欺くものたち

三津凛

第1話

文字は見えない内面の顔だ。

「相手を知りたければ、その人の書いた文字を見なさい」

祖母は私に執拗に言い含めた。

だから、私は相手の顔よりもその手から紡がれる文字ばかりを眺めていた。優しげなのに、筆圧が強く芯の通った文字に私は惹かれた。それは亡くなった祖母の書いていた文字とよく似通ったものだった。トメ、ハネ、ハライがはっきりとしているのにくどくなく、程よい丸みと角が、まるで人が微笑むときにできる皺のように見えてくる。

環は私が見た中で一番惹かれた文字を書く人だった。

偶然、大講義室で隣に座った彼女のノートを何気なく覗いて、私は目を見開いた。

「…すごく綺麗な文字書くのね」

「え?」

環はちょっと怪訝そうな顔つきになって、嫌そうにノートを閉じた。

「亡くなった祖母がよく言ってたの。文字は見えない内面の顔だって…」

「へぇ」

環は眉の力を抜いて、ほんの少し優しげな顔になった。

「私はどんな内面に見える?」

自分からノートを開いてみせてくる。祖母の書いていた文字とよく似ている、と私は改めて思った。

「…そうね、あなたって自我が強そう。筆圧も強いし、マス目いっぱいに文字を書いてる。でも、繊細で几帳面な人ね…芸術的なセンスもありそう」

環は笑った。

「大体当たってるわ。何だか怖い…芸術的なセンスがあるかどうかは別として、油絵を描くことは好きだしね」

「やっぱり」

私は祖母の文字と、生き様を交互に思い浮かべながら頷いた。

「どうして分かるの?」

「…あなたの文字って、祖母とよく似てるから。祖母も、あなたみたいな人だったから、なんとなく…」

「本当に好きだったのね」

私はその言葉に、なぜか頰が熱くなった。

「…えぇ、祖母のことは好きだった。偏屈な人だったけど……」

私は控えめに笑った。

「油絵はどんなのを描くの?見たいわ」

私は厚い絵の具に汚れたこともなさそうな、綺麗な爪を眺めた。

「講義が終わったら、この後描く予定なの。よかったら付き合う?」

「えぇ、ぜひ」

私は上目遣いに環を見た。まともに見た彼女のの顔も、文字と同じように綺麗だった。くっきりとした眉が意志の強さを感じさせた。黒檀のように濡れて光って見える瞳に、どきどきする。

一目その文字を見たときから、私は環のことを好きになっていた。



「…私、人間は嫌いなの」

環は筆を動かしながら平然と言ってのけた。

私は少なからず傷つきながら応える。

「どうして?…私も、どちらかといえば人より動物の方が好きだけど」

「鬱陶しいから。自分自身に倦む時があるんだなら、他人ならなおさら」

環はまるで怒ったように硬く唇を結んだ。対照的に手首は滑らかに動いて色を乗せていく。なんでもない大学の敷地内にある花畑が、南仏にでもあるような鮮やかな自然に変わっていく。黄色を多用したキャンバスの明るさと広がりに、私はなんとなくゴッホを見るように感じた。隣に腰掛けながら、私はため息と一緒に言ってみる。

「なんとなく、ゴッホみたいね…芸術はよく知らないけど」

環は目を上げて、分かりやすく笑った。この人の表情はまるで万華鏡のようだと私は思った。

「ゴッホは特に好きな画家よ。彼は黄色という色に、なにか宗教的なものを感じると言ってるの。私にそこまでの感性はないけど、それを読んだときにどうして彼が自殺したのか分かったような気がする」

環な手を止めずに半ば独り言のように呟く。


あんな人は長くは生きられなかったのよね。


「…女の方がずっと頑丈にしぶとくできてるのよ、そうだと思わない?」

当たり前のように同意を求められて、私は勢いのまま頷いた。

「なんだかあなたと一緒にいると落ち着くわ。男の話も化粧の話も、流行の話もない、風が吹いてるみたいだわ。ふふ」

環は急に飽きたのか、筆とキャンバスを無造作に投げ出してそのまま仰向けになった。土に塗れることを少しも厭わない気楽さと自由さに、私は微笑んだ。

子どもみたいなのに、芯は強烈。

私も真似をして寝転んだ。

「あなたって、変わってるわね」

「…環さんには言われたくないわ」

それもそうね、と環は笑って頷いた。しばらく黙った後で、環は小指だけ器用に伸ばして私の指に絡ませた。



環とは偶にこうやって絵を描くのに付き合ったり、昼食を一緒に食べるようになった。

しばらくそんな風に交流した後で、私は環に手紙を渡した。環はその場では開かずに、「恋文かしら?」と少し意地悪そうな目つきをして私をからかった。

「そうかもね」

と私も調子を合わせて、その場は別れた。

環とはそれから半月ほど会えなかった。私を半ば諦めた。やっぱり気持ち悪かっただろうか、と今更悔やんだりして大学も休んで気晴らしにコンサートへ行ったりしていた。

いくらか環の不在にも慣れた頃、ポストに一枚の絵葉書が突っ込まれていた。ドイツからの絵葉書で、裏返すと見覚えのある筆跡が踊っていた。日本語ではなく英語で、軽やかな筆記体で現地の様子が細々と書き込まれている。


