第三話 「哀なる彼女は真を紡ぐ」
寮に戻って大学が再開し暫くしても、僕は悪夢に襲われていた。彼女の姿が頭に焼き付いて離れない。夢を見るのだ、兄の触れたように僕を優しく撫でる彼女。僕は動かない。しかしそのまま目の前が真っ暗になってしまう。夢の中でまた夢に堕ちるようなその悪夢は僕を何度も悩ませた。
あれは、何だったのだろう。僕は兄が彼女に影響されたことよりも、あのとき彼女が兄にしたことばかり考えていた。彼女は、分からないと言った。それは本当のことなのだろうか。
「おい。牛。」
悪意のある呼び止めに僕は振り返った。そこには尾張が何時ものスーツに尻尾を揺らして僕をみていた。相変わらずの不機嫌そうな表情をしていて、無遠慮に僕の姿を上から下までジロジロと見つめた。
「酷い格好だな。」
えっと僕は言ったが確かに僕は酷い格好だった。何日も履いたズボンに、ボサボサの毛並み。この連日の悪夢によって寝不足も続いて、身なりに気を配れなかった。僕が恥ずかしいやら情けないやらで困っていると尾張は僕にも聞こえるくらい大きなため息をした。
「まぁいい。少し付き合え。」
僕に拒否権などないのは聞かなくても分かっていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「好きなものを頼め。」
尾張は僕を大学近くのファミレスに誘った。一番端の人目につかない席に座ると、メニューを差し出して言った。僕は自分が以外にも冷静なのに、自分で少し驚いていた。何となく、そろそろ彼女からアクションが来るのではないかと思ったのだ。僕が飲み物を頼むと、尾張も同じく飲み物だけを頼んだ。今は昼時で、それなりに混みだしている。そんな中で飲み物しか頼まない客は少し不思議だっただろう。
「あの子が消えた。」
僕がアイスティーにガムシロップを入れている最中に、尾張が言った。余りにも突然言い出したので僕は反応が遅れた。
「え。」
「行方不明だ。監視下にある彼女の部屋から姿を消したのだ。」
彼女は僕の前から消えることはあっても、まさか尾張たちの護衛から逃げ出すとは思っていなかった。僕が何も言えずにいると尾張は眉間に皺を寄せて、爪でテーブルを少しカリカリ削りながら話を続けた。
「だが、上は私に探索の命令を出さない。」
尾張は彼女が消えたというのに、雑務ばかりやらされているようだ。その一つが彼女の終わらせた課題を大学に提出することだった。煮え切らない気持ちを抱えて大学に訪れると、そこに僕がいたと言うわけだ。
「え、上って…。彼女はミックスの保護下なのに問題にならないはずが…。」
「…「最後の子」を護衛する私達のボスは「人」だ。奴らが命令を出さない。」
僕は驚いた。何故なら彼女たち「最後の子」は僕らミックスに保護されているのだ。それが保護する役目のボスが「人間」とは何かおかしい。僕は以前に、尾張が彼女を大学に行かせるのを決めたのは自分たちではないと言ったのを思い出した。つまり、彼女の自由を許していたのは「人間」だったのだ。
「何か知らないか。」
尾張は随分食い下がって僕に尋ねた。だが僕は全く覚えがなかった。彼女の突拍子のない行動は付き合いの長い尾張の方が知っているだろうし、何よりあの日から僕は彼女に会ってすらないのだ。僕が黙っていると、そうかと尾張は状況を察して飲み物に手を付けた。
「何も知らないわけがないでしょ。」
「知らない…。」
僕はえっと尾張を見た。今のは尾張の声ではなかったのだ。尾張の目線は鋭かったが、それは僕に向けられたものではない。
「彼女の大切なもの。取りにきたよ。」
僕の後ろの席で、知らない誰かが楽しげに声をかけてきたのだ。声からして若い男のようだ。僕が振り返ろうとすると、首元に何か硬いものが当てられた。
