第13章 裏切り

 その日の朝刊には〈俵氏が無投票当選〉の文字が躍っていた。俵の父親が市長に当選したのだった。顔を脂でてからせながら、鯛を手に万歳している。俵よりも野心家の本能が表に出た顔つき。「ギラついている」という言葉がぴったりはまりそうな目と眉。傍らには支持者とともに俵本人が笑顔で写り込んでいる。高見は二度ボールペンを突き立てた。父子の頭部は空洞になった。


 高見は突き飛ばした自分の父親を思った。母親からは、見舞ってくれてありがとう、とメールが届いた。何事もなかったふりをして母親に報告するところも胸糞悪い。相手にするつもりがないと意識すればするほど顔がちらつく。著しく気分が滅入る。


 穴を開けた新聞をガラステーブルに放り、事務所の表に出て午後の勤務に戻る。死んだ魚の目でエンジンオイルとウォッシャー液の交換を勧める。断られれば断られたで構わない。「空気圧もチェックしましょうか」タイヤに痛みがあれば交換を勧める。決まり切ったやりとり。食い下がり方も一辺倒のマニュアル。思考なき言葉が口を衝いて出る。元気なのは店長だけ。社員もバイトもその場しのぎの似非スマイル。オイルの臭いが体中にこびり付いている。白のセルシオが入ってくる。


「いらっしゃいませ」運転席に寄る。運転席以外の窓にはスモークが施され、白髪の男が「レギュラー満タン」とぶっきら棒に告げる。


「あいよぉ、レギュラー満タン!」


 高見は声を張り、ガソリン注入口にノズルを挿し込む。


「お兄さん、高見君ですか?」


 後部座席の窓が開く機械音がした。

「はい?」高見は上ずった声で応答した。

 

 窓の奥から俵の顔が現れた。

スーツ。手には分厚い手帳。目を見開いている。


「高見淳平君でしょ?」


「……そうですけど」


 俵正一郎が目の前にいる。シートベルトは締めたまま、降りてくる気配はない。心臓に鈍い痛みが走る。顔中に虫が這ったような不快感が込み上げる。


「久しぶりじゃん、いつぶり? 成人式も来なかったよな?」


 高見は愛想笑いしてみせてから、サイドミラーやカウルを雑巾で拭いた。へりくだることだけはしたくなかった。雑巾を握る手に力が入る。

 助手席には四十絡みの中年、後部座席の奥には若い女がいた。これが妻なのかもしれない。女は口に手を当てながら高見の方を見て二人で話し込んでいる。


「満タン、オッケイ!」仕方なく声を張り上げる。


「兄ちゃん、ついでにこれ捨てといてくんない?」


 運転席の男から受け取った灰皿の中身を捨て、事務所でお釣りを清算した。テーブルには目玉に穴が開いた新聞。〈住民が主役の街に〉反吐が出る小見出し。むかつきが加速すると同時に、業務用のスパナが目に入る。これで思い切りぶん殴ってやりたいが、犯罪者になるわけにはいかない。高見は近く各種公務員試験の案内を請求しようとしている。


 今はまだ、積み重ねたものを台無しにできない。


「ありがっしたあ!」奥歯を噛み締めてセルシオを見送った。


 *  *  *


 金曜日午後八時、バスコ駐車場。


 今宵も欲望を押し隠した奴らが、何食わぬ顔で入り込んでくる。

 ここ一週間、丸田の副業先のファミレスで勉強した。参考書に向かうことで、猛る心を誤魔化した。ハントを中断して以降、丸田と会う頻度は減っていた。丸田はシフトを増やしていた。スズコと海外旅行するためだと言い、幾分か痩せていた。


 高見は最後の狩りは失敗したことを伝えた。


「河本の馬鹿のようにはいかねえか」


「隙がなく、ガードが固い。女にも釣られない」


 言葉を交わした三好によれば、俵はストリート事情について真摯に耳を傾け、偉ぶることもなかったとのことだった。単に地金を隠しているだけか、人間的に成長したのか知らないが、過去は消せようもない。高見は髪の下の隆起する古傷に触れた。気持ちは揺らぐはずもない。


 丸田といると落ち着く。ハントはしなくても、ここで落ち合うのがしっくりきた。車の群れによる地鳴りのような排気音も心地良い環境音になっている。丸田はスマホをいじり、高見は付箋だらけの参考書を拾い読みした。


「トイレ行くけど、なんか飲み物とかいらない?」


「じゃあコーラ。ダイエットじゃない方で」


 高見は小銭を受け取り、外に出た。

 バスコ建物に入る途中、見慣れた黒いムーヴが目に留まった。ムーヴは出入り口付近の空いているスペースに駐車していた。高見は手を挙げて駆け寄ろうとした。しかし、すぐ複数の車がハイエナのように集まってくる。


 ボンネットに龍をペイントしたヤン車が隣を取った。運転席の男が助手席のスズコに話し掛けている。高見はハイエースの陰に隠れて見ていた。スズコは嬌声を上げ、男が高笑いをした。男は典型的ガテン系。二十歳前後。何を言っているのかは知らないが、スズコが腰をくねらせて媚びていることはわかる。胸騒ぎがした。妙な切迫感が喉元へ這い上がり、口の中で爆発しそうになっている。


 ユリもムーヴから降りて、ヤン車の後部座席へと移った。ドアが閉まると同時にアクセルが踏み込まれ、轟音とともに駐車場から消えた。スズコと旅行するため、健気に副業に勤しむ丸田の姿が蘇る。ユリの裏切り。不倫なら容赦なく吊るし上げる。そうじゃなくても到底許されることではない。男と女である限り――いや、人間が人間である限り起こり続ける歪み、ひずみ。それによって生じた割れ目からこぼれ落ちたのが、自分であり丸田なのだと高見は思う。


 胸ポケットのスマホが震えた。夕方以降、母親から三度目の着信。頭はまだ熱くなっていたが、画面をタップし応答する。


「あんた、お父さん死んだで」


 なんの前置きもなく、冷えた声が飛び込んできた。

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