父のお供でドイツへ行ってるの。ハイデルベルクっていう古い街にいるわ。ゲーテの歩いた散歩道を毎朝歩いて、偶に絵を描いてるわ。

来週には日本へ帰れそう。

早くあなたに会いたい。


私は何度も最後の一文を辿った。

「早くあなたに会いたい」

私が渡した手紙の内容にはひと言も触れてはいなかった。ふと窓の向こうを眺めて、見えるはずのない海とその先の地平線を捕らえようとする。

環、私も早くあなたに会いたい。



久し振りに会う環は少し痩せたようだった。

「ドイツはこっちよりも7時間遅れてるのよ。時差ボケでしばらくろくにご飯も食べられなかったし、日中は父について面倒なビジネスの手伝いもしなきゃいけないし…ちっとも楽しめなかったわ」

環は不満気に言いつつも、どこか楽しそうにドイツでの話しをした。

「でも、ゲーテの散歩道を歩いたんでしょう?素敵じゃない」

環は薄く笑って頷いた。

私はしばらく環の顔色を窺った。環も私の視線に気がついて、こちらを見据える。

「いいわよ」

「え?」

環は笑って続ける。

「私もあなたのことが好きだから…ドイツは確かに楽しかったけれど、あなたがいないから何か物足りなかったわ」

私は思わず咳き込んで涙ぐんだ。

「いやだ、大丈夫?」

環は優しく私の背に手を置いた。



私と環は大学を卒業するまで一緒にいた。私たちの仲は良く、喧嘩もしなかった。環の家は裕福で、体の弱い母の代わりに貿易商をしている父について環は偶に外国へ渡って行く。私は環から届く絵葉書をその間静かに待った。だが呑気な両親は私に結婚の話を断定的に寄越してきた。


「お前も大学まで行ったんだ…もういい歳だろう。良い人を紹介してもらったから、早く結婚しなさい」

私はただ黙って、くどくどと長い相手の経歴を聞き流した。

ずっと、環のことだけを考えていた。


ふと重い荷物を置くように環が会うなり言った。ようやく会えた日の午後のことだった。

「…父がね、ある人と結婚しろって言うのよ」

私は俯いた。

何の因果だろうか。

「…偶然ね、私も両親から…」

「ふふ、親も似た者同士だったのね」

「笑いごとじゃないわ」

「そうだけど、ふふ」

環の軽い調子に、私はやりきれない思いがした。

「…ねぇ、私は嫌だわ」

「でも、女で大学までやってやったって親は言うでしょう?卒業までは待ってやる、っていうのでふんぞり返ってるわ」

「私の親も同じこと言ってるわ」

有無を言わさない、裁判所の柱みたいだと私は思った。

環は私の手を取って、甲にキスをした。

「私はね、たとえ結婚したってあなたと別れるつもりはないわ。あなただって、そうでしょう?」

「それは…」

もちろん、と言いかけた私を遮るように環は強い調子で言った。

「結婚が切符なら、私たちの関係はパスポートね…切符は所詮、ありんこが地を這うみたいに手の届くとこにしか行けやしないわ。でも、パスポートは海を越えて地球の裏側まで行けるもの。素敵じゃない?」

環は悪戯っぽく笑った。私はまだ不安だった。

「…もし、私たちに子どもができたらどうするの?環はきっと…私よりも子どもを愛すわ。その内、まやかしの家庭も愛するようになるかもしれない」

「馬鹿ね、私たちに子どもができても、それは旦那との子じゃないわ…あなたと私との間にできた子よ。そういう風に育てるのよ」

環は神官のように、厳かな横顔をしている。私は背筋を伸ばした。

「…女の方が、男よりもよっぽど……しぶとく狡猾にできてるんだわ」

「だから、子どもを産めるのよ」

環はあっさりと言い放って、私の手を握り直す。


私たちは決めた。

夜はそれぞれの家庭に帰って、奥様になる。また昼間には、私たちは独身に戻って恋人同士で街を歩いてやるのだ。


日陰を歩むつもりはない。

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