第二話 「怒れる彼女は手を添える」

 あの大学祭の夜は、端から見ればまるで悪夢のような一夜であった。

 

 「最後の子」の影響力によって皆は理性のタガが外れ、ただ喜びだけを求める夜であった。マスコミが自由に彼女のことを書ければ今頃追い掛け回されてしまうネタだろう。しかし当の大学生たちはあんな日のことは初めてだと武勇伝のように皆に語っていた。刺激の少ないこの大学で、若い僕らはあんなことがあればそれだけでちょっとした人気者になれたのだ。

 そんな皆の熱狂とは裏腹に彼女は大学祭の数日後、その姿を消した。慌てて僕は大学に彼女のことを問い合わせようとした。このことが問題になって退学処分にされてしまうかと危惧したのだ。だがその前に彼女から連絡が来た。しかも尾張からではなく、彼女からの連絡だったのだ。こんなことは初めてだった。

「大丈夫、すぐにまた会えるから。」

 そう僕に伝えてから彼女は電話を切った。僕は不思議とあの時のような寂しさは感じなかった。その電話以外に彼女からの連絡はなかったというのに僕は彼女の言葉を信じた。きっと彼女はまた僕の前に現れる。

しかし彼女は現れなかった。講義はずっと欠席続きで、彼女が好きそうな内容になるたびに残念に思った。彼女のことを考えると僕は真面目に講義に出席せざるを得なかった。お陰で最後の試験やレポートは余裕で終わらせることが出来た。彼女の単位を心配したが、退学に成らなかったことだけでも奇跡だと僕は思った。

「君、君。」

 夏季休暇前の最後の講義で、教授の一人が僕を呼んだ。

「これ、あの子に渡しておいて。」

 そう教授が差し出したのは、この講義のレポートに関するプリントだった。しかしそれは夏季休暇に入る僕らには渡されては居ない。

「彼女、忙しいだろうけどそれを提出してくれたら単位考えるから。」

「っ。」

 僕は嬉しくて何故か頭を下げてお礼を言ってしまった。そしてそんなことが他の講義でもあった。彼女が「最後の子」だからの特別処置かもしれないが、彼らは彼女が一生懸命に講義に出ていることが伝わっていたのだ。

 こうなったら僕はなんとしても夏季休暇中に彼女に会わなければならないと思った。ダメ元で尾張に連絡を取ったが相変わらず何も返答はなかった。そして僕は、寮を出て実家に暫く帰らなければならなくなった。流石に彼女を待って寮に居続けることは出来なかったのだ。僕は返事が来ない事は分かってはいても、尾張の連絡先に実家の住所を送った。誰かに取りに来させるか郵送したいとも添えた。

「はぁ…家か…。」

送った後に荷造りを始めなければならなかった、実家に帰るのは気が重かったが仕方がない。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 平日昼間の電車は人が少ないが、荷物が多い僕には有難かった。部屋の中を掃除していたら、昼頃には寮を出るはずがずるずると伸びてしまった。僕が漸く荷物を纏め寮から出ていこうとするとそれを見た友人たちが話しかけてきた。

「おーえらいな帰るのか。」

「流石に長期休みは顔くらい見せないと。」

「そうか、土産でも頼むよ。俺は無理だな。」

「俺も、俺も。シラケちまうよ。」

ミックスは生まれてくる種族を選べない。この世界の当たり前で単純な話である。昔、とあるミックスの親子が居た。母親が美しい蝶で、その娘たちも美しい羽を持った蝶に生まれてきた。だがその中で一人だけ変わった娘が居た。するどい鎌を持ったカマキリの娘が居たのだ。最初こそは上手くいっていたようだが、その娘が他の姉妹を傷つけたのだ。娘は他の美しい姉妹に対して妬みを持っていた。娘はすぐにその家族からは引き離され、別の場所で生きているらしい。これがミックスの間では誰もが知っている種族違いによる悲劇の例だ。

