最後の晩餐
第四話 思い出の味と、愛してくれた人と
夜明けと同時に、山へと入ったあたしは、罠を仕掛けていた猟場をめぐる。
一つ目ははずれ。
二つ目もはずれ。
三つ目で──たぶんあたしは、運がいい。
くくり罠の一つに、小鹿がかかっていた。
『キャーン! キャーン!』
なんだか、あたしと同じぐらいの、女の子の悲鳴みたいな鳴き声。
たぶん、この大きさなら、なんとかできる。
胸が痛いながらも、手を合わせる。
「ごめんね、できるだけ、じっとしててね?」
拾った木の棒を、大きく振り上げて。
くりくりとした、純粋なまなざしがこっちを見る。
一瞬息が詰まり、
「──ッ」
それでも、振り下ろす。
『キャーンッ!』
「ごめんなさい!」
失敗した、うまくいかなかった。
棒は頭をかすめ、首を叩いた。
あたしの躊躇いが、命を長く苦しませてしまうんだ。
もう一度。
もう一度。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
呪文のように繰り返しながら、もう一度棒を振り上げて、振り下ろす。
『キュ──』
小鹿は、今度こそ動かなくなった。
脳震盪だ。
でも、きっとすぐに立ち上がる。
あたしは、腰のナイフを引き抜いて──迷って、躊躇って、大きく揺れて、それが一番いけないことなんだって心から思って──シカの、左胸を貫いた。
重たくて、生々しい感触。
どくどくと伝わる、シカの命。消えゆく命。
もう、小鹿は起き上がらない。
……これ、すっごくつらいね、天狗さん? こんなこと、ずっとやってきたんだね、天狗さんは。
あたしはこぼれそうになった涙を、慌てて袖で拭った。
泣いている場合じゃない。
小鹿の周りにあるほかのくくり罠を取り外し、容器に密閉して、土の中に深く埋める。
それから、新しく持ってきた罠を──
天狗さんも、レンヤも触れていない、半年以上土の中に埋められていた大型のくくり罠を、汗だくになりながら設置する。
穴を掘って、罠の基部──横長のパーツを埋めて、地面にしっかり固定。
それから、感圧版の周りにばね式のワイヤーを巻いて。
上に軽く土や、枯れ葉を載せてカモフラージュする。
これを何個か、小鹿を中心にして繰り返す。
この罠には、あたしの臭いしかついていない。
そしてこの場には、あたしと小鹿しかいない。
それはつまり。
──コディアックヒグマにとっては、餌が無防備で転がっているということなんだ。
あたしは、数日前に天狗さんと交わした言葉を、思い出していた。
§§
「あたしが、コディアックの囮に──ヒグマを誘い出すエサになる!」
「ふざけるなっ!」
「ひっ」
ほとんどノータイムで、天狗さんの怒声が響き渡ることになった。
彼は怒っていたんだ。
その
顔の傷が、怒りで浮き出すほどに。
「許せるかよ。そんなことを、俺が認めるわけが……!」
さっきまでの穏便な雰囲気なんてない。
そこにあったのは剥き出しの、本気の怒りだった。
「天狗さん」
彼が、あたしを案じてくれていることは分かったけれど。
それだけじゃないことも、すぐに理解できるぐらいには、あたしは成長していた。
天狗さんは危険だからって、あたしにダメだって言ってるんじゃない。
彼は──
「…………ああ! なんでわかっちまうんだ、俺は……!」
天狗さんは、あたしの意図を察して、身をぶるぶると震わせると、吐き捨てるように叫ぶ。
認めたくなかっただろうことを、口にする。
「そうだ、違うよなぁ……撤回する、しなきゃいけないよな、リィル。俺には、許せないなんて言う資格はない。そんなこと言ったら、罰が当たるもんなぁ……?」
あのヒグマが、これ以上人を食べないようにしたいだけなんだと、彼は言う。
そして、それにはこの方法しかないって、天狗さんもわかっている。
「……そうね、伊原くん。これは、理にかなった方法だわ」
「俺の臭いを、コディアックは警戒する。だが、長年餌と認識しているエルフ──リィルなら、むしろ近寄ってくるだろう。ヒグマは執念深い。一度奪われた獲物を、奪われたままにはしない」
