最終章 不倫のコ
高見の固辞にもかかわらず、母親や親類縁者は参列を勧めた。それが人間としてのあるべき姿だと言わんばかりに激しく強要した。家族葬だったので、高見は浮いた。通常の通夜なら一般客に紛れて焼香するところだが、身分を明らかにしなければならなかった。
母親の男を取り上げた女――父親の心を奪った女に、下げたくもない頭を下げた。そして仕方なく思ってもいないことを口にした。
「このたびはお悔やみ申し上げます」
実の息子がいう科白ではないことはわかっていた。しかし、ほかに言うべき言葉は見つからなかった。形ばかりの焼香をした。サービスエリアの食堂で、食い終わった盆を下げに行くのと同じ感覚。思い出も恩義もない五十五歳が死んだだけなのだった。
「人の男を略奪した女の息子」
しわがれた声が聞こえた。
斎場の入り口に立っている初老の女から投げられた言葉。
「人の男を略奪した女の息子」
「それ僕のことですか?」
「あんたのことだよ」
「うちの母が死んだ父親をあなたから奪ったってことですか?」
「その通り」
「あんた、知らなかったのかい?」
黒の礼服から不健康そうな四肢を突き出した女は続ける。
オヤジの野郎はバツ2だったのか。
「あんた、不倫の果てにできたコだよ」
顔面に塗りたくられた濃い化粧が崩れるほど、ニマッ、と笑った。
そんなエピソードを母親から聞いたことはなかった。
父親の野郎は狩る前に死んだ。
しかし、父親が不倫したから、自分ができた。
高見の顔はひとりでに紅潮していた。女に背を向けた。
* * *
客の少ない昼下がり、事務所で過去問集を解いた。澱みなくスラスラと解け、確かな手応えを感じた。一部の時事問題と数学を除き、どの問題も打てば響く太鼓のようだった。問題に見合った知識や解法をアウトプットすることの楽しさに、もっと早く気づいていれば、また違う人生を送っていたのかもしれない。賞味期限の切れた木綿豆腐が並んだような団地で、舐めてきた辛酸と苦杯。死んだ父親にそのすべてを献上したい。
仕事をしている時間をすべて試験対策に充てたかった。この日出社した社員は高見だけで、接客は契約社員とパートに任せた。休憩中も外出せず、事務所の片隅で知識を詰め込んだ。ヤニ臭い事務所内はラブホテルと同じ臭いがして、ユリの顔がよぎることもあった。
丸田はスズコの浮気が発覚して以降、仕事に行かなくなった。「待遇悪くて、やる気のなかった会社だ。辞めるいいきっかけになった」と笑い、ハント再開に意欲を見せた。
高見は独りでに笑みをこぼしていたところ、声を掛けられた。
「高見君、ウォッシャー液入れてくんない?」
血の気が引いた。俵はもう一度言った。
「ウォッシャー液入れてくんない?」
「いらっしゃいませ」高見は動揺しつつ、頬を下げて顔を引き締めた。
「ウォッシャー液ですね」客と従業員という立場を超えないように振る舞う。事務所のガラス越しに外を見ると、スタッフは全員給油に追われていた。「しばらく待ってもらっていいですか? 担当の者の手が空き次第対応させるので」
白のセルシオには誰も乗っていなかった。俵に向き直ると、奴はレジ台の上に載せていた『地方初級公務員』の字が躍る分厚い参考書を手に取っていた。
てめえ触るなよ、喉元まで声が出掛かった。
「高見君に入れてほしいんだよね、ウォッシャー液」
俵は目を眇めて言った。思わず舌打ちしそうになった。
奴は言葉の裏に何か別の意図を含ませているようだった。高見の胸に嫌な緊張が走った。さっさとお引き取り願うしかないと思い、ボンネットを開けた。俵は高見の手際を観察していた。セルシオは定期的に洗車しているのか、ボディは磨き抜かれ、ホイールも艶々していた。シートなど内装も手が込んでいた。助手席には革張りのビジネスバッグ。高見の人生には今のところ無縁の代物。充填し終えると、俵が口を開いた。
