょ他人の中のイメージなんか毒で侵せないんだから!」

「喧しいのはお前ら二人だ馬鹿!」

 ぎゃんぎゃんと口喧嘩を始める二人をロッソが一喝する。

 白と黒、敵陣営ではあるが、一周回って仲良いんじゃないかな、とディーリアは思わず笑ってしまう。

「何処に印をつけたかなんて君達わかんないでしょ。悪いけど、戦争が終わるまでこうしててもらうよ」

「そっか、それは困るなぁ」

 ディーリアがそう笑うのに、反応したのは篠だった。相変わらず、彼女は笑っている。

「だって、どうやら、黒の帝王も来たみたいだし」

「――!」

 ぱっと、ディーリアが篠の方に体を向ける。彼女の言葉とほぼ同時、ディーリアの耳の通信機は音を拾った。それは、南斗の声。篠の言葉が真であると示す、彼女の報告――黒の帝王が現れた、と。

 篠は空を見上げ、笑っていた。

「だから、洋、私の『体』をよろしくね。印、探してくるから」

 まあどうせ、レジスタンスは人殺しできないだろうけど。そう付け加え、篠は笑って――瞬間、その体は力を失う。がくんと首を落とし、身動きしない彼女の体。その上空に、『篠は居た』。

《使うつもり、なかったのにね。『死者の悪戯ゴースト・トリック』》

「――っ幽体離脱の能力か!?」

 叫んだロッソに、霊体となった篠が笑う。

《まあ、間違ってはないかな。幽体離脱と、取り憑くことと――まあ、わざわざ全部話す必要ないか》

 そうとだけ、からかうように笑って、自由になったその霊はすいと飛んでいってしまう。それに慌てたのはディーリアだった。

「幽体離脱はずっこい……!」

 ――ディーリアの脳裏に、幾つも言葉が流れた。

 どうする、べきか。南斗との通信は切れている。彼女が心配だ。印が篠に見つかるのは時間の問題だろう。簡単に見つかる場所ではないが、探せばわかるはずだ。だからと言って追ったとしてもそのディーリアの動きが逆にヒントになるかもしれないし、ディーリアがいない間に残りの三人がどうするか分からない。

 己の目的は、白も黒も、死なせないことだ。今取れる、最良の判断は――

「――ッ取り敢えず、引き離す!」

 明確に、脳内に空想を描いた。それは、未だ印の中にある公園に具現化する。洋の頭上に、鉄鍋。そして黒二人を縛る柱の下、既に沈んだトランポリンを。

「いっ……!?」

「うぉあぁあ!?」

「わぁあぁ――ッ!?」

 ガゥンッ、そんな音を立てて、鉄鍋が直撃した洋は気絶。ロッソとリーベは、柱ごと遠くへ吹っ飛んでいく。

「ネームドだし何とか受け身取ってね!」

 そう、ディーリアは叫び、北西の方向へと駆けた。


「――ッ有り得ねぇあいつ! クソッ! 『運命は掌にハンド・オーバー・ディスティニー』!」

 柱は途中で消滅し解放されたものの、空中に投げ出されて咄嗟にロッソは22枚のカードを浮かばせる。

「ッ来た! 『運命の輪』! 正位置にて『俺とリーベは着地に成功する』!」

 能力を発動させた瞬間、ロッソとリーベの身を柔らかな光が包んだ。それは投げ出されたままのスピードを和らげ、落下を緩やかにして、やがて二人は無事地面に降り立った。

「っあー! びっくりした……! ありがとロッソ」

 着地して、どさりとリーベが尻餅をつく。流石に思い切り空中に投げ出される経験は少ないだろう。彼女のその反応は自然なものだった。

「すっごい飛ばされた……ここ何処? C地区都市部ではあるみたいだけど、人全然居ないね」

「黒と白、双方の作戦で配置された人員の……穴、の部分だろうな。……偶然か?」

 リーベの言葉に返しながら、ロッソは立ち上がって、遠くに聞こえる喧騒へと顔を向ける。どの辺りに飛ばされたのか、彼等には判断する材料が少なすぎるが、どうも、戦いからはそれなりに離れた地点であるようだった。

