第9話 幸福の終わり


 音楽の好みってのはは、まさしく人それぞれだ。

 ロックにバラードにメタル、インスト曲に洋楽……種類は多種多様で、人はその中でも気に入った曲を選び、CDを購入したり音楽プレイヤーに取り込み、その後も聞き続ける。だがその曲をいつ知ったのか、その曲と初めて出会った時、どんな気持ちだったか……それを覚えている人は、多分そういないんじゃないだろうか。

 だが、俺はその曲を初めて聞いた時の事を今でも鮮明に覚えていた。いや、忘れようにも忘れられないだろう。『お前の一番好きな曲は?』と問われれば、俺は今でもなお、間違いなくこの曲を挙げるだろうから。

 その曲が『Vindicated』、スパイダーマン2のエンドロールで流れる、軽快で爽やかなロック・チューンだ。

 そして俺達は今、愛歌の前で初めてこの曲を演奏してみせた。

 元々俺達はオリジナルの曲を作ったりしてるわけじゃなくて、あくまでコピーバンドとして活動していたんだ。各々が好きな曲を提案し合い、それを演奏するって事だ。

 ブルーハーツとかバンプ・オブ・チキンとかメジャーなとこが大半だった中、全編英語詞で、しかも馴染みの薄いであろう『Vindicated』がセットリストに入るのは異色と言って違いないだろう。

 バンドでこの曲をやってみたいとはいつも思ってた。だが無理だと分かっていたから、提案はしなかった。

 でも、俺のそんなひそかな夢を叶えてくれた奴がいたんだ。


「中々の出来具合だね、これなら十分ライヴで演奏出来そうだよ」


 愛歌の前で初めて『Vindicated』をプレイした後、リアムはそう評価を下した。完璧主義で几帳面なこいつが肯定的な事を言うのはちょっと珍しい。

 俺はドラムスティックをホルダーにしまい、ドラムベンチから立ち上がって愛歌に声を掛けた。


「どう愛歌、今の曲が『Vindicated』だよ」


 愛歌は演奏に参加せず、俺達の演奏を見学していた。彼女はスタジオのベンチに腰かけたまま、拍手する。


「何ていうのかな、英語だから意味はちょっと分からないけど……でも私は好きだよこの曲。気持ちが晴れるっていうか、元気が出てくる」


 歌詞は分からなくても、曲の雰囲気は感じ取れる。耳で聞かずに心で聞けばいい、なんてのはちょっとダサい台詞だろうか。

 でも、愛歌がこの曲を好きだと言ってくれて良かった。好きな曲じゃないと気が乗らないだろうし、それに俺の大好きなスパイダーマンの歌を愛歌と一緒に演奏出来ると思うとやっぱ嬉しい。

 愛歌は今度は、リアムを向いて言った。


「リアム君、英語すごく上手いね」


「父さんがアメリカ出身でね、小さい頃はロサンゼルスにいたんだよ」


 リアムはギターをスタンドに立て掛けて、そう答える。

 もうお分かりだろうが、バンドで『Vindicated』をコピーする事が出来たのはリアムがいてくれたからだ。アメリカに住んでた経験があって英語に堪能なリアムがいなかったら、この曲をプレイするのは不可能だっただろう。

 そして次にリアムは、スタジオの時計に目を向けた。


「さて、もうそろそろ時間かな。愛歌、今日も四時には帰らなくちゃならないんだろ?」


 愛歌の門限は四時、それは俺達全員が知っている事だった。

 きっと病気の所為なんだと思う。今思えば、愛歌は学校でもすっかり発作を起こさなくなっていた。

 そういえば、愛歌は以前からスタジオでは一度も発作を起こした事がない。どうしてだろう……?


