第六話 コディアックへの慟哭
頭がくらくらするような静寂。
耳が痛くなるような沈黙。
──違う、実際に、耳が音を拾わない。
キィィィン──
耳鳴りが酷い。
視界は真っ白に染まったまま、そのなかで二つの影が絡み合っている。
巨大な四つ足の化け物と。
長い鼻を持つ、二足歩行の──
ふいに、聴覚が戻った。
断片的に、なにかが聞こえてくる。
唸り声、怒号。
そして──
「コディアック──おまえに、おまえにだけは──食らわせないッ!! 娘を二度とは……!!」
雄たけびとともに、もう一度。
激しい光が、洞窟の中を満たした。
ああ、この光、見たことがある。
メタルマッチ。
マグネシウムの、光だ──
強烈な光が去って、次に目が見えるようになったとき。
あたしが初めに捉えたのは、大きな背中だった。
立ち尽くす、見慣れた背中。
あたしはそっと、彼の名前を呼ぶ。
「天狗、さん……?」
彼は。
そのひとは。
「──よぉ」
ゆっくりと振り返り、軽く手を挙げて、微笑んだ。
ああ、あの笑顔だ。
どっと疲れて、膝から崩れ落ちる。
「あ、あれ? 怖かったからかな……腰が抜けちゃって」
立ち上がろうと、地面に手をついて。
それが、ぬちゃりと滑る。
「うぐ!」
強烈な嘔吐感。
今更になった鼻腔を突き刺す腐臭。
臭いを遠ざけるために、口元を手で覆うつもりが──その臭いと、直面するはめに陥る。
あたしの手は、黒ずんだ血にまみれていたんだ。
「あ、ああ、あああ」
眩暈がする、動悸がする。
初めてタヌキが捌かれるのを見たときのような、恐怖。
目の前に死がある。
誰の?
かすむ視界で。
あたしは──見た。
それは、たくさんだった。
たくさんの手。
たくさんの足。
たくさんの、頭。
そして、見慣れた色をしたお団子髪。
村の人々と、村長と──マィム・イートキルが、腹を貪られ死んでいた。
「あ、あああ、あ──」
反転しそうな眼球。
口の端から垂れ落ちるよだれ。
なにかを。
なにか致命的な部分が狂いそうになった瞬間、あたしの体が、強く抱きしめられた。
「これは俺だ!」
彼が、天狗さんが。
血を吐くような声で、叫んでいた。
「全部、俺が始めたことだ……! 俺の罪だ!」
すっと、頭の奇妙に冷めた部分が理解する。
コディアックが、動物を食べなかったわけを。
だって、ほかにいたんだもん。
狩りやすくて、弱くて、美味しい生きものが。
そう、あのモンスターは。
あたしの村のエルフを、主食にしていたんだ。
「……おまえがお姫様扱いを受けるようになったのが、産まれてすぐだとして。〝やつ〟が研究所を抜け出したのが、七年前。たぶん、時間にずれがあったんだ。こっちとあっちの世界は、同じ時間軸になかったんだ。どこかで遡って、〝やつ〟はこの洞窟を通り、エルフを襲うようになって」
そして、それを鎮めるために、生け贄が選ばれるようになった。
わかってしまえば簡単なことで。
だから、心がへし折れそうだった。
だってこれって、あたしが食べられなかったからだよね?
あたしが死にたくないって願ったから、だからヒグマは、村を──
「違う!」
「でも、天狗さんっ」
「利用したのは俺だ、俺がおまえを利用したんだ」
それって、どういうこと?
抱きしめられたまま、あたしは彼の言葉を聞く。
誠実で、卑劣な言葉を。
「七年だ。七年待った。〝やつ〟を弱らせるために、餌を制限して七年。それでも〝やつ〟を殺す決定打は得られなかった。そんなとき、おまえを見つけた。利用できると思った。エサの臭いを持つ人間なら、〝やつ〟の不意を打てると。だから……!」
ぜんぶ、自分のせいだと、彼は言う。
この洞窟で襲われたのも、ヒグマが臭いを覚えていたからだと。
さっさとレンヤのところに逃がせばよかったと。
……うん。
でも、でもさ、天狗さん。
「いいよ」
「…………」
「本当のこと、あたしになら、言っていいんだよ?」
「…………」
「だってあたしは、こっちの人間じゃないんだから」
「────」
彼は。
天狗さんは。
伊原優士郎は。
「なんで──なんで俺を食わなかったんだ、ユウキぃぃ!!」
心が引き裂かれるような。
悲しくて、痛ましい絶叫を上げた。
「おまえのそばには、ずっと俺がいただろう!? なんの、なんのために俺が、おまえのそばにいたんだよ! なんで、寄り添って、餌を奪って、こんなにも憎まれるようなことをしたのに──どうして俺を、食ってくれなかったんだ!?」
たぶんそれが、彼の偽らざる、本心だったのだと思う。
あとは堰を切ったように、天狗さんの告白は続いた。
あたしを抱きしめて。
強く、折れるぐらい抱きしめて。
いつまでも。
「なんでエルフなんざ食った! 人間さえ殺さなけりゃ、生きるために人間の敵にならないのなら──俺はおまえを、殺さずにいられたのに! おまえだけが、俺を殺して生きてくれる家族だったのに! うわああぁああああああああぁぁあああああああああああぁああ!!!!!!」
長く、遠く。
ひとりの男の慟哭が、洞窟の中に残響する。
無数の死者と。
人食いになったモンスターを、見送って。
§§
「うわぁ……」
洞窟を出ると、空からかすかな光が降ってきた。
雨が上がり、雲間から光の階段が下りてきているんだ。
あたしはその光の中に出て。
天狗さんは、洞窟の中で、ぴたりと足を止めた。
振り返ると、彼は仮面をかぶっていた。
天狗の仮面。
超人であろうとする、彼の証し。
天狗さんが、朗らかな声で言う。
「俺、殺すことにしたよ」
彼は言うんだ。
家族同然だった熊を。
これまで七年間、大きな国から守り続けてきた命を。
自分の手で、殺すんだって。
「これは、エゴだ。俺がそうしたいから、そうするだけ。綺麗事も大義名分もない傲岸なエゴイズム。だから、リィル、おまえはさ」
「あたしも、やる」
「…………」
「だって、天狗さんが言ったんだもん」
生きたければ食え。
生きたければ殺せ。
生きるためには──
「イキルしかない、でしょ?」
「EAT KILLだよ。本当、このエルフは」
ポンコツだなぁと、彼は肩を揺らした。
笑っているようで。
でもあたしには、泣いているように見えた。
「いいさ、そこまで言うなら付き合ってもらう。おまえも、いい具合に臭いエルフになったしな」
彼が、洞窟から出る。
あたしは、彼に歩み寄る。
お互いに肩を並べて。
歩き出す。
「「殺す」」
多分初めて、あたしたちの言葉が、重なった。
「──こぐまのぷーさん あなからでたが──」
彼は子守歌を口ずさむ。
囁くように、祈るように。なにかを、願うように。
冬が、間近に迫っていた──
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