 ――ざわざわと、ロッソの胸が嫌な騒ぎを覚えている。ぐっと顔を顰めて、戦場を仰ぎ見た。

「……戻るぞリーベ。ウタ様がいらっしゃってるらしい」

「それは勿論、私だって全然暴れ足りないんだけど……なんでそんなに焦ってるの、ロッソ?」

 リーベが首を傾げながら、ロッソの隣に並び立つ。顔を覗き込んで尋ねてくる彼女に、ロッソは僅かに目を見開いた。

「心配、してる? でもウタ様は私達よりずっと強いじゃん」

「……分かってる」

 ロッソの返事は、絞り出すような声だった。太縁眼鏡の奥の瞳が、苦く眇られる。

「だが、白の総帥から提案した抗争だぞ。何かあるんじゃないかと――何か、嫌な感じがするんだ。ヨハンとは、そういう男だ。

……それを、『かつて白の政府に所属していた』、俺は知ってる」

 きょと、とリーベの目が丸くなった。だがすぐに、それは拗ねた子供のように顰められ、見る見る頬は膨らんで、彼女はバシッとロッソの背を叩いた。

「いって!」

「もー! まだそんな事言う! 今のロッソは黒の帝国の参謀じゃん!」

「痛い痛い! わかったから何度も叩くな!」

 バンバンと背を叩く彼女の手から逃れると、リーベはふふんと得意げに笑って、ロッソの前に出てみせる。

「ま、その参謀殿がそう言うんなら、さっさと行こう! このリーベちゃんが嫌な予感とやら、まとめてバチバチしちゃうもんね!」

 その笑顔は、実に、能天気だ。不安なんて感じていないような。彼女の双子の弟であるユースも同じ顔をする。そういえば、蘭も、リーベやユースのそういうところを、笑いながら良く評価していた。

 ロッソの口角も、自然と上がる。

「……そうだな。行こう」

 その隣へと、一歩、足を踏み出した。



 ――都市部、北西。

 瓦礫は赤く染まっていた。悠然と立つ『黒の帝王』の前、倒れ伏した白の政府ネームレス達の、首から上は無い。そして残った体部分も光に包まれ――赤い石、ポイントを残して消えていく。

 それは、『黒の帝王』、ウタが命じた通りネームレス達が自害したから――では、なかった。

「役立たず。役立たず、ですね」

 ぬめった紫の触手が、瓦礫に散らばったポイントを掻き集めて、主の元へ持っていく。

 じゃらじゃら、触手からポイントを受け取って、褐色肌の少年はビルの上から見下ろしていた。

「みすみすと――黒にポイントを明け渡すような奴は、総帥が擁する白の政府には、必要ない、です」

 その手で、己の部下を殺した少年――リトルは、そう冷たく吐き捨てた。

「白のそういう所が嫌いだわ。自由じゃないもの」

 彼を見上げ、ウタがいつの間にか翠に戻った瞳を不機嫌に顰める。対する、リトルの表情は変わらない。

「黒の帝王。総帥がお呼び、です。黒の帝王、だけ。双璧も、植物女も、悪食も、僕も、要らない。

――『常闇から出でし者クリーチャー・ダークネス』」

 その声と共に触手が再び、長く、多く、伸びる。それは己の立つビルを壊し、ウタと双璧の周りを壊し、リーフィが創ったジャングルを壊し始める。その無差別な暴虐は、味方であるはずのスティアのことを考えているとはとても思えない。

王命オーダーも発動させないつもりか、不敬者め!」

 吠えたのはケルベロスだった。獣の姿のまま、リトルに飛びかかる。その鋭い爪と牙は触手を切り裂き、飛ぶ瓦礫を破壊して、少年に牙を剥いた。対するリトルもまた、無尽蔵に生やす触手にて応戦する。

「ま、異形には異形でってとこだろ。俺は大人しくお守りしますよっと、ウタ様」

「お前は白のツートップと戦いたいだけでしょう」

「それもある」

 そう笑いながら、ジャックはウタを姫抱きにして、瓦礫の飛び交うその地を蹴り――駆けた。建物が破壊され、雨のように降ってくる瓦礫はあっという間にジャックとウタから異形達を隠す。逆もまた、然り。