「うん……皆ごめん、本当はもっと練習しなきゃいけないでしょ?」


 謝罪の言葉を紡ぐ愛歌、その表情は悲しげだった。自分の体の所為で俺達に迷惑を掛けている、とでも感じているのだろうか。


「そんな謝る事ないですよ、体の方が大事じゃないですか」


 愛歌に諭したのは光彦だ。


「そうだよ愛歌ちゃん。しっかり体調整えて、私達皆でライヴを成功させよう?」


「僕達は仲間なんだ、そんな気にしなくていい」


 ギターをケースにしまいながら奈々が言い、続いてリアムが愛歌を励ました。

 愛歌は頷いた、もうその表情からは悲しい色は消えている。

 最高のバンドメイト達だ、と俺は思った。このバンドのリーダーでいられて良かったと、心の底から感じる。

 俺は皆に促した。


「さ、帰ろうぜ」



 ◇ ◇ ◇



 帰り道、俺達は取り留めのない話をしながら歩いていた。

 リアムと奈々、それに光彦がゲームやらテレビの話で盛り上がってる中、俺は隣を歩く愛歌に問う。


「なあ愛歌どうだ、俺達とバンドやるのは楽しいか?」


「え?」


 不意の質問に、愛歌は目を丸くする。

 そりゃ、突然こんな事尋ねられたら面食らうよな。でも俺はバンドリーダーとして、それ以上に愛歌の友達として……どうしてもこの事を訊いておきたかったんだ。

 愛歌は少し戸惑った顔をしていたけど、すぐにいつもの笑顔を見せてくれた。


「もちろん楽しいよ。私、ずっと友達とこんな風に遊んでみたかったから。それに、私のピアノを誰かに聴いてもらえて嬉しい」


「前の学校では……友達いなかったのか?」


 彼女にとって辛い質問だって事は分かってた。

 遠慮がちに訊いたんだが……愛歌は俺の顔を見たまま、答えようとしなかった。その表情にまた、悲しい色が浮かび始める。

 やっぱり無神経な質問だった、俺は謝ろうとしたが、


「うん。今よりも体弱くて病院にいる事の方が多かったし、それに……」


 先んじて発せられた愛歌の言葉が、途中で止まる。

 俺は促すように、


「それに?」


 愛歌は、陰のある笑みを見せながら首を横に振った。


「ううん、何でもないの」


 そう言うと、愛歌は俺から視線を外してどこか遠くを見つめた。その瞳が何を映しているのか、俺には分からない。

 夏のにおいを含んだ風が、愛歌の長い黒髪を大きく揺らがせた。


「ずっと、この時間が続けばいいのにな……」


 風の音と共に、愛歌の口から発せられた言葉。

 それがいったいどういう意味なのか、俺は訊けなかった。彼女の目じりに、煌めく物が見えたからだ。

 ――涙?

 一体どうして……と思った瞬間、俺は困惑した。

 愛歌がいきなり、両手で口を押さえたんだ。どうしてそんな事を……と俺が考えたのと、愛歌が地面にしゃがみ込んで咳き込み始めたのは、ほぼ同時の事だった。

 これは……発作だ!


「愛歌!」


 この所は全然起こさなくなっていて、もう忘れかけていた。

 だが、自分の愚かさを悔いている余裕すら俺には与えられない。俺は傍に寄り、愛歌の顔を見た。

 愛歌は苦しそうに咳き込んでいた、彼女の額や頬に、変な汗が浮かんでいるのが分かる。それだけなら、今までの発作と同じだっただろう。

 だが、今度は違う事があった。口を押さえる愛歌の両手、その指の隙間から赤い物が漏れ出ていたんだ。

 それが何なのか、考える必要もなかった。血だ、愛歌が血を吐いているんだ!


「愛歌!?」


 異変を察したのだろう、後ろを歩いていたリアムが駆け寄ってくる。彼に続いて、奈々と光彦も来た。


「愛歌ちゃん!?」


「どうしたんですか!?」

 

 愛歌が答えるはずなどない。

 そうしている間にも愛歌は激しく咳き込み、血が飛び散る。何だよ、こんな事今まで一度もなかったのに……!

 どうしていいのか分からなかった。とにかく誰か、人を……そう思って周囲を見渡した瞬間、俺達の傍に一台の車が迫ってきた。見覚えのある黒塗りの大きな車――俺達の傍に停車してドアが開いたと思うと、一人の女性が下りてくる。

 この間遠目で見ただけだけど、忘れもしない……愛歌の母さんだ。


「愛歌!」


 俺達には目もくれずに、愛歌の母さんは娘に駆け寄る。

 香水のほのかな香りが鼻に届く。苦しむ愛歌を見るや否や、彼女はまばたきもせずに言った。


「こんな、だから言ったのに……!」


 眉間にしわを寄せながら発せられた言葉は、ぞくりとするほどの威圧感を帯びていた。

 愛歌を抱え上げ、車へと向かう愛歌の母さん。言葉など何も見つからず、俺達はただ見ている事しか出来なかった。

 すると不意に、


「治、右手……!」


 奈々にそう言われて俺は自分の右手を見た、そして息を呑んだ。


「っ……!」


 俺の右手……いや、右手だけに留まらない。手首から肘の関節あたりにまで、無数の血痕がついていて……真っ赤になっていたんだ。今の今まで全然気づかなかった、さっき愛歌が咳き込んだ時についたのだろう。

 心臓が凍りつくような感覚を覚え、まばたきも忘れてしまう。そんな俺に向けて、冷徹な言葉が投げつけられた。


「『治』……? あなたが埜上治なのね……!」


 ――どうして、俺の名前を……?

 そう思ったが、問い返す事など出来なかった。愛歌の母さんの鋭い眼差しに捉えられ、俺はただ立ち尽くすのみだった。

 困惑した俺の顔を映す、憎しみすら滲んでいる瞳……その理由が分からなくて、何も言えなかったんだ。


「この責任は、埋め合わせてもらうわよ……!」


 忌々し気な声を発したと思うと、愛歌の母さんは娘を抱えたまま車へと乗りこみ、走り去っていった。

 吐血した愛歌に、敵意とも取れる感情で俺を突き刺す愛歌の母さん……色々な事が起きすぎて、理解が追いつかない。

 悪い夢ならば、早く覚めてほしい。そんな無意味な願望を抱きながら、俺は今一度自分の右手を見る。

 愛歌の血で赤く染まった手……それが、さっきの出来事が夢なんかじゃなく、紛れもない現実である事の証明だった。





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