第11話 雨空の下で


 雨、強くなってきたな。

 その日の夕方、俺は電気もつけてない薄暗い部屋で、ぼんやりとそんな無意味な事を考えた。

 本来今日は待ちに待った大切な日、定期ライヴの日だった。本当なら今頃俺は会場に集合し、リハーサルをしていただろう。

 でも、俺は会場であるミュージックハウス翼には行かなかった。

 奈々から家電に電話が掛かってきたけど、『悪い、行けなくなった』とだけ告げて電話を切った。


 ――ライヴに行かなくていいのか。


 ――治、あんなに一生懸命練習してたじゃない。


 じいちゃんやばあちゃんからもそう言われた。でも、俺は力なく『もういいんだ』と答えるしかなかった。


「……」


 ふと、俺は部屋の隅に無造作に置かれたドラムスティックに視線を向けた。俺のマイスティックだ。

 ライヴに未練が無かっただなんて嘘はつけない。俺だってずっと楽しみにしていた、この日を待ち望んでいたんだから。

 それに今、仲間達は俺が来るのを待っているんだ。奈々もリアムも、光彦も……行かないという事は、あいつらを裏切る事に等しい。バンドリーダーである前に、人間として理に反する。

 今から行けば、まだ間に合う……俺はスティックに手を伸ばした。その瞬間だった。


「っ!」


 俺は思わず声を上げてしまった。

 ドラムスティックに触れようとしていた俺の右手……いや、右手だけに留まらない。手首から腕にかけて、真っ赤な血痕が無数に付いていたんだ。これは、愛歌の……!?

 次の瞬間、


“愛歌の命を無駄に削らせて、私はあなたを赦さないわ。二度と娘に変な事を吹き込まないで!”


“あなたとなんて話したくもない、もう私に関わらないで!”


 俺を糾弾する愛歌と、愛歌の母さんの言葉が脳裏に蘇った。言葉だけじゃなく、俺に向けられた憎しみの眼差しまでもが、鮮明に浮かぶ。

 そして同時に、寒くもないのに右手が震え始める。

 なんだよこれ、なんだってんだ……!


「ひっ!」


 得体の知れない恐怖を振り払うように、俺は右手を横に振って頭を膝に埋める。いつの間にか浮かんだ汗が頬を伝うのが分かった。ドラムスティックから右手を遠ざけると、もう手の震えは止まった。血痕もついてなかった。

 今のは幻……?

 もう何も分からなくて、俺は座り込んだまま、何もかもを拒むように顔を膝に伏せる。

 視界を真っ暗にしたまま、何もせずにいた。

 気が遠くなるほどの時間、そうしていたんだと思う。突然、部屋のドアがノックされた。何も声を出さないでいると、ドアがゆっくりと開かれる気配がした。


「治……」


 じいちゃんの声だった、俺は膝に顔を伏せたまま、何も返事をしなかった。

 気遣うような優しい声で、告げられる。


「奈々ちゃんが来てるぞ」


 俺は顔を上げた。

 じいちゃんはそれ以上何も言わなかった。沈黙という形で、俺に答えを委ねているようだった。

 雨音にすら劣るかもしれない程の小さな声で、俺は応じる。


「今行く」


 無視すればよかったと思う。でもどうしてだか、俺は奈々と会わなければいけない気がした。

 何を話せばいいのか? 分からない。ライヴをすっぽかした手前、どんな顔をして奈々の前に出ればいいのか……見当すらつかない。

 ずぶ濡れの傘を片手に提げて、奈々は玄関に立っていた。扉は開いたままになっていて、彼女の後ろにはどしゃ降りの雨が見える。奈々の家はうちとは逆方向だ、彼女はこんな雨の中、わざわざ俺の家まで歩いて来たんだ。

 奈々の面持ちは悲しげだった。その理由を察した俺は、彼女と目を合わせられなくて、視線を外す。

 俺も奈々も何も言わなくて、雨音だけが鳴り渡る。


「……皆、来てくれたよ」


 沈黙を破ったのは、奈々の方だった。


「小畑に新藤に大川、石塚さんや臼田さん、富山さんも、私達のライヴを観に来てくれた……」


 クラスメイトや、俺ら以外にミュージックハウス翼に出入りしている人達の名前だ。

 ライヴに行かなかった事で、俺は彼らをも裏切った。罪悪感が込み上がって、俺は思わず話題を逸らす。


「ライヴはちゃんとやれたのか? その、俺が行かなくても……」


 何言ってんだ、と自分自身で思った。他に言わなきゃいけない事があるだろうが。


「やっちさんが代役でドラム叩いてくれたから、ライヴはやりきれたよ」


 やっちさん……俺はあの人も裏切っちまった。

 ライヴは出来たということで少しばかりの安心感を覚えて、俺は呟いた。


「そっか、よかった……」


 その時だった。


「よくなんかないよ!」


 押し込めていた感情を吐き出すように、奈々がそう叫んだんだ。

 その瞳が潤んでいるのは……雨のせいだろうか。


「確かにやっちさんが代わりになってくれたお陰でライヴは出来た、でもあたし達のバンドのドラマーは治しかいないの、治のドラミングがあってこそ、あたし達は全力で演奏出来るの!」