「ママーまだぁ。」

「もうすぐ着くからね。」

 ミックスの親子が電車に乗っている。子供は獣の尻尾を楽しそうに振って、母親は水かきの付いた手で撫でている。二人は違う種族だったが、とても仲が良さそうだった。

 僕の家族も寮がある大学に決めた時に、誰も反対しなかった。それがどうと言う訳ではないが少し胸に引っかかっている。僕は猛獣一家の中に産まれた牛だ。僕のミックスの血が目覚めた後に、すぐに国の職員が僕をどうするか両親に尋ねた。勿論、僕を他の家に出すかどうかだ。だが母と父は強い人であった、僕を家に残し育ててくれた。僕は家族を大切に思っていた。だがそれでも何処か違うのだ。血縁でも逃れられないこの感覚は、ミックスなら誰もが言葉にせずに分かっている。その証拠に、ミックスの独り立ちはとても早い。結婚も同種族ですることが多いし、似た種族で群れになっている街まである。

 僕は彼女のことを思った。彼女には同じ「最後の子」たちの仲間がいる。だが彼女は余り他の人間たちの話はしない。「最後の国」にも帰らなかった。もしかしたら仲が悪いのだろうか、彼女はとても変わっているみたいだし。だから除け者だった僕に声をかけてくれたのだろうか。人間たちは滅びゆく定めの自分たちをどう思っているのだろうか。

沢山の疑問が頭を巡ったが答えが出ないのは何時ものことだった。何時かこの疑問が全て解決するときが来るのだろうか。

「っ、降りなきゃ。」

 外を眺めている間に最寄り駅に辿り着いた。僕の頭はまだ彼女のことを考えたそうだったが、久しぶりに帰った街並みが珍しかったのと家に帰る緊張ですぐにそのことを忘れてしまった。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 久しぶりに帰った実家は特に代わりは見えなかった。まぁまだ半年も経っていないのだから当たり前だが、やっと寮の生活になれてきた自分には昔の場所に戻されるのは奇妙な感覚だった。自分の部屋もそのままで、時々掃除をしてくれているようだった。

「お土産まで買ってくるなんて、マメな子だね。」

 僕より大きな母親が土産物の箱を開けながら言った。どうやら気に入ったようで中の菓子をバクバク食べていた。一応、大食いの母のために多めに買ってきたのだがあの様子だと一日持つかも怪しくなってきた。

「母さん、夕飯が入らなくなるよ。」

 そう言うのは僕の父で、豹のミックスだ。怖い顔をしているが何も怒っているわけではない。むしろこの家で唯一物静かだ。僕は昔から父が何を考えているか分からなかったが少なくとも嫌いではなかった。

「でも、ほらこれ美味しいのよ。」

 そう言って母は、大きな体を近付けて父の口に菓子を突っ込んだ。驚いた表情を一瞬見せた父だったが、頬張ると何度か咀嚼して「美味いな。」と一言だけ呟いた。

「…私達の好みに合わせてくれたみたいだね。」

 母の言葉に僕は少し照れた。確かに、僕と他の家族だと味覚が違うのだ。昔から母はそれを気にしていてくれて家族の中で一人だけ食べ物が違う僕を気の毒に思ってくれていた。年頃のころはそれが嫌だったが、もう感謝しかない。

 家族が大切なのだ。家族も僕を大切に思ってくれているのが分かる。だから、心配をかけたくなくて高校での虐めも打ち明けられなかったし「彼女」のことも詳しくは話していない。だが彼女と会えて、僕にも流れているはずの人間の血を意識するようになった。そうでなければ、きっと実家に帰ろうとは思えなかっただろう。この暖かな気持ちは彼女のお陰だった。

「しかし、お兄ちゃん遅いわねぇ。」

「家族で食事をするぞと連絡したのだがな。」

 ビクッと僕の体が本能で跳ねた。確かに僕は「牛」ではなく「人間」の血で家族に接しようとしてきた。今もそうしているはずだがそれでもどっちの血でも恐怖心を覚えてしまう。 

「帰ってきたな。」

車が車庫に入る音が聞こえ、すぐに玄関が開く音がした。懐かしい。昔からこの音が苦手だった。自分はもう大学生でこの家も出ているはずなのに、それでも心が昔に戻ってしまう。大股の荒っぽい足音が聞こえてこのリビングに兄は姿を現した。

黄金のタテガミ、鋭い眼光、大きな体に強者の雰囲気。父や母のミックスとしての血を確かに強く引き継いだその姿は僕が生まれてからずっと見続けたものだ。きっとどれだけ経っても兄は変わらない。兄は僕を見てその表情を変えずに言った。