「動いたら怪我するぞ。そのまま、僕は取りにきただけだから。」
その言葉に、麻酔銃に手を当てていた尾張も大人しく席に座り直した。
「貴様たちがしていることは分かっているのか。誘拐だ。」
「人聞きの悪いな、あの子は自分から来たのに。」
ファミレスの和やかな雰囲気とここはまるで別世界のようだった。
「いいから、早く渡してくれない。持っているだろ、彼女の忘れ物。」
今度は尾張も僕を見た。僕は自分に起こっているこの危険な状況の中で何とか思いを巡らせた。彼女の忘れ物。彼女の持ち物。何かあったはずだ、何か。焦れば焦るほどすぐには出てこなかったが僕は漸く思い出した。ペンケースだ。アレ以外で僕は彼女の物を持っていない。
「も、持っている…かも。でも寮にあって…。」
「ちっ、何だよ。」
舌打ちした相手は、僕から硬いモノを離すと立ち上がった。パーカーにジーンズ姿の細身の男は、一見少年に思えるほど小さかった。キャップを深く被り、見えるのはその鱗の付いた顔と太く長い尾だった。どうやら先程首に当てられていたのはその尾だったようだ。僕がその尾を見て何だと拍子抜けしているとその表情に気が付いのか、彼は笑って僕に言った。
「僕の尾は毒付きだ。あんたみたいな牛なんてイチコロだよ。」
彼の尾の先には確かに、針が毛並みに混じって見え隠れしていた。僕がその針に気付いていなかったので、うっと息を飲んだ。
しかし、おかしいのだ。彼の瞳は大きく開き、僕を見定め爬虫類を思わせた。しかし尾に生える毛並みは獣や鳥類のそれに見える。だがその尾には毒針が付いていた。僕はこんなミックスを見たことは無かった。
「貴様、『ベイク
』か。」
「見て分かるでしょ。」
僕はピクリとも動けずに二人のやり取りを聞いていた。尾張の言葉を僕は理解出来なかったが、それでもこの相手が消えた彼女と関係していることは分かる。
「人目に付く、夜に渡そう。」
「話が早くて助かるよ。」
話が着々と進む中で、僕だけが取り残されたままだった。話していた時間は数分だったか、彼は尾張と話を付けて自分の伝票を押し付けた。そして去り際に僕に言った。
「人の体、あんまりジロジロ見るな。」
彼は帽子を深く被るとそのまま店を出ていった。
「ほら、何か食べろ。」
真剣な表情でメニューを見る尾張の言葉は耳に届くまで時間がかかった。僕は消沈しきっていた。僕が知らない所で、何かが動いている。そしてそれから逃げることはきっと出来ない。それだけ僕は彼女に近付き過ぎてしまったのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
深夜の寮の裏で、僕らは落ち合った。寮は十二時に消灯する。夜行性のミックスのための寮はもっと遅いらしいが、自分の寮はすっかり人気が無かった。そんな中、寮から抜け出し彼女のペンケースを持って待っていた。
「来ていたか。」
尾張は僕に言ったと思ったが、闇に紛れてあの男が現れた。
「待っていたよ。」
男は自分のことを『尾っぽ』と呼べと言った。自分の体で唯一好きな所だと言う。僕はまた彼の姿を不思議な気持ちで見ていた。その間に、二人は話を進めているようだ。
尾張が嫌々ながらも説明してくれた。『ベイク』というのは僕らの世界にいるミックスとは違う『人間だった者』のことを言う。僕らは一種類の生き物の遺伝子しか目覚めない。僕なら牛と人間の遺伝子を持っている。だが『ベイク』は、一人の体に複数の生き物の遺伝子が目覚めてしまったミックスのことを言うのだ。
