第二話 愛は負けない!

「どうしても、山に戻るのね?」


 病院を抜け出したところに、彼がいた。

 レンヤ。

 筋骨隆々で、天狗さんよりもはるかにガタイのいい、坊主の男。

 達磨。

 彼は、あくまで女性的な口調で、穏やかに、あたしたちの前に立ちはだかる。


「蓮弥さん」


 天狗さんが、まだ枯れたままの声で、説得を試みる。


「〝やつ〟は……コディアックはいま、飢えている。これ以上なく餓えて、弱っているが、その分凶暴だ。なにより目を離せば──俺の存在を感じなくなれば、きっと山を降りるはずなんだ。そうなれば、政府の封鎖線なんて機能するもんか。〝やつ〟は人間に目撃され、瞬く間にその情報が拡散される。それで困るのは、お偉いさんだろ?」

「…………」

「なにより〝やつ〟は、人を食う。人の弱さを、その味を知ってしまっているから。いま山を下りたら、確実に」


 だから、そうなる前に戻らなくちゃいけないと、天狗さんは言った。


「……話は分かったわ」


 レンヤが目を閉じ、うなずく。

 なにかを咀嚼するように数秒考えて。

 それでも──と、レンヤは続けた。


「それでも、弱っているあなたを、このまま送り出すことはできないわ」

「蓮弥さん!」

「コディアックヒグマ、〝K〟、被検体一号──〝〟。あの子が空腹ということは──そして伊原くんが弱っているということは──悲しいけれど、抑止力として機能しない可能性があるということよ。確かに〝K〟は弱体化している。けれど、完璧ではないはずよ」

「それは! それ、は……」

「あの事件以来、あなたは自分を〝天狗〟と称するようになったわ。天の走狗、政府の犬、運命の猟犬──でもね、伊原くん。あなたがどんなに人外の仮面を被ったって──あなたは、超人になんてなれないの! ならなくていいのよ、そんなものには!」

「蓮弥さん……俺は」

「それに、なによりというのならね、伊原くん。私は──何より二度と、家族が熊に食べられるのなんて、見たくないのよ。その死に目に、居合わせられないのもね!」

「……!」


 悲壮なレンヤの言葉に、天狗さんの表情がゆがむ。

 彼の身体が、わずかに揺らぐ。


「あの、あのね、天狗さん」


 あたしは、二人の会話に割って入りながら。

 迷いながら、訊ねる。


「どうしても、山に帰らないと、だめなの?」

「あ?」

「だって、ここには──〝町〟には、こんなに物があふれてるんだよ!?」


 あたしは知った。

 昨日、三人で食べた、あったかいコンビニ弁当の味を。

 あのしょっぱすぎて美味しくない、だけどいくらでも数がある食事を。


「それだけじゃないよ。病気になってもすぐに治療してもらえる。部屋のなかは暖かいし、水だっていちいち汲みにいかなくていい! ここ、すっごく快適だよ? 空気は悪いけど、それだけだよ。なのに」


