第五話 昔はやんちゃなエルフでした


 世話係のエルフ。

 お団子髪のマィム。

 あたしと同じ、髪と瞳の色の世話係。


 彼女はとても手先が器用で、いろんなことを知っていた。

 あたしの身の回りのことは、ぜんぶ彼女がしてくれたし、夜眠れないときは、いろんな御伽噺をうたってくれた。


 たくさん、わがままを言った覚えがある──わがままだったと、気がついたのは最近だけれど。


 村で不猟が続いたときに、バターケーキが食べたいとせがんだら、困った顔でマィムが融通してくれた。

 発酵させたバターに、たっぷりのはちみつを生地に練り込んだ、あまーいバターケーキは、マィムの得意料理だった。


「いいですか、リィルさま。あなたは誰よりもわがままでいていいのです。それだけの責任は、すでに果たしているのですから、良いのです」


 ……彼女の言葉の意味が理解できるようになったのも、やっぱり最近だった。


 生け贄がなんなのかを、天狗さんと暮らすようになって、あたしは知った。

 ときどきあたしの様子を覗きに来た村長が。

 あたしが健やかでいると、気分がよさそうだった理由も、今ならわかる。


 村の人たちが、頼んでもいないのにわがままに付き合ってくれたのも。

 同じぐらいの年頃のエルフたちと、あんまり遊ばせてもらえなかったのも。


 それはぜんぶ、あたしが生け贄だと決まっていたからだ。


 死ぬことが決まっていたから、好き勝手にさせてやろうと。

 ストレスを感じず、美味しい生け贄になるために育てようと。

 たぶん、そういう儀式だったんだ、あれは。


「だって、リィルさまは特別ですから。特別な方は、他の者を見下すのが当然ですよ。遊びなら、わたしがぜんぶお相手いたしますから」


 マィムはそんな風にいつも言っていた。

 うーん、上手いこと丸め込まれていたんだなぁ……。

 だって傲慢だったことさせ、自覚させてもらえなかったんだもん。


 うん、わかるよ。

 そんな風にあたしが育てば、誰も、ちっとも心が痛まなくって済むもんね?


 ……これって、ずいぶん用意周到だったんじゃないかな?

 あたしは物心が付いたときには、もうあんな生活をしていたけれど──たぶん、


 きっとあたし以前にも、生け贄になったエルフは……神様のお嫁さんになったエルフは、居たんだと思う。

 その経験を踏まえて、あたしは甘やかされていたんだ。


 コディアックヒグマ。

 こっちに来たばかりの時、あたしはあれを神さまだと思った。

 でも、そうじゃないのかもしれない。


 こういう異世界に投げ出されること。

 それ自体が、生け贄の儀式だったのかもしれない。


 わからない。

 もう、真偽を調べる方法もない。

 ただ、思い出すのは。

 いつかの、マィムのこと。


 冬のある日。

 あたしが雨の中に飛び出して、遊んで回って風邪をひいて苦しんでいたとき。

 彼女は一晩中、付き添ってくれた。

 あたしの勝手なふるまいを止められなくて、たぶんそれで、村長の怒りを買ったのだろう。

 頬にはを作っていた。

 それでも優しい笑顔で、


「リィルさま。マィムがおそばにいますから。きっと善くなりますから」


 彼女は、あたしの額を、濡れた手ぬぐいで冷やしてくれた。

 何度も何度も手ぬぐいを絞った彼女の手は、あかぎれが酷くて。

 でも、頬に触れたその手は。

 ひどく冷たく。

 優しかったから──



 だから──きっと、これは悪夢に違いないのだ。



『グルルルル……』


 洞窟に反響する重低音。

 なまぬるい吐息。

 ああ、いつから夢と現実が逆転していたのだろう。

 いつから優しいマィムの手が──


「ヒッ──」


 上げそうになった悲鳴を、すんでのところで噛み殺す。

 だめだ、いま叫んだら──殺される!

 目の前には、暗闇でなお爛々と輝く獣の両眼。


 焚き火は、いつの間にか消えていて。

 そこに、赤い巨獣がそびえている。


『ルグググ』


 低く唸りながら、何度も何度も、ヒグマはあたしの体臭を嗅ぐ。

 ときおり生臭い吐息が、顔に吹き付けられて呻き声を上げそうになる。

 だけれど、あまりの恐怖に、あたしは身じろぎひとつできない。


 やがて、なにかに納得したのか。

 ヒグマは顔を上げると──


「……うそでしょ?」


 最低だ。

 これ以上ないぐらい、最低だ……!

 ヒグマは、あたしがくるまっている毛皮を咥えあげ──毛皮ごと、洞窟の奥へと引きずり始めたんだ!


 ヤバイ……やばいやばいやばい!

 これは確実にやばい……!


 だって、わかる。

 さっきまでわからなかった、生理的に受け付けない臭いの正体が。

 

 ヒグマからしているこの臭いは──動物の、死肉と臓物と、血の臭いだったんだ。


「キャッ!?」


 どさりと、投げ出される。

 指先が、なにかぬめるものに触れた。

 ほとんど真っ暗闇のなかで、それでもその輪郭は、不思議フコウなことに理解できた。


 ああ、だって。

 こんなの、わかっちゃうよ。

 あたしはそれと、


『グルアアアアアアアアアアアアアアア!!』


 ヒグマが。

 赤い山脈が。

 コディアックが咆哮とともに、血まみれの前脚を振り上げる!


 あたしは。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ──!」


 絶叫しながら、毛皮を脱ぎ捨て、全力で横へと転がった。

 ひどく粘着質な液体が、生臭い汁が、顔や素肌に飛び散りまとわりつくけれど、考えない。


 一瞬前まであたしの体があった場所に、たたきつけられるヒグマの剛腕。

 〝なにか〟が音を立てて引きちぎられ、腐った肉がはじけ、あたしの顔に降り注ぐ。


 考えるな……ッ!

 いま考えちゃだめだ!


「クソ化け物が!!」


 頭がおかしくなりそうなまま、裸の腰にひっかけていた鞘から、シースナイフを抜き放つ。

 握り方は覚えている。

 上から掴むようにして、小指から握り込んで、親指をサムホールに通す!


 ナイフを腹に抱えて、身体ごと当たりに行く……!

 ヒグマは避けない。

 ナイフが、その毛皮へと突き立てられて──


「嘘だと言ってよ神さま!!」


 刺さらなかった。

 ナイフは、少しも刺さらなかった。

 誰かが言っていた通り、人間の力じゃ、毛皮すら貫通できなかった。

 そして、ヒグマは。


『ガアアアアアアアアアアアアア!!!!』


 あたしを押し倒し、がっしりと左の前脚であたしの肩を押さえつける。

 もう、逃がさないと言わんばかりに。

 とっくに学習したと言わんばかりに。


「痛ッ!」


 突き立てられる爪。

 怒ったように。

 憤怒に終えるように、全身を倍ほどにも膨らませて。

 モンスターは、右の前脚を振り上げて──。


「────」


 死んだ。

 死ぬんだ。


「──さん」


 ヒグマに頭を殴られれば、首と胴体が別れて死ぬ。

 だって、そう教わったもん。

 誰に?


「てんぐさん」


 あたしの大切な。

 大切な──


「いやだぁ、まだ死にたくないよ、天狗さん!」

!」


 瞬間、暗闇のすべてを吹き飛ばすような閃光と、耳をつんざく爆音が響いて。


 世界がぜんぶ、真っ白な静寂に包まれた。

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