「なんだ、帰っていたのか。」

 僕は兄が怖いのだ。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 兄に恐怖心を持ったのは何時からだろうか。兄とは五つ離れた兄弟だった。幼いころは兄に憧れた、自分は牛だけどきっと家族のような強いミックスになれるのだと。だが世間の目はそうはいかない。僕の家族構成を知ると悪気のない言葉が返ってくる。

「まぁ、じゃあ息子さん達は大変ね。」

 その言葉は僕らの間で、何度も重ねられて大きな壁になってしまった。僕が卑屈になって距離を置いたのが先立ったか、兄が僕を見限ったのが先だったのか今はもう分からない。兄と僕はそのまま成長して、世間一般の別種族のミックス兄弟になった。誰も僕らのことを悪くは言わないだろう。

兄が帰ってきてから僕は実家に帰ってきたことを後悔し始めていた。両親に悪いと思って顔だけでも見せようと帰ってきたのだがもう寮に戻りたい気持ちでいっぱいだった。食事は楽しそうに食べていたが僕と兄の間で会話はない。まるで僕らは互いに存在しないようだった。そんな食事を僕が帰ってきてから何度もした。僕と兄は互いに干渉をしなかった。僕は地元に友人と呼べる相手はいないので日がな毎日、暇を持て余した。大学の課題やレポートをこなして、つまらないテレビ番組をみたり街なかをぶらりと散歩をしたりした。携帯が鳴ることもないし僕は早めに寮に戻る算段をつけていた。両親には悪いが、矢張りここには僕の居場所だと思えなかった。

 そんなある日、家のチャイムが鳴った。母は家事をしていたし、父や兄はソファで寛いでいた。なので自動的に僕が対応することになる。時計を見るともう夜の九時過ぎである。一体誰だろうと不思議に思いドアをあけると、

「牛くん!」

 夢幻ではないかと疑った。彼女が僕の家の前にいたのだ。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 両親に事情を話してとりあえず僕の部屋に彼女を通した。尾張の姿も見えたので一応声をかけたが車内で待機しているということだ。僕もこれには正直ホッとした。両親は彼女の姿を心底驚いているようだった。お茶と菓子を持ってきた母は、これは食べられるのか体に害はないのかと難度も僕に確認をとるし父は嬉しげに彼女と写メを撮っていた。

 当の彼女は僕の家族が見られたことが嬉しかったらしい。夜遅くだと言うのに笑顔がキラキラ輝いていた。僕は何とか二人きりになり、彼女に来訪の訳を尋ねると課題を取りに来たのだといった。ここで漸く僕は尾張に送った実家の住所を思い出した。僕は確かに課題があるから取りに来いと言ったがそれは尾張に対してだ。まさか、彼女自身が取りに来るなど誰が思えただろうか。

 僕は色々言いたい気持ちがあったがグッと堪えて、持ってきていた課題を出した。救済措置の課題は量も勿論それなりで土産の次に重かった荷物がこれであった。

「凄い数…。」

「教授達が君のために用意したんだよ。」

「それは…嬉しい…けど…。」

 ペラペラと概要のプリントを見ている彼女は難しい顔をしていた。それもそのはずだ、彼女は何回まともに講義に出られただろうか。少なくとも出席数ですら足りていない。それを課題で何とかしてやろうと言う、大学側の措置は平等ではないかもしれないがこの際細かい文句を言うつもりもない。

「基本的にレポートばかりだから、論文を集めてそれを注釈して…。」

「そっちはまだ何とかなりそう…かしら…。」

 彼女の険しい表情は変わらない。不安と焦りが僕にも伝わってくる。それは真剣に彼女が悩んでいる証拠で、けして面倒に思っているわけでないのはそれから分かってきた。だから僕は彼女を助けたいと思ったのだ。

「僕が手伝おうか。」

 僕の言葉に彼女の黒い瞳がぱちぱちと何度か瞬きをした。驚いているのだ、だがすぐにそれは優しい微笑みに変わった。

「お願いします。」

 そう彼女は小さく頭を下げた。前の彼女だったらこの提案を断ったかもしれない。あの文化祭の夜からどうも彼女は遠慮というものが減った気がする。勿論、いい意味でだ。「最後の子」と「ミックス」お互いの影響力のせいだろうか、短い期間だというのに僕らは長年、見知った友人のように接することが出来た。

