赤ん坊

三津凛

第1話

子どもの代わりに、絹子は文鳥を飼ってきた。これが真っ白な綿毛のような美人で、最初はなぜ犬や猫にしなかったのかと詰っていた千子(もとこ)も直ぐに夢中になった。くちばしだけが覚めるような桃色で、よく映える。

絹子は文鳥に「鶴丸」と名前をつけて溺愛した。千子も粟を突く鶴丸を飽かずに眺めていた。

「やっぱり鳥を飼って良かったと思わない?」

絹子は千子に背を預けて鳥籠を仰いだ。千子の柔らかな身体の凹凸を心地よく感じながら、微かに絹子は頭を揺らす。

「そうねぇ…最初はなんで文鳥なんかって思ったけれど」

千子は絹子の頭に顎を乗せた。身体の重みがそのまま絹子の屈託のない甘えのようで目を細める。絹子はそっと振り返って千子の滑らかな首筋に鼻先を寄せる。

「…子どもって、やがて巣立つものでしょう?犬や猫は飛べないけれど、文鳥は飛ぶじゃない。あれが本当に子どもみたいで、飼ったのよ」

「そうだったの」

埃っぽい午後に鳥籠を抱えて帰ってきた絹子を千子は思い出す。

「絹子は子どもが欲しいと思う?」

「私は自分の子どもはいらないの」

絹子はあっけらかんと言い放つ。

「千子の子どもなら、欲しい気もするわ」

「…私も自分の子どもはいらないもの」

「ふふ、私たち似た者同士よ。だから文鳥でちょうどいいの。鶴丸でちょうどいいのよ」

絹子は羽毛を飛ばすように軽く言う。鶴丸はそんな会話を知ってか知らずか、狭い鳥籠の中を縦横に飛び回る。



絹子と千子はある女学校で出会った。絹子は自意識が強く負けん気の強い少女だった。おかげで随分いじめられた。それでも絹子は卑屈になることはなかった。その代償なのか、絹子は滅多のことでは人間には心を開かなくなった。その澱をぶつけるようにして、動物には無償の愛を注いだ。絹子は学校の敷地内にある裏山によく1人でいた。


誰のことも好きになることはない。

誰からも好きになられることもない。


絹子は曇りのない野うさぎの眼を眺めながら、ぼんやりそう思った。紺色の制服が汚れるのも構わずに寝転ぶ。勢いに驚いて野うさぎは駆けて行った。冷たくなったおにぎりを無心でかじる。寂しいと思う時代は過ぎ去った。絹子は誰の爪痕も付いていない身体を野山に晒した。

春の風がそよいでいく。


千子は弱い子だった。青白く、人の群れと熱気や騒めき、そして埃が何より嫌いだった。だが不思議と土ぼこりだけは不快にならず、千子を苦しめることもなかった。千子は人工物を嫌って、林や山の中ばかりに居ついた。不健康さが醸す妙な色気からか、千子は同級生たちに「ニンフさん」とあだ名をつけられてからかわれた。

自然の中に宿る精霊や、自然そのものの比喩を抱き込んだそのあだ名を千子は気に入っていた。休み時間のたびに千子は裏山に足を延ばす。最初は独りきりだったのに、いつしか先客がいることに気がついた。同じ紺色の制服が気ままに横たわっている。スカーフの色で一学年下の子だということは分かった。

「松嶋絹子さんでしょう」

自分でもどうしてそう素直に呼びかけることができたのか分からない。絹子が振り返る。

「あなたは?」

負けん気の強い、微塵も怯えのない声色だった。千子は反発よりも好もしさを感じた。

「一学年上の浅川千子よ」

「じゃあ、あなたは3年生なのね」

絹子は微かに笑って言う。

「…ねぇ、上級生にそんな言葉遣いで虐められたりしないの?うちの学校はそういうのにうるさいじゃない」

「もう虐められてるもの。今さらだわ」

「そうなの?」

「えぇ」

千子はこの生意気な下級生に興味を惹かれた。

「ねぇ、いつもここにいるの?」

「そうね…授業のとき以外は」

絹子は目を閉じて呟く。

「隣に行ってもいい?」

千子が聞くと、絹子は少し迷惑そうに目を開けた。分かりやすくて気難しい奴、と千子は胸の中で思う。

「いいわ…でも、ここにいることは誰にも言わないで」

絹子は千子の目を睨むように見て言った。



意外にも最初に好きになったのは絹子の方からだった。初めは迷惑だった。楽園を荒らす1匹の虻のようだと青白い上級生をうるさく思っていた。だが千子はただそこにいるだけで特に何も言わなかった。騒めきや人ごみが苦手と見えて、木洩れ日ばかりを飽かずに眺めている。

ある日千子が詩集を持ってきたことがあって、英文で書かれたそれの意味をなんとなく聞くうちに自分と重なる部分があることを知った。そのうち弁当も抜け出して2人で食べるようになって、授業以外は恋人が堪らなくなってくっつくように絹子と千子は一緒にいるようになった。