 胸が締め付けられる思いになって、一時でも安心感を覚えた自分が恥ずかしくなる。


「治、どうして来なかったの……?」


 理由はあった、でも言えなかった。

 逃げるように奈々から視線を外し、俺は答える。


「奈々、悪い……」


 どうにか出した声は、雨音に吸い込まれてしまいそうなほどに小さかった。


「俺……バンド辞めるわ」


「どうして!」


 俺が出した答えを語ると、奈々がまた声を張り上げた。

 こんなことは俺だって言いたくない。だけどもう、これしかない。

 玄関の隅を見つめながら、俺は言う。


「だ、ダメなんだ……もう、ダメなんだ……」


 愛歌の母さんと、愛歌に言われた言葉が今も頭を巡っていた。俺はとんでもないことをしちまった。独りよがりな正義感で愛歌だけじゃなく、愛歌の母さんまで傷付けてしまった。

 ドラムが嫌いになった訳じゃないし、バンドを辞める事が罪滅ぼしになるだなんて思っちゃいない、でも俺には、もうバンドを続けていられない。

 奈々は何も言わずに踵を返した。

 玄関から出て傘を差す、その最中で彼女は振り返り、俺に問うた。


「愛歌さんのことが原因なんでしょ、そうだよね治……?」


 俺は視線を外したまま、何も言わなかった。

 少しの間の後で、奈々が走り去る足音が聞こえて、恐る恐る向き直ったら、もう玄関に奈々の姿はなかった。


「治……」


 いつからそこにいたのか、じいちゃんが俺に声をかけた。でも俺はただ下を向いたままじいちゃんの横を通り抜けて、自室へ戻った。

 無造作に置かれたドラムスティックが、また俺の目に映る。


 辞めたくなんかない、諦められるわけがない。


 俺はもう一度、ドラムスティックを拾おうとした。

 だけどまたさっきと同じように、自分の右腕が愛歌の血にまみれているような錯覚を覚え、さらに俺を糾弾する愛歌と、愛歌の母さんの言葉が頭をかすめた。


「ひっ!」


 弾かれるように、スティックに向かって伸ばしつつあった右手を引き戻す。

 思わず頭を抱え込んだ。でも、浮かんだ言葉は消えない。やかましく鳴り続ける雨音にもかき消されることはなく、鮮明に残り続けていた。


 大好きなドラムが、叩けなくなっちまった。


 それから数日後、愛歌は別れの言葉もなく転校していった。皮肉にも、俺を糾弾するあの言葉が愛歌と交わした最後の会話になっちまったんだ。

 そして、ドラムを叩けなくなった俺もバンドを去った。奈々を始めとするバンドの皆にも、長年世話になったやっちさんにも、何も告げなかった。どんな顔をして皆の前に出ればいいのか、分からなかったんだ。その後バンドがどうなったのか、俺は知らない。

 ドラムを辞めた後、俺は学校以外ではあまり外にも出なくなって、人と会話することもめっきり減って……日々をどう過ごしたのかよく覚えていない。

 大切なものが欠如した毎日は驚くほどにつまらなくて、空虚で……それを埋めるためにとりあえず勉強に打ち込んだ。とにかく何かやってないと、気がおかしくなっちまいそうだったから。

 その甲斐あって、とりあえず中学ではそれなりの成績を保持できて、町の中でトップのレベルの高校に合格できた。じいちゃんとばあちゃんは赤飯を作って祝ってくれて、俺も確かに嬉しかった。

 でも何年経っても愛歌のことや、バンドの皆のことが頭から消えることはなかった。

 未だにドラムスティックに触ろうとするとあの記憶が脳裏をよぎる。手の震えが止まらなくなって得体のしれない恐怖にとらわれ、胸が苦しくなって涙が出そうになっちまう。


 罪悪感を抱えたまま数年……まさか愛歌とまた顔を合わせることになるだなんて、俺は全く予期していなかったんだ。





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