「また、明日。」

 彼女の来訪は、一時間にも満たなかったがまるで一晩中いたような気分だった。僕の両親に挨拶を交わして明日からの来訪の許可を取った。両親は「最後の子」が家に来るなんてと好奇な感情を隠すことなく喜んでいた。猛獣の両親の前でも彼女は凛とし笑顔を崩さなかった。

そして尾張が待っていた車に乗り込むと彼女は嬉しそうに手を振りながら帰っていった。彼女が去った後、僕はしばらく彼女が消えた暗い道を眺めていた。彼女が来訪して僕の胸にあった居心地の悪さが何処かへいってしまったのだ。僕は彼女が入った自宅を見上げる。ここも彼女のテリトリーなのだ。僕がずっと居ても馴染めなかったこの場所でも彼女は人間として感情を臆することなくさらけ出していた。それが彼女には出来るのだ。このミックス社会の中の食物連鎖の頂点から僕らを見下ろしている彼女。その自由さが僕にはとても心地よかった。

僕は流石に肌寒さを覚えて家の中へ戻ろうとした。だがそこには、兄が居た。兄はまるで微睡みの中に居るように、惚けた表情を浮かべて突っ立っていた。

「アレは。」

 兄が言った。僕は兄の目線の先が僕と同じ彼女が去った方に向いているのに気が付いた。

「彼女は「最後の子」だよ。」

「…アレが人間。」

 僕の言葉を聞いて、兄は目線を漸く僕に映した。だがそれは僕が見たどんな兄の瞳より美しく輝いてそして恐ろしかった。




▲▽▲▽▲▽▲▽



 兄の様子がおかしい。それは彼女に影響されたのは明らかだった。かと言ってあの大学祭のように狂乱するわけでも、僕のときのように我慢をしなくなったわけでもない。兄は僕に彼女の行動を一々僕に尋ねてくるのだ。

「彼女はどうだった。」

 課題のために昼から夕方まで僕の部屋に来る彼女は兄と出会うことはない。兄が最後に彼女を見たのは最初のあの夜だけだった。だが彼女は普段なら干渉しないようにする僕に喜々として話しかけて彼女の様子を尋ねてきた。そして僕がそれに答えるとそれをあの夜のように瞳を輝かせて耳を傾けるのだ。

 兄がどう影響されているのか僕には分からなかった。彼女にそれとなく尋ねたが、彼女はむしろ兄が居たことに驚いていた。ということは、彼女から兄へ接触したわけではなく兄が勝手に彼女に影響されたということになる。挨拶した方がいいかと呑気に僕に尋ねてくる彼女を止めて僕は増々分からなくなってしまった。

次第に僕は、別に兄が影響されていてもいいのではないかと思い始めた。今までも影響されたミックスはそれが解けるまでは放置のようだったし、何よりあの自尊心の塊のような兄がとても愛想がよくなった。上機嫌でたまに土産なんかを買ってきていた。服装も心なしかお洒落になっているような気がする。

「最近、あの子食事を残すのよ。」

 母が朝食を片付けながら言った。確かに僕より先に家から出ていった兄の分が、殆ど手付かずで残っていた。家での食事だけでは足りず買い食いまでする食欲旺盛の兄が食事を残すのはとても珍しいことだった。

「それに思い詰めた表情を時々するし、気になる子でも出来たのかしら。」

 えっと僕は母の言葉を頭で繰り返した。まさか、そんなあの兄が。昔から兄は自分が一番好きだった。獅子の姿に憧れて兄へ求愛する人も居たが、それらを全て跳ね除けてきたのだ。そして今一流企業に就職をして順風満々な生活を送っているのだ。しかし、その母の言葉を何度も何度も頭で繰り返すうちにそれは次第に確信へと変わっていった。

「兄さんは、君が好きなのかも。」

 そう課題中の彼女に打ち明けてみた。すると彼女は特に大きなリアクションはしなかった。言われた言葉の意味が上手く汲み取れなかったようで不思議そうな顔をしていた。

「貴方のお兄さんが、私を?」

「うん。」

 僕はこれまでの経緯を彼女に話した。彼女はミックスが人間に惚れたという話を馬鹿にするわけでもなく最後まで真剣に聞いていた。課題もこれ位、集中してほしいなと話を振ったのは僕だというのに思わずには居られなかった。話を終えてまず彼女はこう言った。

