蝋人形
三津凛
第1話
「あたしは蝋人形よ、ふふふ…音の出るよくできた人形よ。でも顔が良いのも才能の一つだって思わない?」
アデルは刷毛で頰を撫でながら言う。鏡越しに目が合う。猫が媚を売るような瞬きに、羞恥心が逆撫でされる。
「蝋人形ってところには同意だけど」
「だけど?」
唇が切り上がる。生き血を啜ったように真っ赤だ。夜な夜な男を引っ掛けて、その血を啜る。嫌味な比喩ではなく、アデルは本当に生き血でも啜っているみたいに紅い唇をしている。そのくせ肌だけは蝋のように白く、熱を感じない。
「今日は何を弾くの?」
アデルはようやくこちらを向く。私は腐ったピアノ弾きだ。アルコールの海と、調律のイカれたピアノと、まるで言うことをきかない指で小銭を巻き上げる。
「…適当に…リストでも弾こうかな」
「リストなんて、弾けるの?あたしはベートーヴェンが好きよ」
「あなたの好みなんて、どうでもいい。毎晩のポップミュージックに耳が腐りそう」
アデルは右目だけで嗤ってみせる。やっぱりアデルは人形だ、蝋人形だ、音の出るよくできた人形だ。
「仕方ないじゃない、あたしは人気なの。でも歌の中で、心までは踊ってないのよ。可哀想じゃあない?同情しなさいよ」
「やだね…あなたが可哀想そうなら、私も十分可哀想だもの」
私は指を広げて、完璧に美しくなったアデルを睨む。
この蝋人形め。
どうしようもなく馬鹿で粗悪な客の群れの中で、私はピアノを弾く。古典音楽の聴き方も価値も分からない奴ら。見た目の派手さとノリだけで、彼らは簡単になびく。それを溶かして固めた権化がアデルだ。
でも彼女は完璧に美しい。だから、憎い。
こんなところで、ボウフラのように漂う予定はなかったのに。
私はアデルの背を眺めながら、ピアノで調子を合わせる。
何かが狂っている。こんなはずじゃなかったはずなのに。
ふと客席に目をやると、アデルに負けないほど綺麗な女がいた。
なんて場違いな。
思わず唇だけで呟く。アデルが目ざとく振り返って目だけでその女と私とを交互に見比べる。
わたしの方が良いかしら?それとも悪いかしら?
サロンにいる人形よりも?あの女よりも?
わざと歌詞を間違えて歌う。馬鹿な男たちはそれに盛り上がる。
「お前の方がいい、いいに決まってる!」
馬鹿、お前たちに言ってるんじゃない。私は胸の中で悪態をつく。どうしてこんなところに流れ着いたのか、今はもう分からない。
街はずれにあった楽器店に、不釣り合いなほど綺麗なピアノがあって、つい指を乗せたのが全ての始まりだ。ベートーヴェンのピアノソナタ第1番をなんとなく弾いた。第4楽章に差し掛かったときに、アデルが埃っぽい店の奥から出てきたのだ。楽譜の束を、まるで札束を抱えるように大げさに抱いていた。
「過剰なベートーヴェンね」
「これくらいがちょうどいいから」
あの時、口をきかなきゃよかったのだ。音楽の神が怒ったのだ。神聖なピアノを弾きながら喋ったから、こともあろうに楽聖のピアノソナタを適当に弾くような真似をしたから。
アデルは下卑た酒場の安い歌手だった。そのくせ、足繁く楽器店に通う。
人形のように歌うことしかできないくせに。
「そうね、人生は薔薇色のボンボンだって思ってるわ」
アデルは笑って嘯く。
馬鹿騒ぎがやっと収まった後で、私はやたらめったらにベートーヴェンを弾いてやった。
でもこのドイツ人は好きじゃない。自意識の塊だ。ちょうど、アデルのように。まだアデルはいるはずだ。
ベートーヴェンのピアノソナタ第1番を他の楽章はすっ飛ばして、第4楽章を弾いてやる。
ここから全てが狂ったんだ。アデルに誘われるまま、そのままこの下卑た酒場に囚われた。
いいや、本当は私が望んで鎖に囚われたのだ。だがそれをそのまま呑むほどまだ私は腐りきれない。
私のピアノは悪意だった。ベートーヴェンは敵意だった。かつてあるフランス女が歌った。
わたしの周りで笑い声がする。
ぬいぐるみ人形たちの声。
わたしの歌で踊っているのね。
