069、情況を見極めて、利用して

 性急だっただろうか。口にして最初に浮かんだのは、早まったかという思いだった。

 どちらにせよ確認しておかなければいけないことであったのは確かだが、今この段階でというのは少々、早い。


 うん、思い返してみれば、まだ、ここで打ち合わせをしているだけだ。

 机上の論という意味では、街で話しているのとそうそう変わらない。


 現場に近く、街からの遠さを感じながらなんとなく実感めいたものを感じてくれていたとしても、それは実際には勘違い……そう、勘違いといってもいいものだ。


 なぜなら、彼女は現物の確認については何もしていないのだから。

 冷静になればここで判断を迫るというのは、選択として間違いだろう。

 俺が入れ込んでいるというのは分かるだろうが。



「あいた!」


 ニコの左フックが肘に響いた。今度は先ほどのつねって何かを伝えようというのではない。

 殴って目を醒まさせようという一撃なのだろう。

 身を横に折る俺に対して、ニコは冬の空気よりもよく冷えた声で言う。


「前のめり過ぎ」


 肘を通して横腹に刺さった一撃はしかし、絶妙に右掌ではさすりにくい。触れることはできても、その状態での稼働角度がほとんどないという絶妙な位置だ。

 ぴたり、とニコの掌が触れる。


「落ち着く」


 言われる。前を向くと、シレノワと棟梁は何とも言い難い表情をしている。大工たちは意地の悪そうな笑みを浮かべているし、クヌートも同種のそれを浮かべている。

 全体的に妙な空気になっていることを感じてか、年中、年少組はぽかんとした表情になっている。

 えぇと、となんとか口を開こうとしたこちらに対して、シレノワが手のひらを広げてこちらを制した。


「仰りたいことは分かりました。なるほど、心臓部の案件に対して、こちら……というか、私一人が立場を明確にしていないのがご不満、あるいは、ご不安の様子」


 彼女はしっかりと目を開き、もはや、最初に街で見たときの不安定な様子はない。

 まともでまっとうな耳長という感じ。


「とはいえ、です」

 彼女は片目をつむり、また、人差し指だけをぴんと張って顔の前で振る。

 蠱惑的というのとはまた違うが、そこそこの大人の女性がそうした快活そうで子供っぽい仕草をとるのはそれはそれで魅力的なものである。


「そも、私だけが一人で交渉の場にいることが不利であることも事実だと思います」

 言っていることは事実としては正しいが、そうならないようにすることも交渉の一要素であると考えれば、不意打ちをされた後で、不意打ちなんてずるいというようなものである。


 それは通らない、

――普通なら。

(けど)


 前を見ると、棟梁は苦笑している。こちらの思っていることが分かっているのだろう。

 シレノワを雇えるかどうかは、こちらにとっては、迷宮経営ができるかどうかの大事なラインであるが棟梁からすれば仕事が一件、あるかないかの違いに過ぎない。客観的に物を見れるというのは、非常に強い。


 さて、戻って、先の発言。シレノワ自身がそれを自覚してやってるのかどうかは俺には判別がつかない。適当に口を回しているだけでにも感じるし、意外と俯瞰的に物を見ているのかもしれない。

 無視してもいいような発現を無視できない理由は簡単だ。


 ぼかして言うなら状況の、具体的に言うならば子供たちが見ているからだ。

 自分で招いておいてなんだが、状況的に、平等にしてほしいと言われれば平等にするべきかと思う。それは一つには、子供たちを同席させるというこちらの要望を呑んでもらっているからであり、もう一つとしては、子供たちの教育に悪いような気がするからだ。


 勿論、清濁あることを教えるというのはそれはそれで十分に意味があると思うが、濁であるところの状況を当然と考えている人間が彼らとともにあると知らしめる事に悪影響がある……気がする。そのあたりまでを考えて、今の要求をしたのであれば、ある意味ではますます信頼できる人物なのでは、という気もしてきたが。


――さて。


 苦笑から戻ってきて、しかし、若干唇の端を震わせている棟梁をさておけば、状況としては非常にシンプル。彼女の感じている不平等を何とかすればいいというところに落ち着く。


(条件提示だな)


 交渉の第一歩そこを踏んでいないことを思い出す。最初の予定ではこちらに来てもらう時には、とりあえず状況を見てもらって十分に考える時間を与えたかった。なし崩し的に丸め込むというのは、場合によっては非常に効果的であることは認めざるを得ないが、不誠実である場合がほとんどだ。


 結果良ければすべてよし、と全ての人間がそう感じるわけではないということを一人で考え事をしていると忘れがちであるが、人と言葉を交わすのであれば常に意識しておかなければならない点だろう。

 無論、これは顕著な例を挙げただけで、ほかにいくらでも考え方が違う点などはあるだろう。

 そして、常にそれを慮らなければならないわけではない、ということも調子に乗ると忘れがちになる点だ。


 臨機応変、そして、

――隣のニコを見る。首をかしげる彼女に笑みを返すと、視線をそらされた。

 笑みを浮かべるのに慣れていない分、不備があったのかもしれない。


 笑いをこらえたかのように肩を震わせて頬を染めるのが逸らしきれていない顔の端に見えていて浅い傷を心に得た気がするが、その疼きを抱いたまま思い浮かべるのはここにいない街の四人だ。

 次に、この場にいる子供たちの顔を軽く見まわして。


――そう、一番の基準となる目標を忘れていなければいいのだ。

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