第五話 目を逸らさないで、後方に向かって前進!

「むぐっ!?」


 悲鳴を上げそうになった瞬間、大きな手が、あたしの口を覆った。

 天狗さんの手だった。

 手袋から独特の獣臭さが染み出していて、気持ちが悪くなりそうだったけれど、それどころではない。


「しぃー」


 仮面の口元に人差し指を寄せて。

 天狗さんが、静かにするよう告げる。

 パニックがヤバかったけれど、その落ち着き払った態度が、あたしの精神にわずかな猶予をくれた。


 あたしは見る。

 あの化け物を、ヒグマを。


 体長は、二メートル五十センチを優に超えている。

 体重は……あたし何人分なのか考えたくもない。


 それが、一匹の女鹿を前にして、ぐるぐると唸り声をあげているのだ。

 シカの足には、細長い金属質のひものようなものが巻き付いていて、シカは必死に逃げようとするのだけれど、逃げられないでいた。


「あのワイヤーがくくり罠だ。こっちがしかけといた罠にかかった獲物を〝やつ〟が──コディアックが横取りしようとしてるわけだな」


 耳元でささやかれる声は冷静そのものだったけれど、天狗さんの手は、ぶるぶると震えている。

 当然だ。

 あたしたちの目の前にいるのは、とんでもない化け物なんだ。


 この数日の間に、あたしは何度か庵を抜け出そうとした。

 そのたびに天狗さんに捕まえられて、ヒグマという生物の恐ろしさを、教えこまされた。


「あの瀑布ばくふのように力強い腕を見たか。丸太で頭をフルスイングされても、人間は死ぬ程度で済む。だが、ヒグマに殴られたなら、首が飛ぶ。ヒグマの手のひらは大人の人間の顔よりでかい。吹き飛ばされるのさ、めちゃくちゃに」


 それは、純粋な腕力の話。

 鎧を着こめば大丈夫でしょうというあたしに、天狗さんは首を振って見せた。


「ヒグマの爪は、ドラム缶にすら穴をあける。腕に噛みつかれれば、一瞬で骨を砕かれ、腕をちぎられる咬合力こうごうりょくだ。そんな生物兵器が、森の中を車並みの速度で走ってくる。衝突されるだけで、こっちは死ぬ」


 でも、ナイフを心臓に突き立てれば、止まるんでしょ?


「奴らの毛皮を、タヌキなんかのそれと同じにするな。泥と脂肪をまとって鎧と化した毛皮。その下のさらに分厚い皮下脂肪。鉄板を捻じ曲げる、強靭無比な筋肉。おまけに頑健な骨格。そのすべてが防御力だ。人間の力じゃ、ナイフを突き刺すことすらできない。銃弾ですら──おまえは銃弾を知らないだろうが、その殺傷力の塊ですら、跳ね返すことがある」


 そんなの、勝てっこないじゃない。


「そうだ、勝てない。万全の〝やつ〟はバケモノだ。命を貪り、存在し続ける災厄の具現化だ。だから、だから俺は──」


 記憶の中の天狗さんが、強くこぶしを握りしめる。

 同時に、現実の彼が、冷静な声音で告げる。


「リィル、〝やつ〟から絶対に目をそらすな。ゆっくり、後ろに下がれ。聞こえてるか? 落ち着いて、だ。慌てて動くな。急に動けば──〝やつ〟はおまえを、噛み殺しに来るぞ?」

「────!」


 うんうんと強くうなずくあたし。

 天狗さんはそれでも信用していないのか、言葉をつづける。


「クマの嗅覚は、犬の数倍優れている。たぶん、おまえが近づいてきているのはわかって、それでも見逃していたんだ。鹿?」


 今度は激しく、首を横に振る。

 でも、だったら疑問が残る。

 どうして、さっきまで襲われなかったのか。今も、あたしよりシカを食べようとしているのか。

 その答えは、すぐに明らかになった。


「下がれ」


 言われるがまま、あたしはゆっくり後退する。

 それに相反するように、天狗さんは前に進む。


「こぐまのぷーさん、あなからでたが、おやまはふぶき、まだはるとおい……よう、久しぶりだな、コディアック」

『…………』

「はは、、だから賢いおまえは動かない。ついでに腹が減ってるな? だから最小限の体力で済むよう、女鹿が弱るのを待っていた。賢い、やっぱりおまえは賢いなぁ、……でもな、コディアック。その女鹿、おまえに食わせてやるわけには、いかないんだよ」


 怖気の走るような狂気を、言葉の端々に滲ませながら。

 彼はベルトに取り付けられた小箱パウダーキャリアーから、紐を丸めたようなものを、いくつか取り出した。


 それは、あの日あたしを救ってくれた回転する火花。

 特製のねずみ花火だった。

 そうか、ねずみ花火の臭いがしていたから、ヒグマはあたしたちに襲い掛かってこなかったんだ!


 あたしが理解するのと同時に、天狗さんはねずみ花火に点火すると、躊躇なくヒグマへと投げつけた。

 十を超えるねずみ花火が地面に落ちると同時に、一斉に火花を吹き出し、回転を始める。


『グルル……』


 ゆっくりと後ずさるヒグマと、ひどい恐慌をきたしている女鹿。

 動物は火に弱い。

 根本的に火を恐れる。

 あたしも、そのぐらいのことは知っていた。


 パンパンパンパン!