「そういうこともあるかもしれない。」

 次は僕が上手く言葉を汲み取れなかった。つまりだ、彼女の言うことは人間とミックスは互いにどう影響されるかは実際にされてみる限り分からないそうだ。僕が彼女に怯えることも、別のミックスにとっては喜びになるかもしれない。だから偶々兄が彼女に対して「好意」を持ってもそれは別におかしいことではないのだと言う。

 僕は納得しようとしたがどうにも腑に落ちなかった。僕が聞きたかったことと彼女の回答はずれていたのだ。確かに「何故、兄が君に惚れたのか。」という問題は答えて貰えた。だが次だ。

「もし兄さんが君を好きだとしたら君はどうするの。」

 僕の直球な質問に、彼女は課題から目を離すこともなく言った。

「尾張に報告する。」

 人間に影響してしまったミックスは尾張に報告する決まりになっている。それは何時も僕ともしている約束のはずだ。だが僕の心は冷めていった。兄の好意は彼女にとって他のミックスが影響された事と変わりはないのだ。そう思うと「最後の子」に恋をした兄が哀れに思えてきた。自分のことを無下にしてきたとは言え、血の繋がった兄なのだ。

 兄の様子は変わないままだった。いや、むしろ日に日に酷くなっていった。まず食事をしっかりと取らないままだった。僕が側に居ても何時ものように鋭い様子がなく、心ここに在らずという感じだった。母や父は、昔から楽観的なので遅くきた思春期だとか笑っていたが原因を知っている僕は気がかりでしかたなかった。

彼女とは家ではなく近所の図書館で会うようにした。僕が兄のことが心配なのだと伝えると彼女は頷き承諾した。

「分かった。」

 やはり彼女は淡白だった。尾張に彼女が伝えたのか、図書館では普段使わない書庫を利用していいと言われた。僕もこれ以上、何か起こるのは避けたかったので有難かった。僕は尾張に兄のことを話したのかと聞いたら、まだだと答えた。

「どうして欲しい?」

 きっと彼女は僕の答えを分かっていたのだろう、だから僕が問いかけた今まで尾張に言わないでくれたに違いない。僕は兄のことを考えた。兄のあの高慢な態度を思い出し、影響されたと知ったときのことを考えた。兄のプライドは傷つくだろう。

「言わないで欲しい。」

 僕がそう言うと彼女は、それ以上は何も言わずに頷いた。兄は「最後の子」に影響されたのだ。それなら彼女に会わなければきっと元に戻る。僕はそう信じた。だけど僕の考えは何処までも甘かったのだ。

 何日かの図書館通いのお陰で僕の課題は全て終わり、彼女も漸く終わりが見えてきた。彼女は講義に出席できなかっただけで聡明だったために僕は思いの外、楽に彼女を助けることができた。

何時ものように図書館から出て、彼女と迎えの尾張が来るまで待つつもりだった。だがその日、僕は借りたい図書があった為に彼女に先に外に居るようにお願いした。もし尾張が来たのならそのまま帰れるし、図書館の中に居るよりはミックスとの接触がないと思ったのだ。僕が用事を済ませて外に出た。そこには尾張の車と、彼女がいた。いや、そしてもう一人。

 兄と彼女が外で話していた。僕はどきりとした。兄は仕事のスーツ姿で彼女に熱っぽく話しかけている。どうしてこの場所が分かったのだろうか。兄は仕事をどうしたのだろうか。何を話しているのだろうか。様々な疑問が頭の中で湧き上がったが、僕は二人を見ているしか出来なかった。