「今『絶対王命パーフェクト・オーダー』を使っても効果は薄そうね。私を認識外に置くなんて不敬……それにしても、『白の総帥』が私に、なんて、気味が悪いわ」

 ウタは呟いて、溜息をついた。ついと目を向けたのは、大部分破壊されたジャングルである。そこで、スティアが――先程までとは違う動きで、リーフィへと猛攻を加えていた。

「っ、うふふ! どうしたのスティアちゃん、一気に積極的になったわね!」

「総帥の、命令なのでな」

 スティアの蹴りが襲い来る蔦を打ち砕き、その牙で噛み付いて行く手を阻む木々を飲み干し、その手がリーフィに迫る。リーフィもまた身を捻らせて避けるも、爪が掠ったか、その頬に赤い線が引かれた。

「黒の帝王の傍に、誰も近付けるなと。お前の相手は私だ、黒のリーフィ」

「……うふふ、やだ、妬けちゃうわ!」

 また、轟音が響く。スティアが吠え、木々が唸った。ビルはまたひとつ瓦礫と化して、瓦礫は砂塵と化す。

 破壊止まぬその空間で――南斗は一人、物陰に隠れて震える己の体を抱いていた。

 ネームレス達を助けられなかった。そして今も、この殺し合いを止められない。黒の帝王ウタ、黒の双璧ジャックとケルベロス、そして――白の懐刀、リトル。最早、格が違う。南斗には手の施しようがない。

「……ル、イン。聞こえる?」

 だから、震える手で、声を潜めて、それでも通信機に触れた。このC地区という戦場に居る仲間達へ、ルインへ、情報を。

 己に出来ることを。それが南斗の、震えながらもこの場から逃げることをしなかった理由だった。



「――ッ黒の帝王から敵も味方も引き離す……? 白の、総帥。一体何を考えとんのや……」

 南斗の情報を受け取り、無理はするなと指示を告げて通信機を一旦切った。ルインは顔を顰め、額に汗を伝わせて、ある方向を睨む。隣で、ガルドが気遣わしげに目を向けていた。

 この忌まわしい耳で、ヨハンの心を読めれば良いだろう。だが、出来ない。それはいつもヨハンの傍に付き従う――そして今、遠く――だが目視できるほどの距離に居る、この男のせいだ。

 ルインが膝をついた、その場所。そこからいくつかの瓦礫を挟んで、彼は居る。

 オールバックにしたグレーの髪。冷え冷えとした無機質な青灰色の瞳。真白の軍服。その胸ポケットに刻まれた、斜め打ち消し線の十字架。

 ――白の総帥の右腕、ルドルフ。その表情は一切の『無』だ。戦闘中もそうでなくても、正しく鉄仮面と称するのが正しいその男が、敵味方問わず不気味がられているのを知っている。ルインは顔を顰めた。

 一切変わらぬ無表情。必要最低限しか喋らないこの男の考えは分からない、と。その耳であれば分かるのかと、かつて――『白の政府に所属していた頃』、問われたことがある。そう問うた者はとっくに戦争で赤い石と化したが。

 最早届かぬ答えを吐き出すならば、『分からない』。

 聞こえていようが、この男のことなど理解できる訳が無い。

 ――ダブリューの、話をしよう。

 W、w。アルファベットのうちのひとつだが、それが『笑い』を示す記号としてこの世界で使われだしたのは随分昔だ。誰ぞが己の出身地ではインターネット上でそういう記号を使うと広めて、浸透するのに時間はかからなかった。なにせ子供だけの世界である。新しくて面白いものを好む幼い者達は、あらゆる時代、国、環境を背景に――覚えている範囲でではあるが――やって来る新参者が与える情報を受け入れ、己が物としていく。

 ダブリュー。幾つも多用することで爆笑を示唆したり、その形が草に似ていることから草とも呼ばれることすらある。lol、という同じ意味を持つ記号があるが、この子供だけの世界でよく知られるのはダブリューだ。

 ――『真実の耳トゥルーイヤー』の話に戻そう。この能力は、単純に聴覚として心の声が届くのではない。聴覚、もある。だが同時に、相手の心の声が、脳裏に言葉として浮かぶのだ。それが、ただ耳栓をするだけではこの暴走装置の制御にならない所以である。