 弾けて大きな音を出すねずみ花火。

 ヒグマはそれに反応しなかったが──シカが暴れ狂う。

 その狂乱に、ヒグマがわずかに気取られた。


 隙をついて、天狗さんが地を蹴る。

 その手の中には、あのハサミのような器具──ワイヤーカッターが握られていて。


「ばああああああああああああああ!!」


 鼓膜がびりびりと震えるような、天狗さんの咆哮に、シカの動きが一瞬止まる。

 跳ね回っていたワイヤーが、まっすぐに伸びきって──


「逃げろォ、女鹿ァ!」


 ブツンと、天狗さんの手によって、くくり罠のワイヤーが切断された。

 自由を取り戻した女鹿は、次の瞬間その場から逃げ出す。

 天狗さんは。


「──よう」


 、もはや火など恐れる様子もないヒグマに。

 軽く手をあげ、あいさつをしていた。


「おまえさぁ、相変わらず賢いな? 森の中で火を使うなんて、蓮弥れんやさんにばれたらメチャクチャに怒られるだろうけど、。なに? 怪我しないことを、理解したわけか?」

『────』

「でも、俺はどーしても。どうしても、どーしても、どおおおしても──おまえを、殺さなきゃいけないんだ。わかるか?」

『────』

「だから……」


 彼がその手で持ち上げたのは、紐が飛び出た箱だった。

 彼の手よりも大きな箱。

 天狗さんは、紐に──導火線に火をつけて。


「次に出逢ったら、絶対に殺してやるよ」


 狂気的な笑顔とともに。

 柔らかく、花束でも投げつけるように。

 彼は箱を、ヒグマの顔へと放り投げた。


 刹那──


 耳をつんざくような破裂音が、光が、煙が、火薬のにおいが──!

 ヒグマの顔の前で、何百回も爆発する!


『バゴオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォ!!!!』


 恐ろしい絶叫を上げるヒグマ。

 もうもうと立ち込める煙に、何が何だかわからないあたしの手を、誰かがつかんだ。

 誰!?


「逃げるぞ、お姫様。おまえをまだ、あいつに食わせるわけにはいかない」


 それは、普段通りの天狗さんの声。

 恐怖が霧散する、心が安心に震える。

 あたしは、彼に手を牽かれるまま、その場から逃げ出した。


『ルガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』


 ヒグマの咆哮だけが、いつまでも森の中に響いていた。


§§


「〝やつ〟は、この森にいちゃいけないだ。この国にいちゃダメなやつだ。俺がこの森に棲んでいるのは、〝やつ〟を確実に殺すため。それだけが、あの庵にこもる理由だ」


 十分に距離を稼ぎ、山道を下りながら、天狗さんはそう語った。


「……九州に、本来ヒグマはいない。そして〝やつ〟は、北海道のヒグマにしても規格外の体と凶暴性と知性を有する。〝やつ〟は血肉の味を知っている。ねずみ花火の光にも、音にも恐れず、さっきのとっておき──いずれ今日使ったにも〝やつ〟は慣れるだろう。そして旺盛な食欲のままにこの山の命を食べつくし、人里に降りる──そんな最悪のケースだけは回避しなきゃいけない。餌を食わせず、弱らせて」


 餌を食べさせないって……

 こんな広大な山の中で、どれだけの獲物を、天狗さんは奪い続けてきたのだろう。


「全部だ。〝やつ〟の餌は、俺がすべて奪う。全部俺が食らう。不可能でも、向こう見ずでも知ったことじゃあない。そのためにこの七年、俺は──」


 そこまで言って、彼は口をつぐんだ。

 もう、一言も喋らなかった。

 それでも手を放さないでいてくれる彼を見ながら、あたしは思う。


 ヒグマ──コディアック。

 あれは、死そのものだ。

 あいつに一度目をつけられたら、きっと逃れることなんてできない。

 本当に神さまで、死神かもしれない。


 だからもし。

 もしもこれからも、あたしがこの山で生きていくというのなら。


 きっと、あいつを無視することは、できないんだと思う。


 戦うのか、逃げるのか、それはまだわからないし、どうすればいいのかも不明だけれど。

 でも、目をらしちゃいけなんだと、あたしは確信した。


「天狗さん」

「……あー、腹減ったなぁ。収穫もなしでさぁ、何にもないけど──飯、食うか?」


 仮面を外して、彼はにかっと笑って。

 自分の背後を、指さした。


「俺たちの家で」


 森の中にひっそりとまぎれる、小さな庵。


 朝見たはずのそれが。

 まだお邪魔して、数日のはずのそこが。


 あたしには、ずいぶんと久しぶりに帰る我が家のように、思えたのだった。


「うん! 美味しいもの、作ってよね!」

「馬鹿だなぁ、このエルフは。やっぱりポンコツだ。食べるもんは自分で狩ってくるんだよ」


 お互いに笑いあいながら。

 あたしたちは、家へと帰る──

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