ケモノミチ

中村ハル

第1話

「遅刻だ…。爺にどやされる」


 額に手を当てて、渦緒うずおは呻いた。背に負った包みはかさばるばかりで、重さも値もひどく軽い。中身は白熱球ばかり、3カートンだ。

 それが、今や、米俵でも背負うかのごとく重く感じる。もちろん、気が重いだけだ。


 約束の時間丁度に、渦緒は建物の入り口に辿り着いた。それが既に遅刻なのだ。渦緒が白熱球を届けるはずの電気屋は、建て増しに建て増しを重ねた継ぎ接ぎだらけの建築物の3階にある。しかし、渦緒の立った入り口から見れば、それは地上4階になり、今歩いている場所からならば、多分あと3階分は上に位置するはずだ。無秩序に増築された建物には、正確な地図はない。それでも、幾年も通い慣れた渦緒にとって、知った場所へ辿り着くのは目をつむっても出来ることだ。


 それが、道に迷ったらしい。

 いや、迷わないはずがなかった。

 何しろそれは、初めて通る道なのだ。


「甘く見すぎた…」


 さしてずり落ちてもいない荷を担ぎ直して、渦緒は魂まで吐き出すような溜息を吐いた。

 まともに行けば、入り口から電気屋まで7分きっかり。


「どうせ遅刻なら、普段通りに行けばよかった」


 魔が差したとはこの事だろう。普段は見向きもしない脇道に、視線が行った。そこだけが妙に暗く狭い階段続きの横道だが、渦緒はすぐにぴんときた。

 電気屋の脇にも、同じ細い道がある。細かな木造の階段が、延々と続いている下り坂だ。伸びている方角を考えれば、普段通る道よりも、ずっと早く入り口付近と行き来できる。

 だが、一度そこを通ろうとして、渦緒は爺にこっぴどく叱られた。

 暗いからか、床板が腐って抜けやすいからなのか、理由ははっきりしなかったが、とにかく住民も通らない道をお前が通るなと、息継ぎ一つせずに捲し立て、渦緒を妙に感心させた。


 その忠告を無視して通ったところが、この有り様だ。

 一本道に見えた登りはどこかで微妙に分岐していたようで、後ろを振り返ったときには既に、帰り道を見失っていた。同じような分岐があちこちにあって、どこから来たのかさっぱり見当もつかなかったのだ。


「明かりが無いからだよ、まったく」


 薄ぼんやりとしか先の見えない道で、苛つくほど細かい段に足を取られて、渦緒は思わず毒づいた。とにかく、どこか明るい道に出られぬものかと、壁際に開く横道を見つける度にその奥を見透かしたが、道どころか足元さえも見えない闇だ。

