象牙のフォーク

トーヤ

象牙のフォーク

息を停めてはいけない。

なだらかな呼吸の波型線はけいせんをなぞるようにそれを吐き出してゆく。


そして吸った息の半分まで吐いたところを見計らって指を落とす。

コンサトリックなりんと広がる。


静かな火花が水の上に散り始める。

それは次第に輝きを強めると、湖の一面を黄昏たそがれの燃え上がるような風景に包みこんでゆく。


すると突然、内奥ないおうに響き渡る重々しい一打が振り下ろされ、左手の複雑な軌跡がみるみるうちに雷雲らいうんを引き連れて駆け上がってきた。


そこで一瞬の静寂。


嵐の前の静けさを思わせる、鳥たちの声の絶えた暗い野原の只中にわたしは座っている。


腕を伸ばして眸をつむり呼吸を整え、バネのように指を打ち出して次の打撃を加え、黒瑪瑙オニキスのように輝くこの楽器のもっとも高い鍵盤から鋭い音を引き出し右手をなだれ落とした。


わたしの内で心臓が落ち着いたリズムを刻んでいる。


これでいい。このまま恍惚とした雷鳴のモティーフをとどろかせ、観客席のほうにまで稲光をひらめかせる。


それから一転してわたしは柔らかな花びらをまいてゆくように指の生み出す揺らぎを輝く黒檀こくたんの箱全体に送りだす。


骨と肉の織り上げた身体の隅々まで楽器との継ぎ目を消し去って、わたしは滴り落ちる音の木霊こだまに身を任せ、この室内を満たす音律の高鳴りと減衰する和音の波間を泳ぎ出てゆく。


そうだ、この制御され緻密に組みたてられた自由の中にあって、劇場すらも鍵盤の一部なのだ。


入り組んだ弦を打ち出してゆくハンマーを象牙のフォークで操り、小刻みなアルペッジョで重なり合う雨の波紋のように身の回りの空気をやさしく揺らしながら、目の前で聞き入る人々に右手でモティーフとなる主旋律を春の雨のように注いでいく。


最後の旋律を弾き終えたころ色とりどりの光を瞬かせながら打ち寄せては引いてゆく波の底にわたしは体を沈めていた。


まだうねりが楽器のなかで取り残されている。


最後の一音に指を浸したまま、わたしは割れるような拍手の中を漂っている。

あたかも肉体を脱ぎ捨てる儀式を終えたかのように。


わたしは再びそれをまとい直し、眸に焦点を取り戻すと椅子をひいてゆっくりと立ち上がった。

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象牙のフォーク トーヤ @toya-ryuji

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