僕はそんな話は、皆がする都市伝説のような噂話だと思っていた。もし、自分の体にもっと生き物の部分が付け足せたらなんて子供の頃よく考えたりした。そんな誰もが一度は想像するが誰も本気にはしないはずの「あり得ない」生き物が僕の前にいるのだ。
「私は彼女を迎えに行く。ご苦労だったな。」
話を終えた尾張が、僕に向かっていった。ペンケースは尾っぽの手にあって、これで僕の出来ることは全て終わった。このまま寮に帰って何も無かったように、眠りにつけばまた明日普通の生活が待っているはずだ。なにも彼女の起こした波に飲み込まれることはないのだ。このまま彼女を忘れればいい、『人間』のことなど二度と関わらなければいいのだ。
そう思った瞬間、夜に味わった恐怖とは違う感覚に震えた。そしてそれに押されるように僕は口を開く。
「僕も連れて行って下さい。」
僕の口から出たのは気持ちとは真逆の言葉だった。
「…お前は帰れ。」
尾張の言葉はあの事件の日に怯えた僕を見たからこそだろう。正直、僕の脳裏にはあの悪夢の彼女を思い出してしまう。そうすると、僕の中の牛が震えて逃げ出そうとするのだ。だが僕はぐっと耐える。
「僕は彼女に聞きたいことがあります。それにここまで巻き込まれて帰れません。尾張さんもここには黙ってきましたね、僕をここで帰すのならこのことを通報します。」
一気に言い切った僕は、慣れない強気に心臓がばくばくと早打った。突然強気に出た僕に尾張は少し怯んだようだったが、僕に戻れとまた言った。あんなに会いたくなかった彼女に会わなければいけない。それは彼女のためではない、僕のためだった。僕は尾張の言葉にまた反発する。終わらない攻防に助け舟を出したのは、尾っぽであった。
「何人来てもいいけど、彼女の邪魔をしないでね。」
尾っぽの返事は僕らの緊迫する雰囲気とはほど遠く軽く、気だるそうに歩きだした。
▲▽▲▽▲▽▲▽
尾っぽが入っていったのは、寮からそれ程離れていない定食屋だった。僕はアジトと聞いててっきり地下や壮大な建物を想像していたので驚いた。小さな店だった、テーブルは四つ程でキッチンの前にあるカウンター席が三つ程。菜食派のミックスのための店のようで黒板にはチョークで今日のオススメが書いてあった。こんな時で無ければ食事に来るのも良さそうだと思っていると兎の耳を垂らした長身の男が声をかけてきた。風貌から言って彼の店なのだろう。
「あぁ尾っぽ。連れてきたのか。」
「色々オマケが付いたけどね。」
そう言って、尾っぽは店の吊り看板を勝手に閉店の文字に裏返していた。男のことをチラチラと見ているとあぁっと声を出した。
「お前はミックスか。俺も『ベイク』さ。」
そう言って彼は腕を捲くるとそこは斑に肌の色が違っていた。鱗に毛皮に羽毛である。
「お前が思っているよりずっと色んな所に居るぞ。」
僕が衝撃を受けている横で尾張が眉を顰めていた。するとバタバタと足音が聞こえてきた。
「店長さん、野菜が切り終わりました…。」
彼女が店の裏から姿を見せたのはエプロン姿の彼女だった。
「…牛くん。尾張。」
あの日以来、夢の中でしか彼女に会ってはいなかった。彼女は、僕の中で悪夢の化身となっていたが実際会ってみれば何てことはなかった。彼女は、ここで用意されたのかジーンズにシャツという何時も着ている服より簡素な格好をしていた。髪も一つに結んで、僕を見て驚いている彼女は僕の知っている「彼女」だった。
「どうして来たの。」
僕が話しかける前に彼女が僕を見て言った。しかし僕がそれに応える前に尾っぽが彼女にペンケースを渡した。
「やることやってから話してくれる。」
「…はい。」
そのまま尾っぽと彼女は奥に行ってしまった。僕はその後を追っていいのか悩んでいると店主が行けと言ってくれた。尾張は店主と話があるようでそこに留まった。
