第二話 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!
「暗いよ、寒いよぉ、おなかすいたよぉ……帰りたいよぉぉ……ふぇぇ……」
あたしは見知らぬ森を、歩き続けていた。
夜の森、こわい……なんか知らない生き物が鳴いているし、前も見えないし……
そりゃあ村のみんなも、夜はおとなしくするわけで。
「すごい、リィルちゃんは一つ賢くなった!」
うむ、なにごともポジティブポジティブ。
そんなことより問題は、ディムカで失敗したことだった。
この森のディムカは、あたしが知っているディムカと違う。
味も、凶暴さも比較にならない。
その前例があるだけに、見覚えのある木の実なんかを見つけても、手を出すことができないでいた。
見るたびに、口の中でディムカの
あの生臭さが、いまだに残ったままなのだ……
クソ長老は水すら持たせてくれなかったし、いくら呼んでも世話係はやってこない。
一刻も早く、この酷い味を洗い流したいのに、のどを潤す果実もない。
とにかく、ここにいちゃだめだ。
歩く。
歩く。
歩き続けて、気が付いたら夜が明けた。
すごい、あたしすごい。
初めて徹夜した! このガッツは賞賛されるべき!
……うん、三歩に一回は、休んだけどさ。
「っていうか無理ぃぃ! もうさすがに限界なんだけどー!」
疲れ果てて座り込み、そのまましくしく泣き始めた可哀そうなあたし。
よっぽど可哀そうだったのだろう、なんか神さまが味方してくれた。
「いや、神さまってよくわかんないけど、あたしを食べるつもりだったらしいんですけどね! つーか、さっさと助けろよ、神ぃ!」
生まれ持ってのエルフ感覚にびびっと受信!
これは間違いなく川のせせらぎだ……!
「ぐぎぎぎ……」
最後の気力を振り絞り、木の枝を杖にして歩き出す。
気分は御伽噺に聞く、風来の老賢者。
わーお素敵、ナイス賢者。ナイスおじさま。
「言ってる場合じゃねーですね」
必死で軽口をたたき、テンションを上げて、最後はほとんど這いずるようになって。
やっとこさあたしは辿り着いた。
これこそが理想郷!
目の前には、綺麗な川が流れていたんだ。
「いやっふー!」
朝焼けが世界を照らし出す中、あたしは川へと駆け寄る。
あれだよ、これが人生の夜明けだよ!
ざまあみろクソ長老! あたしは生き延びた!
これで、やっと口をゆすげる!
この不味さとおさらばできる!
きらきらと光る水面に、満身の想いで手を差し込もうとした。
そのときだった。
『グルルルルルル……』
獰猛な唸り声を、あたしは聞いた。
「────」
心臓が、止まるかと思った。
いや、止まったと錯覚した。
それは、動く山脈だった。
赤い津波だった。
吠え叫ぶ鉱山だった。
エルフ換算二十人は下らない巨体。
滝のように長く、赤い毛足。
丸太のようにぶっとい、見るからにヤバイ四肢。
剥き出しの爪に、鋭い牙。
山が動いている。
山が
山が迫ってくる。
あたしは、本気でそう思った。
モンスターの名前を、あたしはまだ知らない。
そんなことはお構いなしに、地鳴りのような唸り声をあげ、牙をむき出しにしながら、モンスターはあたしへと一歩一歩近づいてくる。
そのたびに地面が、ズシンズシンと揺れるような錯覚にとらわれる。
それほどの巨大さ。
それほどの威圧感。
「あ、あ、あ」
あまりの迫力に、まともな声が出ない。
怖い。
お腹の奥がずんと重くなり、全身が恐怖に震え、言うことを利かない。
いくらあたしが大事にされてきたからといって。
この状況は、さすがに逃げ出さないとヤバいことぐらいわかる。
でも、両足は根が張ったように動かない。
ぐうぜん、たまたま、何の因果か知らないけれど。
あたしは、モンスターと居合わせてしまった。
多分このバケモノも、水を飲みに来たんだろうけど。
今はあたしを食べるつもりなんだろうけど。
でも、こんなのって──あんまりじゃないですか、神さま?