わたしは蝋人形、音の出る人形。
「割れて声が粉々になるわ」
ひっそりと、フランス語で私は呟いてやる。視線を感じると、あの場違いなほど綺麗な女と目があった。
そのときは、まだいたのかとしか思わなかった。ただ私は、舞台袖のどこかに佇んでいるだろうアデルに向けてピアノ越しに悪意を向け続けた。
「あなた、ベートーヴェンを弾いてくれたわね」
アデルは鏡ごしに私を見やった。私は無視した。
リクエストを聞いたんじゃない、これはささやかな復讐だ。
「フランス女が昔歌ったのよ、知らない?ソナタ第1番の4楽章の一部を使って」
「ふふ、知らないわ」
わたしは蝋人形、音の出る人形。
知らないはずはない。私はそれ以上は掘らなかった。代わりに思い出したように呟いた。
「…そういえば今日、場違いな女が客席にいたわ」
「あぁ、そうね。綺麗な女だったわね。案外あんたのファンだったりして」
まさか、と私は嗤った。アデルの化粧とアルコールに汚れた譜面を私は乱暴に閉じる。
その場違いな女はそれから毎日やって来た。客の誰かとそういう仲なのかとも思って、意地悪く視線を赤ら顔どもに向けて見たがそれらしい男はいないようだった。
「あの女、あんたばっかり見てる」
アデルが歌う合間に私に耳打ちする。それはまるで女が男に向けるような唇の向け方で、私は蝿を払うようにアデルの唇を叩く。馬鹿な男どもが安く嫉妬する。場違いなあの女も、焼け付くように私とアデルを見つめていた。
アデルはそれを交互に眺めながら、愉快そうに嗤った。
「…彼女、あなたのことが好きなのよ」
「でも私も女だわ」
「馬鹿ね」
アデルはそれだけ吐いて、また歌い始めた。私もピアノで合わせてやる。
その後で、ここ最近ずっと弾いてるベートーヴェンのピアノソナタ第1番をめちゃくちゃに叩いた。
あの女は終わるまでずっと客席にいた。
皮肉なことに、毎日ベートーヴェンを弾くたびにその音は尖っていった。私は不思議と自分がかつての活力を取り戻しつつあるのに気がついた。アデルは相変わらずふざけた歌しか歌わない。それなのに、アデルは少しも汚れない。それが憎くて、少しだけ愛おしい。
水晶のように澄んだ声で、蝋人形のように歌い上げる。アルコールの代わりに美貌を振りまいて酔わせる。
音の出るよくできた人形。そういう人形に、男は群がる。
「あの男、しつこいから振ってやったわ」
アデルは挨拶代わりに男を切る。彼女が死ぬときは、カルメンのように男に背後を刺されて死ぬだろうと私は思っていた。
事件は私がベートーヴェンを弾き始めた頃に起こった。ちょうどアデルは一瞬だけ客席に背を向けていた時だった。風のように斬り込んで来る女が1人いた。あの綺麗な女だった。
憑かれた目をして、私と視線を合わせながらもアデルの背を正確に刺した。アデルは叫びもせずに倒れこんだ。
まるで人形が堕ちるように。狂った綺麗な女を誰もが避けて、酒場は虚ろになる。誰も人形を本当に愛してはいなかったのだ。
「あなたのベートーヴェンが、刺せって言ったのよ。あの蝋人形を」
女の表情は動かない。
私は色を失って膝をついた。冷たい感触に目を落とすと、鮮やかなアデルの唇を思わせる紅が広がっていた。
血だ。アデルの血だ。
私は蝋人形、音の出る人形。
関節に力が入らない。戯れの復讐だった。私をこんなところに縛りつけたアデルへの。私を蝋人形にしたはずのアデルへの。
気がつくと、狂った女はどこにもいなかった。血塗れのナイフだけがピアノの上に置いてあった。私の指の間に血が滲む。
隣を見ると、アデルが芋虫のように身体をよじっていた。私は何もせずにそれを見ていた。
まだベートーヴェンを最後まで弾いてない。
私は人形の隣で、ピアノを弾いた。
芋虫のような蠢きは、次第に収まっていった。
蝋人形 三津凛 @mitsurin12
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