第六話 天狗とこぐまの二月

「おまえのことを、子どものように思っていた」


 ──牙が首筋に届く寸前に──


「残酷で、無意味だけど──我が子だと愛していたんだなぁ」


 銃声が、轟いた。


『──ガルァ!?』


 今まさに、あたしへ食らいつこうとしていた獣の巨体が、後方へと傾斜する。


「だから──これは、親の責任だ。身勝手な、責任の取り方なんだよ──

『────』


 静かな呼びかけに反応しこたえたように。

 ヒグマは、ゆっくりと顔を上げる。

 拘束が、わずかに緩む。


「リィル! 死にたくないなら、立て! 立って、這いずってでも逃げろ!」

「──うんッ!」


 彼の鼓舞こぶを力に変えて、あたしは死力を振り絞る。

 上着を脱ぎ棄てながら、ヒグマの腕の下から飛び出す。


 転がりだして、顔を跳ね上げて。

 そこに、彼の姿があった。


 硝煙を上げる猟銃を、油断なく構えながら、歩み寄ってくる彼。

 赤い仮面の偉丈夫。

 天狗さん!


 彼の放った二発目のスラッグ弾が、コディアックの肩を射抜いたから、いま自分が生きているのだと理解するのに、ずいぶん時間がかかった。


『ルルルルガアアアアアア……』


 唸り声をあげながら、コディアックヒグマが、のっそりと立ち上がる。

 だけれど、あたしは、


「リィル!」

「……ご、ごめんなさい、天狗さん。あたし……」


 こ、腰が抜けて、動けないよ……!


 絶体絶命のピンチ。

 体勢を立て直したヒグマが、こちらへとやってくる。


『ルグアアアアアアアアアアアアア!!』


 全身がすくむほどの咆哮。

 振り下ろされる前脚。


 あたしのすぐ横を、颶風ぐふうが駆け抜けた。


 ヒグマとあたしの間に滑り込んだ〝それ〟は、そのままコディアックの前脚の一撃を受けて、吹き飛ばされる。


 無様に転がる〝それ〟。

 天狗さんが、地面を転がっていく。

 大きな木に体がぶち当たり、彼は止まった。


「天狗さん……?」


 ピクリとも、動かない。

 まるで。


 


「天狗さん!」

『ガラアアアアアアアアアア!!』

「!?」


 目の前に、死が立っていた。

 死そのもの。

 赤い死神。

 コディアックヒグマ。


 見上げるほど高い体長の、バケモノ。

 モンスターは、じっとあたしを見つめ。


『ガルアアアアアアアアアアアアア!!』


 前脚を、鋭い爪を、天狗さんの息の根を止めた凶腕をいま!

 あたしへと、叩きつける!


「いやだ」


 死にたくない。

 あたしはまだ、死にたくない。

 死にたくない。

 だって。

 だってあたしは──


「もっと、天狗さんと一緒に──生きていたい……!」


 視界のすべてを覆いつくすヒグマの魔手。

 それでも、あたしは目を閉じなかった。


 だから──ぜんぶが見えていた。


 何度も聞いた。

 ヒグマの一撃を食らえば、もうどうにもならないと。

 首と胴は泣き別れ、殴られた場所はへし折れてぐしゃぐしゃになって。


 殴られたら死ぬと、何度も教わったのに──


「──なんだよ」


 ヒグマは、動きを止めていた。

 振り返って、そのひとを見ていた。

 ヒグマは困惑しているようにも──もしかしたら、嬉しがっているようにも──見えた。


「おまえさぁ──……?」


 そのひとが、言葉を紡ぐ。


 血まみれになりながら。

 傷口から出血し、ふらふらになっていながら。

 彼は──天狗さんは立ち上がる。


 カラン、と。

 仮面が割れて、足元に転がった。

 血まみれの顔。

 その口元には、いつもの笑みが刻まれていて。


『…………』

「わからないか? なら、今回だけ、教えてやるよ──これが当然だからだ。つぐないとか、みそぎとかじゃなくて──これが俺の、やるべき当たり前のことだからだ。だって、俺は、おまえの!」

『…………』


「おまえの──父親だからなあああああああああああ!!」

『──ガアアアアアアアアアア!!』


 吠えた、両者が。

 あたしのことなんて、もはや眼中になく──コディアックは地面を蹴り、四足となって天狗さんへと突進する。


 天狗さんは、ふらふらになりながら猟銃を──イズマッシュ・サイガ12を構えて。

 狂った笑みを、浮かべて。


 その双眸から、涙をとめどなくこぼしながら。

 泣きながら、笑いながら。


 つぶやいた。


「さよなら、〝熊希ユウキ〟」


 銃声が、山々に響く。


「──なんどやっても、慣れてくれないなぁ」


 かすれたそんな独白とともに。

 全てが。

 何もかもが。

 その刹那に、終わりを迎えた──


§§


 木々の間に、歌声が響いている。


「──こぐまの ぷーさん あなから 出たが お山は ふぶき まだ春 とおい──」


 大きな獣の頭を抱いた、傷だらけの彼が。

 静かな声音で、子守唄を口ずさんでいた。


「──しかたが なくて くりのみ たべて みどりの 山を ゆめみて ねたよ──」


 ヒグマの右目を、スラッグ弾が貫通していた。

 いくつもの傷跡で、安らかとは言えないヒグマの顔を、手が汚れることも構わずに、彼はいつまでも撫で続ける。


「──俺さぁ、なんでエルフを食ったんだって、言っちゃったんだ。どうして人間を、食って殺したんだって。そうしなければ、俺はおまえを守れたのにって」


 彼はつぶやく。

 穏やかな顔で。

 それが──決壊する。


……ッ!!」


 彼の仮面のような表情が。

 取り繕っていた平常心が、くしゃくしゃになって。

 慟哭になって、あふれ出す。


 生きたくて、死にたくなくて、だから食べた。

 生きるために殺して。

 生きるために食べた。


 だって、あたしたちは──EAT KILLそうしないと生きていけないんだから。


「ただ、生きていたかっただけなんだよな、おまえは。何にも変わらなかった。おまえと俺たちは、対等だった。いてはいけない〝物〟だからって、関係なんてなかった。ただ、ちょっとだけ──、そういうことだよなぁ。そうだろう、熊希……?」


 泣きながら微笑んで。

 微笑みながら苦しんで。


 天狗さんは。


「誰かを救う、希望のひとであれ。俺は、蓮歌さんはさ、おまえにそう名付けたんだ。〝K〟なんて無機質な記号じゃなくて、命に名前を! だからさぁ! ぜーんぶ、ぜぇぇぇーんぶ! 俺は無駄にしないからな? 俺は、生きいてるから! だから! ──リィル」


 そこで初めて。

 彼はあたしを見て。


 歯を見せて、笑った。



「こいつのことも、食っちまおうな」



 彼がどんな想いで、その言葉を絞り出したのか。

 あたしには、いまのあたしには理解できてしまうから。


「……うん。うんっ!」


 泣きながら、何度もうなずいて。

 あたしは、肯定し続けることしかできなくて。


「何でおまえが泣くんだよ。そんなだから、おまえはポンコツで、娘みたいで──」


 そこから先を、天狗さんは口にできなかった。


──!」


 子どもを殺した親  か れ  の慟哭が、どこまでも響く。

 あたしは。


 それが、親の姿なんだと、初めて知った。


 初めて見るものじゃないと、いまさらになって、気が付いた。


「マィム、あたしは、あなたを──……?」


 なにかが、頬に触れる。

 白く、冷たいそれ。


 すべてを覆い隠すように。


 真っ白な雪が、降り始めていた──

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