「……違う」
そう、違う。
多分、イケニエを求める神さまってのが、このモンスターだ。
間違いないと断言できるほど、その巨獣はぎらぎらとした飢えを、
「食われる!」
本能で悟る。
瞬間、全身の自由が戻ってくる。
あたしは。
「うわあああああああああああああああああああああああああ!?」
身もふたもなく、あられもなく。
悲鳴を上げながら、全速力で逃げ出した。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……!」
絶対に、確実にやばい!
食われる、逃げなきゃ殺される!
「グルアアアアアアアアアアアアアア!」
モンスターが咆哮する。
振り返るまでもなく、あたしを追いかけてきていることがわかる。
死が、追いかけてくる。
なんで? なんで、なんで、なんで。
なんで──こんなことになってしまったのだろう……?
息を切らし、涙と鼻水とよだれをたらし──せっかくのお化粧が台無しだ──転んで、立ち上がって、また転んでそれでも逃げながら、あたしは考える。
あたしはただ、自由に生きていただけなのに。
みんなには、愛されていると思っていたのに。
「ああ、違ったんだ」
あたしは、ただ。
──こんな目に遭うために、大切にされていたのか?
「あっ」
つまずいて、盛大に体が傾斜する。
絶望が、身体を支配する。
そのまま、川べりに顔から突っ伏した。
痛い、痛いよぉ。
でも、それ以上に。
「グルルル……」
「あ、あああ」
目の前に、赤い山があった。
巨獣が、あたしに追いついていた。
動けない、怖くてもう動けない。
モンスターはクンクンと鼻を鳴らし、あたしの体臭を嗅ぎまわる。
そして。
「いやぁ!?」
ぐいっと、柔らかいあたしのお腹を、前足で踏みつけてきた。
鋭い爪が、服を破く。
あとほんの少し、羽毛一枚分の力が加われば、ぷつりと皮が裂け、血が噴き出し、肉がちぎれる。
そう思わせるような力加減で、じわじわとモンスターは、あたしのお腹に爪を立て、力を込めて──
「いやだぁ、死にたくないよぉ!」
「だったらジッとしてろ!」
死なんて覚悟できず、泣き叫んだ、そのときだった。
大声とともに、あたしの周りに何かがぽとぽとと飛んでくる。
それは地面に落ちた瞬間、シューっと音を立て、火花をまき散らしながら回転をはじめた。
「グルウウウウウ……!」
パン!
無数の火花の蛇──のちにねずみ花火と教わるそれ──が弾け、耳を劈くような音を立てたとき、巨獣は大きく背後へと飛びのいていた。
そうして。
ぐっと力強い腕が、あたしの脇に差し込まれた。
「立て」
「え?」
「わかんねーかな、生き延びたかったら立ち上がれつってんだよなぁ!」
「は、はい!」
言われるがまま──ふしぎなことに体が動いた──あたしは立ち上がる。
顔を上げて。
そして見た、救世主の姿を。
「────」
仮面──真っ赤な顔に、長い鼻を持つ恐ろしい仮面をかぶった、ボサボサ髪の人物。
その人物は、モンスターに向かって嘲笑するように、こう叫ぶ。
「コディアック! おまえの〝餌〟は、この天狗が貰い受けた! 今回もだ! 次だってだ! 俺は何度でも、何度でもおまえの食事を邪魔しに来るからなぁ!! お前を殺すまで、ずっとぉ!」
叫び、仮面の人物は、無数のねずみ花火に火をつけ、コディアックと呼んだモンスターへと投げつける。
そして、あたしの手を取って、走り出す。
これが、あたしと天狗さんの出会い。
何も知らない無知なるリィル・イートキルが、この異世界で生きていくための第一歩。
皮肉なことに神さまのめぐりあわせで、人生極限サバイバルが。
あたしの、マタギとしての人生が──始まった瞬間だった。
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