第12章 反吐&虫唾

 高見は一生懸命勉強することで、やり場のない悔しさを誤魔化した。一日三、四時間ほど机に向かい、仕事中も客がいないときはスマホを使って知識を蓄えた。


 警察官、消防士、海上保安官、市役所・県庁の事務職、裁判所職員――。


 大きな組織と建物の中で働く自身を思い浮かべ、モチベーションを高めた。そうして問題集を解く筆は乗り、父親のことなどすっかり忘れていたのに、


〈お父さん、危篤。頼むから一遍見舞ってあげて。連絡待ってます〉


 母親からのメールに集中を乱された。〈行かねえよ〉と返信しても、一方的に病院の名前と病室番号が送られてきた。スマホを放り、勉強の世界に戻る。しかし、すぐスマホが震える。〈暇なら遊ぼうよ、バスコにいる〉とユリ。すっかり彼女気取りだった。いつでも会える相手に割く時間が今はもったいなかった。


 アパートから県立図書館に場所を移し、もう一頑張りした。

 六人掛けのテーブルの左端に陣取っていたところ、粘り強い視線を感じて文字を追うのを止めた。嫌な予感がして目立たないよう視線を向けた。


 高見の斜向かいに〝性殖者〟西倉がいた。


 狩ってから数カ月経つ。手元の書籍に「採用試験」の文字が窺える。西倉はずっとこっちを見ている。高見はゆっくり参考書を閉じた。悟られぬように腰を浮かし、何食わぬ感じで回れ右し、急いでその場を離れた。コンクリートの床を早足で歩くと、それ以上の速度の足音がついてきた。公衆の面前だろうがお構いなしにぶつかってくる可能性がある。


「おい、待てよ」ずんずん迫ってくるのがわかる。「止まれよ、お前」


 高見は駆け出した。自動ドアを出て、駐車場には向かわず、幹線道路の方へ進んだ。入り組んだ路地に入り、速度を上げた。早いとこ撒いてしまいたかった。


「お前のせいで、お前のせいで……」


 西倉の声はしつこく耳に届いてきた。日なたで見る西倉は恰幅がよく、自信家の面構えをしていた。好戦的で捨て鉢な奴ほど手ごわいものはない。広い車道に出て、建物が立ち並ぶ方向へ西進した。振り向くと、まだ追い駆けて来ていた。横断歩道を渡り、近くの曲がり角を左折して裏路地に回った。曲がり角があるたびに曲がった。足音は途絶えた。高見は電信柱の陰で呼吸を整えた。


 息を切らせた西倉の声がどこからか届く。


「地元の人間だったんだな。こんな狭い街にいるんだ。絶対にまた見つけてやる。せいぜい怯えながら暮らせ。俺は執念深い。覚えておけ」


 高見は机に向かう無防備な姿を見られたことを恥じた。参考書にはブックカバーをつけていたし、奴の角度からではこちらの手元までは見えないはずだ。


 深呼吸して顔を上げた。低層住宅群の中に、一際高い建物が突き建っている。高見は吸い込まれるように立体駐車場に入り、来院者用通路と書かれている矢印通りに進んだ。


 父親が入院している病院だった。公立病院だが、一流ホテルのようなエントランスがあり、一階ロビーの天井はどこかの大聖堂ぐらい高かった。


 スマホを見た。九階南病棟の九〇五号室。

 そこには確かに母親が教えてくれた名前のプレートが張り出されていた。字面が無機的な記号に見えた。名字は違うものの、それは確かに実父の名前だった。立ちつくしていると、スライド式のドアが急に開いた。


「お見舞いの方ですか?」


「いえ、違います。すみません」


 あらぬ疑惑を否定する芸能人のように、大袈裟にかぶりを振った。


 水色の仕事着を身につけた看護師は、迷惑そうな態度を隠そうともせず、点滴袋や血圧計、パソコンなどを載せたカートを淡々と押していった。


 高見は舌打ちをした。踵を返そうとしたとき、何か車輪が回転するような音がした。左手で点滴台のポールを握り、覚束ない足取りで近づいてくる影があった。


 禿げた男だった。禿げ散らかした頭を誤魔化すかのように顎に髭を蓄え、水色の病衣の裾を引き摺っている。四肢は自由に動かせるようだ。


「お前、淳平か」


 粘りつくような視線。高見は瞬きもせず見つめ返した。


「あんたは――」


 それ以上の言葉を発するのを喉が拒否した。


 迎合するつもりはまったくなかった。自分の心がどう動くのか、恐れる部分はあったが、さしたる感慨もなかった。知らないおっさんが一人いるだけ。


「……危篤だと聞いて来たんですけどね」


「具合悪いが、近々どうこうということはない」


 婆ァ、騙しやがって。苛立ちが突起し出す。背は高見と同じぐらいある。通った鼻筋、垂れた目尻、細い眉、薄い胸板が高見とそっくりだ。


「母親の奴が大袈裟に言ったんですね。俺は帰ります」


「待ってくれ」


「……まず言っとくけど、父親面するな。俺のことは呼び捨てにするな。こっちはあなたのこと知らないんだから。あなたのエゴに付き合うほど、お人よしにもできていないからな。要件だけチャッチャと言っちゃってください」


 父親は真顔でじっと聞き終えると、口の端を歪ませた。


「やっぱ似てるな」


「あぁ?」高見は凄んだ。「そちらが感傷に浸るのは勝手だけどな、俺はあんたに同情するほどの思いはなんにも持っちゃいないんだわ」


 突起した苛立ちの先端が鋭く尖り、一人称が「俺」になっていた。


「何か父親らしいことしてみろ。端的に言うぞ。金を寄越せよ」


 母親の話では不倫相手と再婚後し、小さな板金屋を経営している。高見ら母子に仕送りするほどの稼ぎはないらしい。甘い母親は法的措置を取らなかった。


「ちょっと待てって」


 横長の財布から万札が三枚出てきた。「これで母ちゃんと美味いもの食え」


 こめかみが怒張した。咄嗟に胸倉に手が伸びた。古傷が騒ぐ。


「何が美味いもの食えだ、ふざけるんじゃねえ。この百倍の額を寄越せ」


 取り乱しそうなるのを耐え、雑に突き飛ばした。点滴台の車輪の乾いた音が鳴り、父親はよろめいた。高見は突き上げてくる苛立ちを自覚しつつ続けた。


「親子の再会ゴッコに興じてやるつもりはないんだ。用事ないなら帰るぞ。死ぬ前に無様な姿を一目見てやろうって思っただけだからな。勘違いするなよ、死んでも許さないからな。あんた自身が目の前にいる人間を作ったんだ、それを忘れるな」


「……悪かった」


 高見はそっぽを向いた。

 

 男女が乳繰り合って、その子供がワリを食う。不埒な方向にだらしなく流され、すべてが悪い方向に傾いてゆく。その犠牲になる者の気持ちに、粘膜を擦り合って楽しんでいる当人は思いが至らない。


 反吐が出る。


 ドアの近くに設えてあるアルコール消毒機で、高見は露骨に手を洗った。肩を落として消沈している父親を見下した。ただただ虫唾が走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る