「地元にずっといるから、同級生のこといろいろ知ってるだろう?」
高見の肩を馴れ馴れしく抱いた。
「俺、県議会議員選に出ようとしてるんだ」
呆けた顔で黙っていると、わかる? ケンギカイ、と奴は言った。
「地方議員の選挙に出ようと思って動いてるんだけどさ、ちょっと力貸してほしいんだ。親父の地盤はあるから当選は固いんだけど、なんせ後援会は中年や年寄りばかりだからさ、高見君に地元の同級生をまとめてほしいんだ」
「……」
「どうだろうか」
「無理だよ。そんなことできない」
「若い奴が応援に来てくれると、候補者自身のアピール力というか、その人自身の説得力が高まるんだ。頼むよ、小学校のころからの付き合いじゃないか」
「僕に頼まなくても、もっと適任者がいるはずだ。正一郎君は友達多かっただろ?」
「俺の友達、みんなこんな街からは出てってるよ。だから頼んでるんだ」
――こんな街。それが本音なのだろう。口ぶりは殊勝でも侮蔑の心が滲んでいる。
「だから無理だって。僕にはできない」
高見はきっぱりと断った。
俵は背後に回り、高見の肩を揉んだ。
「お前、地方公務員受けるんだろ?」
俵は揉み続けた。「親父に口利いてやる」
「筆記さえ通ってくれればの話だけどね。上手くやりゃ市職員になれるんだ。悪い話じゃないと思うけどな。高見君が市職員になってくれれば、また深いお付き合いもできるだろ? 地元で広く支持されるためにも横のつながりが欲しいんだよ」
奴は悪びれもせずに続けた。高見は足に枷をはめられたような気がした。
俵は左手を差し出し、握手を求めてきた。既に政治家の片鱗。めんどくさいので渋々片手を出すと、俵はもう一方の手で高見の掌に何かを押し込んだ。
「とりあえず考えてみてくれよ」
一万円札が捻じ込まれていた。枷に二重鍵が掛けられたと感じた。口利きと深いお付き合い。高見は雑念を払うように頭を振った。
「なんかこれで美味いものでも食って」
俵は死んだ父親と同じことを言った。高見の胸はざわつき、抑えつけていた感情が体中の汗腺から噴き出した。俵にとって、自分など取るに足りない存在なのだ。こめかみがひくひく反応する。黒い笑いが腹の底から湧いてくる。
高見は背を向けていた俵の尻を蹴り込んだ。
車体に叩きつけられた身体は跳ね返り、後頭部に拳を叩きつけた。頭を押さえた俵は状況を理解していなかった。高見はキャップを外し、前髪を思い切りかき上げた。傷痕に視線が注がれるのを感じた。外道ハントのときみたく昂揚した。
「お前が当選するなんて、僕は許さないからな」
スパナを振り上げ、奴の肩口に真っすぐ打ち込んだ。
骨が割れる鈍い音がして、俵はのたうち回り、腰を抜かした。高見はコウムイン、コウムインと信奉していた自分が恥ずかしくなっていた。目の前の男を意識しながら生きるのは、もういい加減うんざりだった。目を瞑り、深呼吸をした。瞼の裏にバスコの駐車場が広がってゆく。どこからかクラクションが聞こえ、その音が高見にスイッチを入れた。
「僕はてめえを狩る」
犯罪者にならないという枷を外す。
「助けてくれっ、親父に口利いてやるからぁ」
血で濡れた白シャツが揺れる。超然とした態度が腰砕けになる。
高見は勃起していた。
パートの女が悲鳴を上げ、視界の端に複数の男性客がこちらに向かってくるのが見える。もはや逮捕は免れなかった。だからもう、どうなってもよかった。
「お前なんかに支配されてたまるか」
高見はもう一度、スパナを高く振り上げた。
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