彼女は話しかける兄に対して笑顔で応えていた。だが僕はそれが彼女の心からの笑顔でないことが分かった。僕の話を聞いている彼女は兄との接触を極力避けたいのか、僕の姿を見ると手を振って車内に乗り込んだ。車内では尾張が鋭い目つきで僕と兄を見ていた。彼女が去ったあと、兄はまたあの目で見つめていた。僕は、背中に嫌な汗をかいていた。兄は去っていった。僕のことなど眼中にないのだ。このままだと何か良くないことが起こるような気がしたのだ。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 僕は兄と話そうと思った。彼女の影響力のことを上手く説明出来るかは分からないが、それでも尾張に伝えて大事になるよりは兄を傷付けないと思ったのだ。僕は彼女に今日は来ないで欲しいと連絡をした。何時もは出ないはずの緊急連絡先に電話をしたら尾張が出たのだ。詳細を説明することが出来ず取り敢えず僕に用事が出来たと適当な嘘を付いた。嘘が付き慣れてない僕は大変、言動が怪しかったかもしれないが尾張は用件を聞くとすぐに電話を切った。この時ばかりは冷たい態度の尾張でよかったと思った。あとは、兄と話をするだけである。

「これで…何とかなるかな。」

「何がだ。」

 え、っと思ったときにはもう遅かった。

口の中で血の味がして僕の体は床に倒れ込んだ。見慣れた僕の部屋の床。兄が僕を殴ったのだと気が付くには少し時間がかかった。それから何も抵抗できないまま何か棒のようなもので何度も殴られた。何が起きているのだろうか。兄は、確かに僕が嫌いなのかもしれない。でもここまで理不尽な暴力を受けることはなかった。僕が痛みに耐えていると漸く暴力が止まった。意識は失わずに済んだが、痛む体が辛い。だが見上げた兄はもって辛そうな顔をしていた。

「俺は…俺は我慢した。あぁ我慢した。だが、もう…。」

 がりがりと兄が何時もは整えているはずの爪で壁を掻いた。何度も掻いているせいで壁紙は無残に剥がれ無残に爪痕が付いていく。

「彼女が…。」

 涎を垂らし法悦の表情を浮かべた兄の姿など今まで一度も見たことはなかった。感情を曝け出しそこに居るのが兄なのか僕の頭は混乱した。だがそんな頭でもこれだけは分かった。兄は、彼女に惹かれている。だがそれは愛とはとても言えない。

「食べたい。」

兄は彼女を捕食したいと望んでいたのだ。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 血と暴力の跡があった。兄に部屋から引きずられた僕はリビングのソファで寝転がっていた。父さんがお気に入りのソファに自分の血が付いてしまって後で何と説明しようと僕は他人事のように考えていた。兄は僕のことを縛ろうともせずにまるで物のように僕を放置した。そして僕のことを忘れてしまったようで、部屋の中をうろうろしていた。兄は本能のままに僕に危害を加えたとしか思えなかった。彼女から兄への影響はこんなにも進んでいたのだ。

「彼女は来ないのか。」

 独り言だが、それが僕に暴力を働いた引き金だろう。僕が尾張に電話していたのを聞いていたのだ。そして彼女と兄の間を引き離そうとしている僕に敵意を向けたのだ。僕はそんな兄の姿が衝撃で哀れでもうどうしたらいいか分からなかった。あの時、彼女に兄のことを託せばこうならなかったのかもしれない。だがもう遅い。僕に出来ることは無くなってしまった。

「牛くん。」

 どうして彼女は来てしまうのだ。リビングのドアを開いて彼女が家の中に居た。その後ろには尾張の姿も見えた。彼女はきっと尾張に全てを話したのだろう。

「お前は、何で、そんな姿をしている。」

 彼女を見つけて、兄は言った。僕も尾張も兄の目にはない。

「俺の頭の中にはお前しかいない。」

 兄が獣に見えた。今まで兄の背中を見てきた。見るだけだったがそれでも確かに「兄」だったのだ。だが今は誰だ。

「お前、を、食べれば。」

 僕の前に居る哀れな獣は誰だろう。

「兄さん。」

 僕は声を絞り出した。

「負けないで。」

 あの時の僕は、溢れる両方の血に従った。本能のままに暴れたのだ。だが今、兄はそれをするべきではない、それをしてはいけない。僕は懇願するように兄へと声を送った。だが兄の様子は変わらない、そのギラギラした瞳は彼女へ向けられている。それならばせめて彼女に逃げて欲しいと僕は、痛む体を何とか彼女の方へ向けた。だが声をかけることが出来なかった。

「牛くん、大丈夫?」

 彼女は僕を気遣う言葉をかけてくれた。だが僕はその返事が出来なかった。頭の中で警鐘が鳴り響く。ここに居ては駄目だと僕の中の血が騒ぐ。それは兄のせいではなかった。高校でのあの時、唐揚げを食べる彼女を見て嗚咽したように僕は震え上がった。