ちょっとだけ、勇気が必要だった。
ほんのすこし、あたしは躊躇した。
でも、はっきりさせなきゃいけないから。
命の恩人に、あたしは問いかける。
「ねぇ、天狗さん」
「なんだ、リィル」
「天狗さんが、あの時」
ヒグマに襲われていたあたしを助けてくれたのって。
「こういうときに、利用したかったからだよね?」
「…………」
彼は。
あたしの大切な恩人は。
いつものように笑顔を見せて、うなずいた。
「そうだ。おまえを切り札にしようと、考えていた。〝やつ〟を、殺すために。洞窟であの時、言ったとおりだ」
「うん。やっといつもの天狗さんだぁ。あたし、安心しちゃった」
だから、覚悟も決まった。
「レンヤ、天狗さん、あたし、きちんとケジメをつけたいんだよ!」
§§
そうして買って出たのが、罠の敷設と、ヒグマをおびき寄せる囮になることだった。
くくり罠を仕込み終えたあたしは、とっておきの一つを用意して。
死んだばかりのシカの横に、腰を下ろす。
「ごめんね……食べてあげられなくて」
『──これが終われば、すぐに解体するさ。その時、手を合わせていただきますって言えばいいんだ』
耳元で、天狗さんの声が聞こえた。
彼がすぐ近くにいるわけじゃない。
胸に付けた通信機と、耳に付けた〝いやふぉんまいく〟という機械のおかげで、そう聞こえるだけ。
「天狗さん……あたしが、見えてる?」
『──ああ、ちゃーんと見守ってるよ』
離れた位置で、彼は落ち葉をかぶって姿を隠している。
臭いを消すため、全身に動物のフンとか泥を塗りたくっていて、酷い見た目でだ。
あたしがコディアックをおびき寄せる囮になる。
そして天狗さんが、コディアックを猟銃で狙い撃つ。
これが、議論を重ねた末にあたしたちが導き出した、モンスターを狩るための布陣だった。
『──リィル、長丁場になるかもしれない。いまのうちに、飯を食っとけ』
「うん、天狗さんが作ってくれた携帯食、いただきます!」
腰のポーチから取り出した包みを開ける。
中身は──
「これ、なに?」
『──おにぎりだ』
「おにぎり……」
コメという穀物を、炊いてから塩をつけて握ったものだと、天狗さんは説明してくれた。
綺麗な三角形。
ましっろなおにぎり。
あたしは、パクリと口をつける。
今日の献立。
天狗さんのおにぎり。
噛むたびに、程よい塩味と、おコメの甘みが口の中に広がる。
これ以上なくシンプルで、冷めているのに、どうしてか美味しい。
『──俺の、家族がさ』
うん。
『──蓮歌さんも、娘の優歌も、とびっきり不器用で。得意料理なんて、なかったんだ。だけれどな、あるとき、できもしないお弁当を作ってくれたんだよ……俺のために』
うん。
『──おかずなんて何にも入ってなくてさ。ただ、不格好なおにぎりが二つ、弁当箱に入ってるんだ。かじってみたら塩が辛すぎて、中に具も入ってなくて、全然美味しくなくてさ』
うん。
『──でも、すっごく美味かったんだよなぁ、あのおにぎりっ』
「……うん。そうだね、美味しいよ、このおにぎりもっ」
震えていた。
いつの間にか、あたしたちの声は、耐えきれなくなったように震えていた。
誰がいけなかったのか。
何がいけなかったのか。
あたしには、少しもわからない。
でも、たった一つ、事実がある。
あたしにバターケーキを焼いてくれたマィムも。
天狗さんにおにぎりを握ってくれた、彼の愛した人たちも。
もうこの世にはいなくて──
「……それを殺したのが、おまえってことだ、
『グルアアアアアァアアアアアアア!!』
猛獣が吠える。
山が鳴動する。
化け物が叫ぶ。
いた。
いつの間にか、そこに。
あたしとシカの死体を目指して。
藪の中から、コディアックヒグマが。
恐怖をまき散らしながら、死の化身が、姿を現したんだ──
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