空腹は限界の向こう側
第三話 エルフの姫ですが、異世界転移してました
「──こぐまのぷーさん 穴から出たが お山は吹雪 まだ春遠い──」
よく響く低い声。
だけれど、快活で、優しい声。
ああ、今聞こえているのは、子守唄なんだなぁと理解して。
そしてあたしは、目を覚ました。
……なんか、目を覚ましてばっかりだ。
目を、あける。
仮面の人の、背中の上だった。
簡単にいうと、おんぶされていた。
「うぴゅい!?」
悲鳴を上げると、仮面の人はぴたりと歌うのをやめ、
「なに? それがおまえの、国の言葉なのか?」
「あ、違くて、その」
とりあえず、降ろしてください。
真っ赤になった顔を隠して、消え入りそうな声でお願いするのが、あたしにできた精一杯だった。
木を組んで作られた、小さな
家の真ん中には囲炉裏があって、壁には見たことない道具がたくさん掛けられている。
囲炉裏端には、毛皮が何枚か敷かれていて。
屋根から伸びる何本もの綱には、干し肉みたいなのが吊されていた。
……おいしそう。
囲炉裏を挟んで、あたしは仮面の人物と向き合った。
大柄なひとだった。
エルフでは見たことがないような、がっしりとした体つきをしている。
足もとまである毛皮を羽織っていて、中にはポケットのいっぱいついたベストを着こんでいる。
腰にはいくつもの箱が付いたベルトを巻いていて、袖から覗く手は傷まみれだ。
裾がきゅっと絞られた、カーキー色のズボン。
庵の入り口には、さっきまで履かれていた編み上げのブーツが投げ出されていた。
「おまえさぁ、なんでこんなところにいるわけ?」
「こんなところって……」
いや、こっちが聞きたいんだけど。
「ここはなぁ、政府公認の立ち入り禁止区域……ってことになってる、一応だがな。そこにおまえみたいな外人が踏み込んだとなると──はっきり言って、かなり
場合によっては、酷いことをしなきゃいけないと、その人は言う。
「ひえ……っ」
思わず後ずさると、そのひとは肩を揺らした。
笑っているみたいだった。
「いやぁ、脅かすつもりとかは……ないんだなこれが。だからさー、素直に事情を話してくれないかねぇ、お嬢ちゃん? 助けてやったろ? これはギブアンドテイクだと思うけど?」
本当に脅すつもりがないのかはともかく、あたしがこの人に助けられたのは事実だ。
本音を言えば、まずは水をもらいたかったけれど、
「そのまえに、お水をちょうだい」
「やーだー、おまえが話すのと交換な」
「…………」
こんな風に、あしらわれてしまっては仕方がない。
クソが。
「さてはあんた、悪いやつね……?」
「本当に悪いやつはなぁ、自分から悪人だなんて言わねーんだよ、お嬢ちゃん」
うーん、たしかに一理ある。
仕方がなく、あたしは説明することにした。
あたしの人生十六年。
そのあいだずっと、思うがままにやってきたこと。
何もかも、世話役に任せきっていたこと。
長老に裏切られ、神さまのイケニエ(?)にされそうになったこと。
洞窟を抜けると、そこは見知らぬ森だったこと。
そして──あのモンスターに襲われたこと。
モンスターは神さまかもしれないこと。
その人は、黙って話を聞いていたけれど。
おもむろに、仮面を外して見せた。
壮年の男性だった。
顔面の、左上から右下にかけては、四本の酷い傷跡が走っていて。
だけれどどことなく、端正な顔立ちをしている。
怖い顔だったけど、でも、怖くはない。
矛盾する感覚に襲われていると、彼の
彼は歯を見せ、にたぁっと笑う。
「うまいもんだけ食わされて、自意識がはち切れるまで肥え太らされて……おまえ、まるで養豚場の豚だなぁ?」
「え?」
「……わからないか。そっかそっか」
上手く答えられないでいると、あっさりと彼は、話題自体を変えてしまう。
というか、先ほどまでとは態度が、露骨に変わっている。
「理解できないなら……そうだな。おまえ、ここで暮らすか?」
「は?」
「拾った手前、答えを出せるようになるまでなら、面倒を見てやる」
拾った手前って……。
「ひとを、まるで物みたいに言って」
「物さ。物だろ?」
彼はまた、いやらしく笑った。
「生きてないものは、物と変わりがない。生きてちゃいけないものも、物じゃなきゃいけない。まあ、いいや。事情は分かった。だけどさ──」
エルフ、ねぇ……と、彼はひどく楽しげに口元をゆがめた。
「金糸の髪、透けるような肌色、若草色の瞳、極めつけに長い耳! 確かにこれだけ見れば、立派なエルフだ」
「ちょ、触らないでよ!? や、耳の裏、こそばゆい……!」
「だけどなぁ、お嬢ちゃん。はっきりひとつだけ教えてやるけどな──」
彼は仮面をかぶりなおし。
一段と低い声色になって。
あたしに、告げる。
「この世界には、エルフなんざいないんだよなぁ、これが」
§§
衝撃の事実!