彼女は怒っていた。

 尾張は何もしない。彼女の後ろでその様子を見ている。彼女は兄に近付いた。兄も近付いてきた彼女に興奮して息が荒く涎まで垂らしていた。兄が獣になってしまう。僕は目の前で起こる悲劇や彼女の怒りを感じて叫びそうになった。だが彼女は食われなかった。それどころか兄との距離を一方的に詰めて目の前に立った。

 そして兄を

「悪い子。」

ひと撫でした。

 よく分からなかった。彼女が兄の頭を撫で、そのすぐに先程まで熱り立っていた兄が膝を付いて寝そべってしまったのだ。

「何を…したの。」

 僕は彼女に問いた。

「分からない。」

 彼女は僕と兄を見下ろして言った。





▲▽▲▽▲▽▲▽



 尾張の後始末は迅速で手慣れていた。自宅の修繕、僕の家族への謝罪と説明。勿論、全てが内密に行われた。僕はその姿に「最後の子」たちが起こす影響力での事件のことを考えた。高校のときに、確かに同じような説明を受けた。だが何処か自分にはそんな惨劇は無関係のように思っていたのだ。そんなわけがない、僕らはミックスだ。そして彼女は人間なのだ。

僕は尾張に彼女が最後、兄にしたことを聞いた。だが尾張は、自分が麻酔銃を撃ったのだと言った。そんなわけが無かった。あの時、尾張は確かに後ろで護衛こそしていたが始終様子見に徹していたし撃った素振りなどなかった。だがこれ以上は聞くなと尾張や処理をする他の護衛たちの圧を感じそれ以上は問いただせなかった。

兄は彼女の影響力に付いて説明を受け、暫くは自宅にくる医師にメンタルケアをしてもらわないといけないらしい。兄の様子は落ち着いていた。前のような傲慢さはなく、かといってあの時みた獣の激高も見えなかった。兄がもし彼女に手を出していたら、それは隠しきれない大事になっていたかもしれない。そもそも兄はもうこの家に居られなかっただろう。

僕は彼女と話が出来なかった。彼女が怖かったのだ。彼女が怒ってくれたのは、僕のためというのは分かっている。だがそれでも、あの時兄に触れた彼女が忘れられなかった。彼女は矢張り僕の知らない生き物なのだ。一緒に居ていいものじゃない。僕が怖気づいているのが尾張には伝わったのか、そのまま彼女に一目も合わせず帰っていってしまった。僕は大きな消失感と安堵感に泥のようにその日は眠った。

「明日、寮に戻るよ。」

 あんな事件があって家にいることは出来なかった。僕が寮に戻ると両親に伝えると、有り難いことに二人はあのときのことは気にしなくていいと言ってくれた。流石、牛の自分をこの家庭で育てきった両親だと思った。だが僕が耐えられなかったのだ。僕が荷造りをしていると、彼女のペンケースが出てきた。忘れてしまったのだろう。だが僕はそれを連絡して返してあげようという気持ちはなかった。何だかもう二度と彼女には会わない気がしたのだ。僕の中の、牛の血が彼女に怯えきってしまっているのだ。これは時が癒やしてくれるかは分からなかった。

 玄関で靴を履いていると、スウェット姿の兄が話しかけてきた。僕は兄に話しかけられずに居たので慌てて荷物をぶち撒けてしまった。それを兄は一緒に拾ってくれた。心なしか兄を取り巻く雰囲気が優しげになっていた。全て拾い詰めた後に、兄は両親と同じように気にするなと言った。そして迷惑をかけたとも。その表情は昔、まだ僕を牛だと馬鹿にしなかった頃の優しい兄のものだった。

「また帰ってこい。」

 僕は気が付いた。兄はあの時、あの瞬間に食べられてしまったのだ。大きく膨らんだ「獣」を彼女に捕食されてしまったのだ。獣の兄は彼女の中で噛み砕かれすり潰され飲み込まれてしまった。今の兄に僕は「人間」の血を強く感じていた。

「うん、また来る。」

 少しだけ、ほんの少しだけ。兄が羨ましいと思った。

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