彼女を追いかけ店の奥に入るとそこは自宅になっていて、特に怪しい所などない普通の家だった。廊下を追って声のする方にいくと一つの部屋に出た。畳の部屋の中央にテーブルが置いてあって座椅子が幾つかあり、奥にテレビが立っていた。小さめの棚には、茶器や雑誌が入れられてここも何も変ではなかった。尾っぽと彼女は奥のテレビの前に居て、僕が来ると尾っぽは「何だ来たのか。」と素っ気ない態度を取って彼女はバツの悪そうな顔をしていた。何かテレビを弄っているようで、僕には何をしているのか検討も付かなかった。側に寄ろうと座椅子を超えた。
「え…わあああ。」
僕は思わず声を上げて尻もちを付いてしまった。二人は僕の悲鳴の理由が分かっているのか、尾っぽが面倒そうに声をかけた。
「言っとくけど生きているからな。」
僕が見たのは、まるでヒモノの魚だった。座椅子には干からびた何かが座っていた。それは辛うじて人の形をしているが、目も窪んで体は痩せこけていた。余りにも平凡な空間に居るその異常なものは生きていると言われなければ、死体だと見間違うほどの状況のソレは口と言うよりは穴を動かして何と喋ったのだ。
「…っ…。」
僕には聞き取れなかった声は彼女には聞こえたようだ。
「はい、そうです。ミックスです。」
彼女はそこまで話して、尾っぽに言って僕と少し話していいかと尋ねた。彼は彼でテレビの作業に必死なようで、さっさとしろと手を動かすだけで許可した。彼女は慣れた手付きで僕と謎のヒモノにお茶を出した。僕は何とも気まずかったがその横の座椅子に座る。
「私…自分からここに来たの。だから貴方が心配してくれるようなことは何もない。」
彼女は僕が心配してここに来てくれたと前提して言った。僕は確かに彼女が心配だったが、尾っぽが来るまでは震えて彼女を忘れようとしていたそれがどうも気まずくて言葉を濁す。
「君のことは…そんな心配じゃなかった。君は保護対象だし…大丈夫だろうって。」
それを聞いて彼女はきょとんとした。
「貴方、勘違いをしている。」
「えっ。」
「ベイグ達は『存在してない』。だから私はここでは保護対象ではないの。」
「貴方たちも。彼らにとっては仲間じゃない。」
『存在してない』僕はその言葉がよく分からなかった。確かに僕らは彼らのことを知らないだろう、僕もあり得ない存在だと思っていた。だがこうして今、僕の前で必死にテレビと格闘している『ベイク』が居る。僕が呆けていると横のヒモノがくくくと笑った。そして何かをモゴモゴ話している。
「…はい…おじさまが話していいって。」
彼女は、彼の代わりに話をしてくれた。それは『人間』と『ベイク』の話だった。彼らはこの世界では居ないことになっている。そしてそうしているのは、『人間』たちによってだというのだ。しかし彼らに余り不満はない、体の一部を隠せばミックスとして生きてはいけるし何より多大な援助があった。彼女は話しながらも、何処か腑に落ちない様子だった。それは僕もだった。彼女の説明には謎だけが多く残った。どうして、彼らを隠す。誰が。何のために。
「…ベイクは人間の影響を受けない…から…だと私は思っているけど。」
それが理由だろうか。それだけの為に、ここまで彼らをミックスから隠すだろうか。僕らをよそにおじさまと呼ばれた彼はまだくくくと不気味に笑っていた。彼は何か知っているのだろうか。
「この人はね、ベイクだけどもう五百歳超えているかな。まぁ正確には分かんないけど。言っとくけど僕の爺さんじゃないからな、皆におじさんとは呼ばれているけど。」
「ご、ごひゃく?」