 ましてや、電気屋の爺の言っていた通り、住人が使わないのならば、人影にさえ出会わない。


「進むしかないか」


 古臭い携帯電話を取り出したが、さっぱり電波が入ってこない。

 黙々と荷をしょったまま歩いたが、道が緩やかに曲がる度に、荷物が壁につっかえて仕方がない。


「あれ?」


 前を見ても暗いせいか、いつの間にか足下に視線を落としていた渦緒は、気配を感じてふと顔を上げた。

 前方の壁の際のやや下の方に、橙色の光が見える。


「おい、誰か、いるのか?」


 強めに出した声が、狭い空間でわあんと響く。

 返事は返ってこなかったが、ふらふらとしていた明かりが立ち止まった。

 渦緒はやや焦り気味に橙の光目指して進んでいく。

 近づいても、闇はなお晴れずに、明かりばかりがぼんやりとしている。


「助かった、道に迷って」


 膝に手を当て、肩で大きく息を吐くと、渦緒は光の向こうを見た。

 顎の下で髪を切り揃えた端正な顔立ちの少年が、にっこりと笑う。


「お兄さん、ここの人じゃあ、ないだろう」

「ああ」

「そうだろうね。この道は、建物の住人は誰も通らないから」


 少年は橙色の明かりを、渦緒の顔に向けて突き出してくる。


「ここを通るのは、ここの住人だけなんだ」

「は?」


 暗闇の中で、細い明かりに目が眩む。少年が手にした小さな金網のかごの中で、炎が一つ揺れていた。


「知らない人がこの道を通ると、迷って、誰も出られない」

「そうなんだよ、なあ、案内してくれないか。これじゃあ、爺にどやされる。もう、約束の時間、とっくに過ぎててさ」


 渦緒は携帯電話を取り出し、時間を確認した。もうかれこれ30分は彷徨っている。


「それ、何?」


 少年が目を細めて、渦緒の手元を覗き込んだ。


「蒼い」

「え?これ?」


 物珍しいものでも見るように、少年は渦緒の手の中の携帯電話を見つめている。


「消えた。ねえ、消えたよ」

「は?何が?」

「蒼い火。今、光ってたの、何?」


 明かりの落ちた液晶画面を指先でつついて、少年は目を丸くしている。


「開くと点くんだよ。知らないのかよ、ケータイ」

「初めて見た」


 文明が、入ってこないのだろうか、このビルは。いや、スマホの世代だからだろうか。

 渦緒は少し遠い目をして宙を見つめる。


「兄さん、あんた、誰。こんな良いもの持ってる奴、初めてだ。なあ、これ、ちょうだい」

「やれるか」

「くれたらここから出してやる」

「えぇ?」


 頭を抱えて渦緒は上目に少年を見た。道案内の代償に、いくら旧式とはいえ携帯電話は、割に合わない。が、しかし、自力で出たとしたら、一体あとどれくらいの時間がかかるのだろう。


「くれないなら、いいや」

「ま、待て。わかったよ」

「ほんと?」


 嬉々として少年が手を伸ばした時、電話が鳴った。

 爺だ。

 渦緒は慌てて通話ボタンを押す。


『渦緒、お前、どこにおる!』

「爺さん、いや、あの、ちょっと…」

『脇道に入ったじゃろう。この馬鹿たれ』


 爺の怒鳴り声に、渦緒は携帯電話をやや離す。それでも漏れ出た大声に、少年が一歩後退った。


『お前、煙草持っとるか?』

「は?煙草?」

『持っとるんならさっさと吸わんか、このボケ』


 罵倒されながら、訳もわからず渦緒は煙草を取り出して火をつけた。


『そこに座って待っておれ』


 何か怒鳴り散らしながら、一方的に通話が途絶える。

 呆然と携帯電話を見つめていた渦緒は、その僅かな光が消えた時、ようやく辺りが闇になっていることに気が付いた。


 見回しても、少年の気配は微塵もない。

 煙草の煙だけが、闇に白く渦を描く。


 一息吸い込むと、鼻先で、小さくやけに明るい光が一瞬のうちに閃いた。


「渦緒!ぼんやりしとるな」

「爺さん」


 はっと声の方を見やれば、いつの間にかすぐ先に、四角く切り取られた光が見える。

 這うように残りの段を駆け上がり、見慣れた電気屋前の廊下の光の中に膝を突いた。

 振り返ると、背後の道は、漆黒の闇のようだ。


「あれほど通るなと言っただろうが!ここは獣道じゃ、迂闊に入れば化かされる」


 頭を拳で殴られて、渦緒ようやく気が抜けて、笑った。


「何笑っとるか、化かされて、頭の螺子でも取られたか」

「あ、携帯!」


 懐を探って、指先でそれを確かめ引っ張り出す。


「何じゃ?」

「あの子、これを欲しがった」

「ああ、闇におれば、光が恋しくなるじゃろう。やつらに光るモンをやれば、あそこから出られる。さもなきゃ、煙草でも吸って時間を潰すんじゃな」

「それで…」


 咥えたままだった煙草を床で踏み消して、渦緒はまた電気屋に殴られた。


「お前、電球はどうした?」

「え?」

「…渦緒、盗られたな…」

「あっ、ない」

「ない、じゃないわ!この阿保たれ」


 再び叩かれた渦緒は、恨めし気に下りの坂を振り返った。

 四角く切り抜かれた闇の底で、ぽうっと小さく光が灯り、誰かがくすくすと笑う声が這い登る。

 丸い小さな白熱球が、小さな月のように、たった一つ闇に浮かんでいた。


                                      完


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