あたし、別の世界に来ていました!
見知らぬ森は、文字通り知らない土地でした……!
なんて、驚いたのは最初だけ。
だってそもそも、あたしの世界はあの家だけだったんだから。
「異世界への転移とか転生ってのは、流行りのひとつだったか。好きだったよ、娘がさ。背格好はおまえと同じくらいで──」
「娘さんがいるの?」
「…………」
「……?」
なぜか黙ってしまう仮面のひと。
とはいえ、話は分かった。
あたしだってお話の類は好きだし、自分の世界とは違う世界で活躍する英雄の物語は、たくさん聞かせてもらってきた。
つまり、あたしが主人公! あたしがお姫様!
だって、あんなモンスターと第一次接近遭遇してるんだもの。これが主人公補正じゃなくて何だというのか。
「あの神さまを倒せば、きっとあたしは元の世界に帰れるのね」
「無理だろ、因果関係がこれ以上なく皆無だし。えっとお嬢ちゃん、名前なんつったっけ?」
「リィルよ。リィル・イートキル」
「あっそ。俺のことは天狗でいいから」
「テング?」
「
この仮面のことだよ、と彼──天狗さんは言う。
「コディアック──あの熊は、鉄砲があっても殺せない。世界中の、誰にも殺せない化け物が〝やつ〟だ。その時が来るまでは、概念上でだって殺せない」
「どういうこと?」
「説明しなきゃいけない義務が、俺にあると思うか? 重要なことは三つだ。お嬢ちゃんは今のところ、元の世界に帰る方法がない。〝やつ〟を倒しても帰れる保証は皆無で。次に、たとえ山も降りても、戸籍なんざねーから社会的に死ぬ。最後に付け加えると、〝やつ〟はおまえを見逃さない」
天狗さんによれば、熊──
あのモンスターはヒグマというらしい──は、自分の餌を横取りされることを、なにより嫌うのだという。
奪われたら、取り返すまでずっと追いかけてくる。
あたしの匂いは覚えられていて、逃げるのは不可能だと、彼は言う。
「象を殺せる麻酔弾すら効かなかった化け物だ。〝やつ〟はまだ、殺せやしない。この国にいるはずがなく──いないはずのものだから、ゆえに殺すことができない。だが、この現実に確かに存在する〝やつ〟は、おまえを狙ってくるだろう」
「そんな……」
「まあ、安心していい。この庵だけは例外だ。俺がいるからな、賢い〝やつ〟は近寄ってこない。俺といる間だけが、安全だ」
そういう意味で、おまえは確かにお姫様だと、天狗さんは言う。
「捕らわれのお姫さまだけどなー」
「最低……」
ぐったりと、あたしは肩を落とす。
おうちには帰れないし、なんかモンスターに命は狙われている。
なに、このダイハード? こんな人生辛すぎる……!
「はっはっは。だが、言ったろ? しばらくは面倒を見てやるってさ。手始めに……その指の傷、見せてみなって」
言われて、あたしはようやく思い出した。
そういえばディムカに噛まれたんだっけ……
あー、思い出したらめっちゃずきずきする! 痛い、痛いよぉ!
「なんにやられた? 植物か、虫か?」
「ディムカよ、これ」
ポケットに入れていた食べかけのディムカを、天狗さんに差し出す。
「ムカデか。ムカデの毒はすぐに洗い流すべきなんだが……」
言いながら、天狗さんはあたしに水の入った容器を差し出してくれる。
やった、ついに口がゆすげる!
喜び勇んで飛びつくあたしに、彼が言う。
「おまえ、それを取って食ったのか。なら……養殖にしては、肝が据わってる方だ。前言は撤回にしておくかな」
「うん、でも不味かったし、もういらない」
ポイっと、その辺にディムカ──ムカデだっけ?──を投げ捨てるあたし。
水を手に取って、口に運ぼうとするけれど、動かない。
天狗さんが、離してくれない。
「ちょっと、あたし水が飲みたいんだけど? なんならおいしいご飯もすぐ準備してほしいんだけど──」
「気が変わった。おまえ、何様のつもりだ?」
「はぁ?」
そりゃあ、あたしはあたしのつもりだと。
そんな風に答えるはずだったのに、言葉は出てこなかった。
天狗さんの様子が、急変していたからだ。
仮面をかぶっていてもわかるぐらい、恐ろしい気配を放っていたのだ。
「殺したんなら、食え。食えないなら、殺すな」
「まずいなら食えないでしょ? なに言ってんの? 正気?」
「……確かにお姫さまだ、豚のくせに、餌をえり好みしやがる」
「あ、ちょっと!」
取り上げられる、水の入った容器。
仮面の男はそのまま、庵の外に出て行ってしまう。
去り際に、
「いいか、なにも食うな。なにも飲むな。俺が戻ってくるまでに庵のものに手を付けたら──おまえを〝やつ〟に、突き返してやる」
鬼気迫る声音で、そんな脅し文句を残して。
「なによ、なんなのよ……」
ああ、まったく。
「最っ低ぇええええええええ!!」
あたしは。
駄々をこねるように、その場にひっくり返るのだった。
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