僕が聞き返すと尾っぽはそのまま作業を続け、彼女はお茶をおじさんに飲ませていた。ベイクの遺伝子は不安定でこうした特殊な例も起こるらしい。もう僕の脳みそは考えることに疲れたようで、彼女の話をそのまま飲み込んだ方が楽と判断したようだ。それだけ目の前のヒモノおじさんは五百歳と言われてもおかしくない容姿をしていた。
「おし、できたぞ。」
尾っぽが僕とおじさんの間に割って入って、リモコンを操作した。彼女のペンケースはテレビの前に開け放され放置されている。今、気が付いたがそこにはテレビ以外にパソコンも置かれていた。どうやらパソコンの何かをテレビに写そうとしていたようだ。
「じいさん、ほら見ろよ。」
そこには、『人間』たちが映っていた。だがそれは彼女ではない。複数の人間たちがテレビに映し出されている。映像や画像が入り乱れているようだが、非常に古いものらしい時々音が飛んだり画像が乱れたりした。僕はこんな沢山の人間を初めてみた。ちゃんと男性と女性が居るようで、しかも僕らと同じように外に遊びに出かけ学校に行っているように見えた。教室いっぱいの人間なんて、大混乱が起こるのではないかと不安に感じてしまう。
僕や尾っぽそして彼女はそれを眺めていた。しかし、おじさんだけはそれを見て奇妙な声を上げた。そして窪んだ瞳からは一筋の涙が流れていた。
「よかった…。」
その様子を見て、彼女が言った。この映像を持ってきたのは彼女のようだ。暫く、この奇妙な時間が流れた。その映像は、五分程だったが何度も繰り返して皆で見つめた。最初こそ何か色々言っていた僕ら三人だったが、次第に口数は減っていきおじさんの気持ちが分かった。
懐かしいのだ。僕はこんな映像を初めてみた。こんなに沢山の人間に違和感しかなかったはずなのに、今はどうしてだろうか酷く懐かしい。そして同時に胸を締め付ける切なさを感じていた。
僕は堪えきれなくたって廊下へ出た。不思議と目から涙が出てきた。僕の中の「人間」が泣いている。僕の後ろから誰かが付いてきた、彼女が僕の方を心配そうに見ている。人間の彼女はあの映像をどんな気持ちで見ていたのだろうか。
「お兄さんの様子はどう。」
彼女は少し俯いて聞いてきた。僕と話すのにこの話題は避けられないのだろう。
「カウセリングも受けたけど異常はないって…。」
それを聞いて彼女は心底安堵したようだ。さっきまであった顔の強張りは消えた。
「僕にとってはとても丸くなったと思うけど。」
「…。」
びくりと僕の言葉に彼女の肩が跳ねた。また目線を伏せてしまう。
「どうして君が、僕と一緒にいてくれたのか考えていた。そしてどうして姿を消したのか。」
怯えるような彼女に話しかける。その感情は僕にもひしひしと伝わっては居たが僕は話を続けていった。尾っぽは僕らが部屋から出ていったのは分かっていたようだが特に関わる気はないようだ。
「僕に利用価値が無くなったから君は僕の前から居なく成った。」
「…。」
「でも…これは僕の勝手な考えだけど…僕に利用価値がなくなったのは…兄さんのことがあったからかな。」
彼女は口を噤んだままだった。
「君は僕のことを案じてくれたのかな。」
はっと彼女は顔を上げた。僕の顔を漸く見てくれた。そしてその表情が歪んでまた下を向いてしまった。彼女の表情は見えなくなってしまったがミックスの僕には分かる。彼女は震える声で話しだした。
「私…私…怖かった。あの時、貴方のお兄さんに私…何かをした…でもそれが何か分からなかった。怖くて…もう君たちの中で生きていけないと思った。でも人間のところに行くのも嫌だった。」
「それで…彼らのところに。」
「どうせすぐ見つかるのは分かっていたけど…。」
少し落ち着いたのか彼女は顔を上げた。潤んだ瞳と擦った目尻が少し痛そうだ。だがもうその瞳には悲しみはなかった。