 そして今、ルインの頭は酷く痛んでいた。ガンガンと響く、脳裏にさえ浮かび上がって追い詰める、その『声』は――


《めちゃくちゃ嫌そうwwwwごめんwwwwお前相変わらず俺の事嫌いすぎワロタwwwwww》


「ほんま喧しいねんお前はァ!!!」

 突然叫んだルインに横でぬいぐるみが跳ねた。いつもなら可愛らしいと和むが、今はそれどころではない。

 うるさい。うるさくて仕方がない。聴覚はもちろん脳裏もうるさい。最早視覚的にうるさい。

 ――ルドルフの心は、多弁であった。それこそルインの『真実の耳トゥルーイヤー』を塞き止めるほどに――それが、ルインがルドルフを天敵とする、最大の理由である。

 ルドルフの声が、先程ルインに語り掛けた――ダブリュー塗れの――それだけならまだ良い。否、良くはないが、ここまで頭痛はしなかった。だが、ルドルフは、多弁であるのだ。多弁の一言では済まないほどに。

 その思考は、滅茶苦茶だ。ルインに語り掛けた一言など砂漠のうちの砂一粒に過ぎない。

 《腹減ったwww》たい》《あいつ今《良い天気というかこの天気しかなかったなウケるwwww》《めっちゃ睨まれてるwww》《クソネミタンバリンwwwwww》《あでもちょっと風強くないか?www》《こんな日は《ぬいぐるみ跳ねたwww》《ツラタンwwwww》飛行機が《今何時だっけwww痴呆かwww》《瓦礫やばwww》《wwwwww》――羅列するのも億劫だ。その思考にまとまりなど無い。意味さえ見いだせない。絶え止まぬ声はただひたすらにルインの処理能力を殴り付ける。


《ごめんてwwwwwwちょっと頼みがあるんだがwww聞いてくれwwwwww》


 それでいて、ルインへ伝えるべき心の声は明確に伝えてくる。それは、恐らくこの男が意識的に声を表層に上げているからだ。それもまた、ルインには苛立たしく――恐ろしい。

 ――恐ろしい、のだ。この男は。ぐちゃぐちゃの思考も、それでいて何一つ、真意を掴ませないことも。それが意識的か否かも分からないことも。


 突如、声が止んだ。ぱっと己の足元を見ると、ガルドが腿の辺りに触れている。

「……すまん、対応が遅れた」

「いい、え、助かりました……」

 ルドルフの青灰色が、こちらを見ている。そして、此方へと歩みを進めてきた。

「――身構えるな。戦うつもりは無い」

 ルインに、声が届かなくなったと悟ったか。漸く、己の口を開く。表情はやはり変わらない。何を考えているのか、どういう感情でいるのか、何も分からない。

「フロストを、南に向かわせろ」

 彼は、ただ、そう告げた。それが『頼み』かと、ルインは顔を顰める。ルドルフはまた口を開いた。

「……いや、南じゃなくてもいい。東から北西にかけてのルートから外せ。


ヨハンは、そう動く」


「――ッ!」

 目を見開き、息を飲んだルインとガルド。その二人の姿に、ルドルフは何を考えたのか。

 分からないが、彼は踵を返した。

 瓦礫に隠され、直ぐにその姿は見えなくなる。ルインはそっとガルドの腕を自らから離した。瞬間、ルインの耳にまた大量の、戦場の心の声が流れ出す。だが、ルドルフの声はそこにはなかった。『一切』、だ。

 彼が一瞬で能力の範囲外に出るなど流石に不可能だろう。ならばあの大量の思考は――考えるほど、不気味で、ルインは顔を顰める。だが、今はそれより、考えなくてはいけなかった。――フロストのことを。

