第五話 勝てる気がしない……!

『グラァアアアアアアアアアアアア!!』


 ヒグマが最初に取った行動は、その時点であたしたちの予想をはるかに超えていた。

 コディアックは後ろ足で立ち上がると──デカイ! 二百五十センチメートルを超えている!──その、強靭無比な前脚で、近くにあった木々をぎ倒し始めたんだ。


「うそでしょ!?」


 反射的に、倒れてきた木を避けながら、あたしは叫ぶ。

 だって、いまこのバケモノがしようとしていることって──!


『──さすがに賢い。まさか、そんな方法で罠を無効化する熊がいるなんて、この目で見なきゃ信じられんよな』


 罠の無効化!

 そう、ヒグマは何本も樹木を薙ぎ倒すことで地面を埋め尽くして、


 ありえない!

 こいつ、めっちゃ頭いい!


『──確かに、おまえより賢い可能性はある』

「所詮あたしはバカですよーだ!」


 軽口をたたいている場合じゃない。

 道を作り終えたコディアックは、再び四足歩行に戻って、悠々とこちらに向かってくる。


 どうする?


「どうするってそんなの……こうするって決めてたから!」


 あたしは、いきなりを使うことにした。

 背後の丸太に括り付けていたワイヤー付きロープを──足元に置いていた鉤付きロープを振り回し、コディアックへと投げつける。

 避けもせず、鉤が右前脚に絡みつくのを見ているバケモノ。


 冷静すぎる……!


「それでも!」


 もう一つ、ロープを投擲。

 今度は左前脚に絡みつける。

 ヒグマの前進が、止まった。


 いぶかしむように、あたしのことを見つめてくるコディアック。

 その瞳には、動物とは思えない理性の色があった。


 ──対等だ。


 いつかの天狗さんの言葉が、頭の中でこだまする。

 そうだ、今この場で、狩られようとしているのはあたしの方だ。狩られる側があたし、狩ろうとしているのはヒグマ!

 あたしと、このヒグマは平等ではないけれど──対等なんだ!


「うわあああああああああ!!」


 あたしは、叫びながら丸太を蹴り飛ばした。

 渾身の力で──熊へとつながる、ロープが結ばれた丸太を!


『グル──』


 斜面を転がり落ちる丸太の、その純粋な重量に引きずられ、ヒグマが反射的に踏ん張る。

 重量と力が拮抗し、その動きが一瞬──止まる。


『──殺すゥ!』


 同時に、ヒグマの額がはじけ飛んだ。

 轟音。

 天狗さんのスラッグ弾が、命中したのだ。


「や──」

『──やってない! 逃げろリィル!』

「!?」


『グルガアアアアアアアアアア!!』


 これまでにはない、攻撃的な咆哮を上げるコディアック。

 その額の肉は半ば吹き飛んでいたのに──


 生きている、

 化け物は、いまだに健在だった。


 さらなる雄たけびを上げ、ヒグマが両腕を奮う。

 ロープが、ワイヤーごと引きちぎられ、ふたたび凶獣は自由を取り戻す!

 後ろ足で立ち上がったコディアック。


 その全身で、血しぶきがはじける。


『──リィルゥゥ、逃げろォ!』


 乾いた発砲音が二回。

 散弾が二発──百を超える弾が、ヒグマへと叩き込まれる。

 だけれど。

 だけれど!


『バゴオオオオオオオオオオ!!』


 コディアックは止まらない。

 バケモノは止まらない!

 あたしへと向かって、一歩、また一歩と迫ってくる……!

 獣の瞳の中で、理性とは別のかつえが、らせんのように渦巻くのが見えた。


「こんなの、勝てるわけがない……」


 エルフを狩りつくした悪魔。

 絶対的なハンター。

 生態系の頂点。


 推定体長三百センチメートル。

 推定体重七百五十キログラム。


 バケモノの中のバケモノが。

 牙と、爪をむき出しにして肉薄し。

 あたしを──押し倒した。


「きゃああああああああああああああああああああ!!?」


 悲鳴を上げる。

 間近に、醜くえぐれたコディアックの顔がある。

 ぶしゅーぶしゅーと、獣の荒い呼気が、生臭い吐息が、顔にかかる。

 ベロリと、コディアックの巨大な舌が、あたしの顔を、眼球ごと舐めた。


「あああ、ああああああああああああああ、うわああああああああああああああ!!」


 怖い、怖い、怖い!

 押さえつけられているのに、動けば怪我をするとわかっているのに、反射的に暴れてしまう。

 肩が軋む。

 腕に爪がめり込む。


 怖い、痛い、怖い、怖い……!


『…………』

「ヒッ!?」


 見た、見てしまった。

 まっすぐに、その化け物の目を。

 肉のはじけ飛んだ顔を。

 したたり落ちるヒグマの血液が、あたしの顔を、体を汚していく。


 そして、その巨大なアギトが。

 開かれて──


「──最低だ」


 ヒグマの牙が、あたしの首元に突き立てられて──

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