「さっき君は、自分の利用価値がないって言っていたけど多分違う。もうきっと君は私にすることをし終わっている。」
ただきっとその結果があの兄に行われたことだったのだろうと彼女は言った。だからこそ自分は捜索されず、こうしてベイクと許可なく接触することも放置されていたのだと彼女は言う。
「あの映像は、私が盗んで彼らに渡すつもりだった。でも…試したくて盗んで絶対に見つかるはずの日数持っていたけど、騒ぎにも成らずに今こうして彼らに渡すことが出来た。」
その間で、兄の事件が起こり僕の家に放置されてしまうことになったようだ。僕は巻き込まれたと思っていたが、成るべきでなったような気がした。それは彼女も同じようだ。
「私の自由は全て、人間たちの長『最後の王』に許可されていたこと…。この世界、色んなことが沢山隠されている。私はそれが知りたかった。だからこうしてここまで来た。だけど…。」
彼女の中で何かが引っかかっているようだった。僕もそれは同じだった。僕らが押し黙っていると尾っぽが廊下に顔を出した。話が一段落したのを待っていたのだろう。
「じいさんが死んだよ。」
あっけらかんと尾っぽが言った。驚いていたのは僕だけのようだ。彼女は彼の寿命が近いことを知っていたのだろう。
「あの猫の奴が来てくれてよかったよ。連絡する手間が省ける。」
店主と話しているのはもしかしてこのこともだろうか。尾っぽは握った手を差し出した。彼女はそれに検討が付いてないようで素直の掌を出す。
「これをアンタにって。」
そして、彼女の掌には黒い宝石が置かれた。彼女の瞳が大きく見開かれた。
『人間』と『宝石』で思いつくの事は一つしかなかった。銀のネックレス。僕らが人間たちに贈った保護の証。だが今その意味は変わった。
「じいさんは分かっていたみたいだ。あんたが…次の王だって。」
彼女の首にかかる宝石は五つだ。六つ目の宝石を手に入れた彼女は、人間の中でも特別になってしまった。
「俺達はもうお前たちに手を出さない。また服従するよ。」
僕に伝わる彼女の感情は複雑だった。驚き、戸惑い、悲しみ、怒り、消沈。彼女の中で多くの感情が渦巻いて頭が少し痛くなった。
「…これが…これが目当てだったのね…だから私を自由にさせたの…。」
あぁっと彼女はその宝石を両手で包んでしゃがみこんでしまった。尾っぽはその様子を見下ろしていた。声をかけるのは自分ではないと分かっているのだ。今、ベイク達は彼女に服従した。以前のような関係ではなくなったのは明らかだった。
僕は迷った。今彼女は、ミックスだけではなくベイクの上にも立つ存在になった。彼女は何時も近付いたと思えば遠くに行ってしまう。何度も何度も。
僕は尾っぽを見た。彼も僕がどうするのか見ていた。僕は、兄のときのように自分の中で逃げろと警告しているのを感じていた。だが、僕の心はここに来て彼女から真実を聞いたことでもう決まっていた。
「君の願いを叶えたい。」
震える彼女の肩に手を置いた。彼女の願いを叶えたい、この世界の秘密を聞くのだ。僕にとっての当たり前は、彼女と出会って普通ではなくなってしまった。あの時、彼女ともう二度と関わらない選択が出来たはずだった。だがそれをしなかったのは、僕がこの先を知りたいと強く思い可能性が消えることを危惧したからだろう。
「僕も…知りたい。」
秘密を聞いたとき僕らはどうなってしまうのだろうか。だが僕の中で、あの教室で感じた時のように二つの血が一つになりもう逃げないと強く思えた。逃げろと言う警告ももう感じなかった。
そして、もう昔の自分には戻れないこともよく分かっていた。
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