「……ルイン、奴の言葉は……」

「罠の可能性は勿論あります、ですが……フロストをヨハンに会わせる訳には……ッ」

 耳を、澄ませた。『真実の耳トゥルーイヤー』でフロストの声を探す。

「っ、クソ! 葬藍の声が煩くてフロストの状態が分からん!」

 ――葬藍とリオのぶつかりあいに、フロストを向かわせたことを後悔した。『真実の耳トゥルーイヤー』は、距離が近い人間ほど心の声が混ざって識別が難しくなる。

 否、この二人だけならフロストが最適だったのだ。ヨハンという想定外が無ければ。

 彼はルインの能力をよく知っている。だからか、おそらく意識的に思考を留め、ルインの耳から上手く隠れていた。

「そもそも葬藍め黒の作戦じゃ西にいるはずやろが! あの黒の暴れ馬が作戦無視すんのはいつものことやし期待はしてへんかったが!」

 自分がヨハンの居場所を探知できていれば、フロストを向かわせなければ。そんな苛立ちを、やや葬藍への八つ当たりとして叫ぶ。――澄ませた耳は、確かに、ヨハンとフロストの居場所を聞き取った。近い。

「っフロスト! そこから離れろ! 南や! 聞こえてるか!?」

 通信機に向かって叫ぶ。

 返事はなかった。



 イルドバッハの掌で、懐中時計が11と12の間を指し示す。

「……遅いな。ルインからの合図が来ない。あいつら大丈夫か?」

 唸るイルドバッハに、結もまた顔を顰める。C地区の方を見遣れば、煙が上がり、小さく爆発さえ起こっていた。あそこは、戦場だ。そしてそこに、レジスタンスのメンバーも戦っている。自然と、結は首にかけたネックレスを握りしめていた。フロストに貰った、それだ。ただのネックレスに見えるが、触れるとどこかひんやりと冷たく心地が良い。

 ――不安げな結の様子に気がついたのだろう。イルドバッハは懐中時計を閉じて、ぱっと笑ってみせる。

「何、心配すんな! これくらいの遅れ、まだ想定内だ! 元々俺も、ルイン達だって全部すんなり上手くいくなんて思っちゃねぇよ。ピンチになったら臨機応変に切り抜けりゃ良いのさ」

「……っ、はい」

 わしゃわしゃと頭を撫でつける、人より体温の高い掌に、結は少し体の力を抜いた。

 ――その時だ。

 イルドバッハが目を見開いた。その、温度の変化に結が気がつく前に、弾き飛ばされる。己の頭を撫でた、その掌に、だ。

「――っい……ッ!?」

 受身を取れ切れず、結は地面に転がる。その体はちょうど、潜入のためにこっそりと開けた黒の帝国拠点の裏口の前まで――

 慌てて飛び起きて、何を、と問おうとした。しかしイルドバッハの方を見て、結は目を見開き、言葉を失う。

「みーっけた」

 男が、先程まで結が立っていた場所にいる。それだけではなく、男の足元は鋭いものに切り裂かれたようにひび割れていた。イルドバッハが突き飛ばさなければ切り裂かれたのは自分かと、結の身からはぞっと血の気が引く。

 男は――短い黒髪と眼鏡、何の変哲もないTシャツとズボン、首にかけたヘッドフォン、それだけなら、普通の男だ。それこそ、結が元いた世界なら、そこらの高校にでも通っていそうな。

 しかしイルドバッハが咄嗟に盾にした懐中時計の金属紐に叩き付けられた、その腕。それは青い鱗を纏い、鋭く硬い、鰭が生えている。その鰭が、金属紐をキリリと鳴らして――

「――ッ!」

 イルドバッハが咄嗟に後ろに下がったと同時に、金属紐が切れて弾けた。

「っんで、『白の政府』ネームドが居るんだよ――っコープ!」

 イルドバッハが吐き捨てると同時に、コープ、と呼ばれた男は大地を蹴ってイルドバッハに手を伸ばす。

「そりゃこっちだって、なんでレジスタンスが黒のアジトにいんのか知らねーけど……

こっちのが楽しーって言われたから、さぁ」

 鮫のように、笑っていた。紐がイルドバッハに手離され、宙に浮いた懐中時計。それをコープの鰭は一刀に割る。金属で出来たそれは、クッキーのように簡単に真っ二つになって――ガシャン、地面に落ちて嫌な音を立てた。

「遊んでくれや――なぁ、イルドバッハ!」

「――ッ!」

 吠え立てて、鮫は明確に牙を剥く。イルドバッハがぎっと睨んで、その腕に炎を纏わせた。

 ――きん、と、結の頭に何かが響く。


“――不味い。レジスタンスならともかく、『黒に白が忍び込んだ』なんて起こしちゃならねぇ”

“ポイント泥棒は『戦争ゲーム』のルール違反、それを白が破ったとなれば――”

“――戦争は激化する!”