 なのに、天狗さんは。


「本当に、山に戻りたいの……?」

「ああ、そうだ。俺が戻らなきゃ、終わらない」


 即答だった。

 何の躊躇もなかった。

 疲労の色濃い顔の中で、彼の両目だけが、意志の光で煌々と燃えていたんだ。


 答えを聞いて、ため息をついたのはレンヤだった。

 レンヤは小さく何度も首を振って。

 困ったように、仕方がない年下の弟でもみるような顔で、天狗さんに提案する。


「なら、私と相撲を取りましょう?」

「スモウ?」


 あたしが首をかしげると「簡単に言うと力比べね。組み合ってから、相手を投げ飛ばした方が勝ちってことで」それだけを告げると、レンヤはゆっくりと構えた。


 腰を落とし、なにかを抱えるように両手を突き出す。

 あのヒグマには及ばない。けれどその巨体は、一つの岩山のようだった。


「敵わないなぁ──なんて、言えないよなぁー」


 苦笑した天狗さんが、あたしの横を離れる。


「天狗さん!」

「……おまえが証人だ、一つも見逃すなよな」


 ずかずかと無遠慮に──まだ回復していない身体でレンヤに歩み寄る彼は。


「こんなんでいいんだ? 本当に満足するの、蓮弥さん?」

「リィルちゃんより弱っていそうな伊原くんじゃ、私には勝てないわ」

「あー、ファッション筋肉だけは、俺、前から好きじゃなかったんだよねっ!」

「はっけよーい……のこったッ!」


 むんずと、どちらともなく、組み合った。

 お互いの手が伸びて、腰を掴む。


「この!」


 ぐっと天狗さんが押し込むけれど、レンヤは微動だにしない。

 まるで巌のように、不動で、そこにそびえたっている。

 達磨。

 押しても、引いても、またもとの場所に戻る。


「伊原くん、そんなんじゃ、ムシャムシャされちゃうわよ?」

「食べるのは、俺の専売特許なんだけどなぁ!」


 満身の力をこめ、さらに天狗さんが押し込む。

 ギリギリと音が聞こえてきそうなぐらい、彼の手はレンヤを掴んでいて、指先は真っ白。


「ねぇ、伊原くん」

「ごちゃごちゃと……なにかな、蓮弥さん」

!」

「──!」


 ぐわりと、レンヤが巨大化したような錯覚に陥る。

 総身が、筋肉が、鋼の鎧が、倍ほどにも隆起する!


「ふんぬぅ!」

「お、おおおおおお!?」


 決して細身ではない天狗さんの体が、あっけないほど簡単に押し切られていく。

 彼は編み上げブーツの底で、必死に地面を掴もうとするものの、ズルズルと押されていくスピードに変化はない。

 このままじゃ、天狗さんは……!


「どうした」


 レンヤが。


「どうした妹が愛した男?」


 達磨が。


「そんなものが──蓮歌たちへの! 妻と子どもへの! 愛の証明か──伊原優士郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 彼は、真剣な表情で怒号を発する!

 それを受けて、天狗さんは──


「……その名前を出されて。頑張らないわけには。行かないんだよ、なぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 限界を超えるように、雄たけびを返した。

 両手に血管が浮き立ち、全身が紅潮し、筋肉が波打つ。


「ばああああああああああああああああ!!」


 再度、獣染みた絶叫とともに。

 巌が、動く。


「お、おお……?」

「おぉおおおおおおおおお──ッ!」

「これ、マジなの?」


 あたしは、思わず目を疑った。

 だって。

 だって天狗さんは、レンヤの巨体を、持ち上げて!


「俺は……二人を愛している! 蓮歌! 優歌! 俺はいまでも! 伊原優士郎はいまでも! おまえたちに、ぞっこんだああああああああああああ!!!!」

「おわぁ!?」


 宙を舞う、達磨の巨体。

 やった。


「やったー!」


 投げた、投げ飛ばした!

 とうとう天狗さんが、レンヤを上回った!


「天狗さん! やったね……!」


 最近これしか言ってないなと思いつつ、走りよると、彼は歯を見せて笑い。


「おまえ、俺を町に残らせたいのか、山に戻らせたいのか、どっちだよ?」


 と、痛いところをついてくる。

 いや、うん、その、ね?

 ……よかった。いつもの天狗さんだ……!


「あいたたた……」

「レンヤも大丈夫?」


 地面にをつき、打ち付けたところをさすっている筋肉達磨。

 そんなレンヤに、天狗さんは手を差し伸べる。


「これで、俺は山に戻ってもいいよね、蓮弥さん?」

「……ここまで見せつけられちゃ、ダメなんて言えないわ」

「じゃあ」

「ええ、行ってきなさい! 手配は、私に任せて。思いっきり、親の務めを果たしてらっしゃい!」


 断言したレンヤが、パシリと天狗さんの手を取る。

 彼が引っ張り、彼が立ち上がる。

 二人は固く握手をして。

 どちらともなく、破顔した。


「……なんか、男のユージョーみたいなことしてる……」


 ジトォーとした目で見つめていると、彼らは声を出して笑った。

 つられてあたしも、笑ってしまう。


 かくして、あたしと天狗さんは、山へと戻ることになった。



 そこが──地獄になっていることなんて、知る由もなく。

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