絹子は千子がいつも読んでいる詩集に便箋を挟んで想いを告げた。言葉にしてしまうと、儚く飛んでいきそうでなかなか言えなかった。

千子は隣でそれを読んで、くくっと笑った。

「いつもは勝気なのに、こういう時だけは奥手なのね」

「いいじゃない」

「そんなにむくれないで」

千子が愛おしげに目を細める。

「私だって、絹子のことはずっと前から好きだわ」

アフルァベットの波に挟まれた不器用な日本語がたまらなく可愛かった。



千子は女学校を卒業すると、彼女には何よりも甘い祖母に抱きついてアパートを一部屋借りた。千子の家系は伝統的に女の方が強いらしく、孫可愛さで祖母はアパートばかりかたっぷり小遣いまで寄越してくる。だから千子は今まで働きもせず、気ままに英文を訳したりなんかして生活していた。絹子もやがてそこに転がり込んで、何するでもなく時折山へ出掛けて行って水彩画を描いて帰って来る。

絹子の両親は放任主義で千子というお嬢の元でなら心配はない、という風に無関心で無干渉だった。


「いずれ嫁に行くから、なんて思ってるのかしらね」

絹子は千子を仰ぐ。

「そうねぇ…お祖母様からはせっつかれる時もあるけれど、あの方もなかなかうるさい人だから、そうお眼鏡に叶う男もいないでしょうね、ふふ」

千子が愉快そうに笑う。

女がたった2人きり。真っ白な文鳥を子ども代わりにして気ままに暮らしていた。



その調和がわずかに狂ったのは、隣に小さな赤ん坊を抱えた若い夫婦が越してきてからだった。

絹子にはそれが何か忌まわしい果実のように思えてならなかった。薄い壁の向こう側から、はち切れるような泣き声が響いて来る。

「元気ねぇ」

千子はまるで他人事のように笑う。千子は夜中の眠りを妨げられても決して怒らなかった。絹子は時折癇癪を起こして、青黒い隈を作った若い母親に文句を言いに行く。

千子はそれを優しく諌めた。

「あなたもあんな風に泣いてた時があったのだもの。我慢してやりなさいよ」



だが終わりは呆気なく来た。

暑い午後のことだった。

「こんな日は行水でもしたいわね」

絹子が窓を開けて眩しげに目細める。

「でもここじゃあ、裸が丸見えだわ」

千子が笑う。そして一瞬だけじろりと絹子の身体に視線を蛇のように這わせた。

「今さら恥ずかしがることもないじゃない」

絹子は眉根を寄せる。何か言いかけて唇を開きかけた途端に、あの薄い壁の向こうから叫び声が聞こえて来た。

千子と絹子は顔を見合わせる。あまり倫理の疼きもなく壁に耳を寄せて聞き入る。

「なんだか、赤ん坊が死んじゃったみたいね」

絹子は千子の横顔を見た。石膏でできたかのように硬く、無表情で感情の死んだ顔がそこにあった。



なぜ赤ん坊が死んだのかは分からずじまいだった。絹子はあの泣き声がなくなってから、初めて寂しさを感じた。鳥の鳴き声とはやはり違う。

鶴丸はその思いを見透かしているのか、怒ったように鳴く。

「人間っていうのは案外呆気なく死んでしまうものなのね」

絹子が呟くと、千子が首を振る。

「違うわ。赤ん坊が呆気なく死ぬのよ」

千子は微かに笑う。そして思いもよらないことを言った。

「ねぇ、鶴丸を逃してやらない?」

「どうして?」

「放鳥って言うそうよ。鳥を放してやるの。弔いの一種よ」

千子は可笑しそうに身をよじる。そして箪笥の上に置かれた鳥籠を伸びをして手に取ろうとした。千子は背が低い。そこに大人びた顔が乗っかっているものだから不思議な印象を与える。つま先に力を入れて、背を反らせる。弓なりになったその線が綺麗で、絹子もしばらく可笑しそうに眺めていた。

「ねぇ、絹子取ってちょうだいよ。ねぇったら!」

本気ではあるまい。

絹子は珍しくはしゃぐ千子を少し遠くから見る。鳥籠はなかなか千子の手元には滑らない。

鶴丸が狭い鳥籠の中で飛び回る。その鳴き声が千子の笑い声とよく似ていることに気がついた。2つの笑い声が重なって、大きくなる。薄い壁の向こうでは、赤ん坊を亡くした若い夫婦が喪に服しているだろう。

絹子は急に居心地の悪さを感じた。

「もうやめなさいよ」

相変わらずはしゃいでいる千子に、絹子は母親が子どもの手を叩くように言う。

「何怒ってるのよ」

「向こうでは赤ん坊を亡くして哀しんでるのに、こっちではこんな風にはしゃいでるなんて…いくらなんでも不謹慎よ。そうは思わない?」

すると急に千子は黙った。爬虫類を思わせる顔つきになって、目の色から体温が消えた。

「…いけない?」

千子は背筋を戻す。

「私、本当はあの赤ん坊が死んで嬉しいの」

絹子は千子の瞳に、沼のような底知れなさを見た気がした。


「私、とても嬉しいのよ」


真っ白な鶴丸が、代弁するように大きく鳴いた。

巨大な笑い声だけが響いた。

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赤ん坊 三津凛 @mitsurin12

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