第10話 糾弾と悲哀


「そんな事が……?」


 その日の夕方。

 俺は家で、じいちゃんとばあちゃんに全てを打ち明けた。愛歌が血を吐いた事も、愛歌の母さんに言われた事も……全部。

 話し終えると、じいちゃんもばあちゃんも難しい顔をしたまま、少し黙ってた。

 先に口を開いたのは、ばあちゃんだった。


「愛歌ちゃんは……どうなったの?」


「分からない。愛歌の母さんが車で連れて行って、それっきりだから……」


 ばあちゃんと視線を合わせる事も出来なくて、俺は下を向いたまま答えた。

 その言葉が堰を切ったんだと思う。胸の中に押し込めていた心配や恐怖、他にも色んなものが言葉となって、俺の口から溢れ出た。

 両手の拳をぎゅっと握りながら、俺はじいちゃんに向かって叫んだ。


「なあ、じいちゃん……もしも、もしも愛歌が死んじまったりしたら……!」


 縁起でもない事だったが、想像せずにはいられなかった。


「心配するな、治」


 返されたのは、驚くほどに穏やかな言葉だった。


「お前は独りで苦しんでいた愛歌ちゃんを助けたかったんだろう? 手を差し伸べたんだろう? 例えどんな事になろうとも、お前がその子にした事は決して『悪』なんかじゃない……絶対にだ」


 じいちゃんが立ち上がって俺の傍に歩み寄り、俺の頭を優しくなでる。


「治、お前は優しいな。さすがわしの孫だ」


 俺のした事が正しかったのか、間違いだったのか……どうしても分からない。だけど、じいちゃんがそう言ってくれてほんの少し、気が楽になった。

 その時だった、来客を知らせるインターホンが鳴ったのだ。俺とじいちゃんに先んじて、ばあちゃんが玄関に向かう。


「はい……?」


 一体誰だろうか、と思った。

 玄関と居間を隔てる引き戸を開け、ばあちゃんは土間で靴を履く、そして扉の開く音が聞こえる……その直後、大いに聞き覚えのある声が聞こえた。


「夜分に失礼します、埜上治君はいらっしゃいますか?」


 思わず、俺は息を呑んだ。姿が見えなくても、声を聞いただけで理解するには十分だったんだ。

 ――愛歌の母さんだ。先程向けられた鋭い視線や、冷徹さの滲んだ声が頭に蘇り、恐怖とも何とも分からない感情が全身を覆い包む。


「そこにおりますが……あの、どちら様でしょうか?」


「美玲と申します」


 ばあちゃんが一歩後ろに下がると、愛歌の母さんは一歩前に歩み出た。

 愛歌の母さんが引き戸の陰から出る――ほぼ同時に、居間にいた俺と視線が重なった。俺を視界に捉えた瞬間、愛歌の母さんは目を見開いて「っ……!」と僅かに声を漏らした。

 俺が何も言う事が出来ないでいると、愛歌の母さんが発した。


「愛歌から全部聞いたわよ。どうしてくれるのよ、あなたが愛歌をそそのかして変なバンドなんかに誘ったから……あの子、『なるべく家で大人しくしていろ』っていう私の言いつけも守らないで遊び歩いて、病状を悪化させたのよ!」


「あ……!」


 愛歌をそそのかした? いや、俺はそんな……! 