「っ、イルドバッハさん……?」

 結は思わず零した。

 脳裏に過ぎったのは、確かにイルドバッハの声だった。だがイルドバッハはコープと打ち合い、到底何か言ったようには思えない。

 結の声に気付いたか、否か。イルドバッハが叫んだ。同時にまた、きん、と――

“この騒ぎで黒に気付かれる”“そうなれば潜入は難しい”“コープをここから引き離さねぇと”“黒に見つかる訳にはいかない”“結”“頼む”


「“――行け!!”」


 脳に響く声と、現実の声が、一致した。

 考える前に、結は駆け出す。視界の端で哮る火柱と、水柱。それを背に、開いた隠し通路の先――黒のアジト、その中へ。


 ――走って、走って。

 ルインに渡された地図は懐に確かにある。隠し通路から繋がるのは武器庫だった。そこまで辿り着いて、結は見つからないように、武器がしまわれた木箱の影に座り込む。

「……今の……何だ……? 心の声が、聞こえた、のか?」

 自分で言って、違う気がする、と結は首を振った。聞こえた、という感じでは無かったのだ。どちらかと言えば――思考を共有した、ような――

「……考えてる場合じゃねえ、よな」

 結はもう一度頭を振って、武器庫から繋がる黒の拠点の廊下へと意識を向ける。何か、遠くの方が少し騒がしい。人が集まっているのだとすれば、何も考えず廊下に飛び出すのは危険だろうと、結は己を落ち着かせようと胸に手を当てた。目的はポイント泥棒騒ぎを起こすことだが、まだそのタイミングでは無いはずだ。――イルドバッハが心配だが、焦ってはいけない、と。

 地図を開いて、ルートを確認した。今は、アジトにネームドと呼ばれる実力者達は居ない『はず』だと、朝教えられたことを思い出す。

「……俺は、俺に、できることを」

 呟いて、結は顔を上げ、光が差し込む廊下を睨んだ。



 鼻歌が響く。黒の拠点、その廊下を、男は歩いていた。

 奇妙な格好の男だった。全身淡い青をしたツナギを、一番上までチャックを閉めて、モジャモジャとした黒髪と瓶底眼鏡も相まって顔はほぼ隠れている。背は丸く屈め、ふらふらと足取りは覚束無い。しかし、それがこの男にはいつもの事だった。

 長い袖で包んだ手元で銀のナイフを弄ぶ。

「――居たぞ! 侵入者だ!」

「なんだアイツキモッ」

「白じゃないよな……!? レジスタンスか!?」

 どかどかと音を立て、廊下を走って、黒の帝国の構成員達がやって来る。皆、アジトの防衛を任された――ネームレスだった。

 それを確認して、男は、にんまりと服の下で笑む。

 とんっ、と、軽やかに、地面を蹴った。

「いっ」

 誰の声か。恐らく全員が、似たような言葉を発した。

 ぽたり、血が滴り落ちる。ネームレス達が傷を抑え、唸った。

「……っこ、こんなの大した怪我じゃないぞ! 覚悟し――」

「……あれ」

 吠えた、ネームレス達の視界に、もう例の男は居ない。

「――逃げたんだ! 探せ!」


「あは、アハハ、いひひひひ、っひひ」

 男は笑う。笑う。血を吸い上げて、またただの銀色に戻ったナイフを弄びながら。

「欲しい、欲しいな、心臓、欲しいな、欲しいよねぇ」

 繰り返す。男は空を見上げ、誰もいないその場所で、一人で実に、楽しそうに。

「集めなきゃ、集めなきゃ! 赤色! 罪色! 集めなきゃ! あは、あはっは、いひゃひゃひゃひゃ!」

 笑って、笑って、覚束無い足取りは――


「おいら、頑張るよォ! 主様ぁ――!!」


 正しく、狂気の沙汰だった。

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