 憎しみを吐き出すような言葉を投げつけられ、まともに返事も出来ない。


「あのお母さん、苦情なら私達が聞きますから、どうか治には……!」


 じいちゃんが俺を庇ってくれるけど、愛歌の母さんはそれを気に留める様子もなく、俺を責め続ける。


「あなたのせいよ、愛歌が私の言いつけを守らなかったのも、あの子が倒れたのも……! 全部全部、何もかも全て!」


 父さんにも母さんにも、じいちゃんにもばあちゃんにも、ここまで怒号を張られた事はない。

 こんな事は多分初めてだったと思う、心臓が凍り付くような気持ちだった。愛歌の母さんに糾弾され、込み上がる罪悪感に全身が硬直する。


「お母さん、この子はただ……!」


 ばあちゃんの言葉を一蹴するかのように、愛歌の母さんは俺に向かって叫ぶ。


「愛歌の命を無駄に削らせて、私はあなたを赦さないわ。二度と娘に変な事を吹き込まないで!」


 そう言い捨てると、愛歌の母さんは出て行った。玄関扉を乱暴に閉める音が鳴り渡る。

 糸が切れた人形のように、俺はその場に崩れ落ちた。じいちゃんとばあちゃんが俺に何かを言っていた気がしたけど、もう何も聞こえなかった。

 罪悪感に苛まれながら、放心したようにただその場に座り込む事。それが、その時の俺に出来た全ての事だった。



  ◇ ◇ ◇



 俺が愛歌の母さんに糾弾された日の翌日、驚いた事に愛歌は学校に来た。

 その様子はいたって健康で、昨日血を吐いて倒れたとは思えなかった。

 だけど、これまでとはどこか様子が違った。朝、愛歌を見かけた俺は迷いつつも『おはよう』と声をかけた。でも愛歌は俺を蔑視したかと思うと、遠くにいた先生を呼びながら、走り去ってしまった。

 今まではいつも挨拶を返してくれていたのに……あの距離で聞こえなかっただなんて事はないはずだった。

 俺を、無視していたのか……? 頭の中に浮かんだその考えを、俺は必死に振り払った。

 そんな事、思いたくなかった。愛歌がそんな冷たい事するだなんて。

 その日の一時間目の授業は、図画工作の写生の授業だった。校庭に出ておあつらえ向きな花を探してそれを画用紙に描き、後から好みな背景をそれに描き加えるって授業だ。

 スケッチブックを手に、俺は校庭を探索していた――すると前方に、愛歌の姿があった。彼女も自分好みな花を探しているようだった。

 もちろん、俺は躊躇した。でも、俺はどうしても愛歌と話したかった。このままじゃ、全部終わってしまう……そんな気がしたんだ。

 俺は意を決して、彼女を呼んだ。


「愛歌……!」


 最低限、聞こえる程度の声で呼んだ。

 愛歌が俺を振り向く、しかし彼女はすぐに踵を返して走り去っていこうとした。俺は彼女の後姿を呼び止める。


「頼む、待ってくれ!」


 愛歌は止まった。でも、俺の方を振り返りはしなかった。

 彼女の顔は見えない。だから、どんな表情をしているのかも分からない。

 

「愛歌、その……!」


 言葉が続かなかった。

 愛歌と話したいという事で頭が一杯で、具体的に何を話せばいいのか考えていなかった。

 くそ、何やってんだ俺、間抜け過ぎんだろ……!

 何も言えずにいた時だった。


「もうやめて!」


 その叫び声が愛歌の口から発せられた物だと気付くのに、一時を要した。

 愛歌が振り返る。その表情は、今まで見た事もない……冷たい物だった。俺を糾弾した時の、愛歌の母さんにそっくりだったんだ。俺が知っている優しい愛歌とは余りに違い過ぎて、全く同じ顔をした別人と思いたくなる程だった。

 彼女がそんな顔を出来るだなんて、そして今まさに、俺が愛歌にあんな顔をされているだなんて……信じたくなかった。


「私、音楽なんて最初から大嫌いだった。バンドなんかやりたくもなかった。それなのに、あなたが無理やり誘ったりするから……!」


 耳を疑う言葉が、俺に投げつけられる。

 これまで、これまで俺は愛歌は音楽が好きな子だと思っていた。バンドやってる時も楽しそうに笑っていたし、彼女自身も楽しいって言っていた。

 だけど、だけど違ったんだ。

 

「ドラムなんてうるさいだけの最低な楽器聞かされて、本当に嫌で嫌で仕方がなかった!」


 本心では、愛歌はバンドの活動を嫌がっていた。

 俺が見てきたあの笑顔は偽物、ただの作り物だった。彼女に見せた俺のあのドラムソロも、ただの騒音に過ぎなかったんだ。

 

「あなたとなんて話したくもない……もう私に関わらないで!」


 その叫び声には、涙が混じっているように思えた。

 走り去っていく彼女を、俺はもう引き留めもしなかった。スケッチブックが手から滑り落ちる、それを拾おうとも思わない。 

 思い出も何もかもが、壊れていくようだった。

 俺が愛歌にした事は、完全に間違いだったんだ。

 彼女が俺に向けていた笑顔は、所詮建前に過ぎなかった。本心ではずっと、彼女は俺を疎んじていた。楽しいって思ってたのは、俺の方だけだったんだ。

 いつからだろう、空が灰色の雨雲に覆い包まれていた。

 ぽつり、ぽつりと雨が落ちてくる。周りの生徒達が慌ただしく教室の中に戻り始める中、俺はただその場に立ち尽くしていた――。





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